第4話 ボタンホール
お昼頃になって、アルベルトさんがわたしを探しに来た。わたしはあわてて斜面を駆けおりた。
「どうしたんですか?」
「ちょっと来てくれ」
そう言うものだから、ついていく。
アルベルトさんは朝来た道を戻り、途中で道をそれて、お屋敷の果樹園に入っていった。広い敷地に、オレンジやぶどう、りんごの樹が並んでいる。
果樹園の片隅に小さな小屋があり、その小屋の古びた扉を、アルベルトさんはどんどんとたたいた。爺さん、トニオ爺さん、と呼ぶ。
「あいよー!」
返事は後ろから戻ってきた。振り返ると、りんごの木にかけたはしごの上から、小柄なお爺さんが、ひょこひょこと身軽に降りてくるのが見えた。ベージュのシャツに、毛織りのズボン。日に焼けた顔に、白髪の巻き毛――うわあ。昔話に出てくる『良いおじいさん』、そのままの見た目だわ。
「この子に仕事を紹介してくれないか」
アルベルトさんが、横に立つわたしを手のひらで示す。
トニオお爺さんは目を瞬かせた。
「……いやぁ、でも、こんな細っこい子じゃなぁ。果樹園の仕事は力がいるぞ?」
「そうじゃなく、ロザンナのところでだ」
「ああ、なるほどなるほど」
お爺さんは腑に落ちた、という顔をした。それから
「しかし、どうしたね。この子、どこの子だね?」
そう聞いた。
「山向こうの子だ。昨日、連れてこられたんだ」
「ははぁ」
「騎士連中がさらってきたらしい。修道院にいたそうだ」
「ははぁ……」
トニオお爺さんは驚いたように顎ひげをなでた。それから、わたしに言った。
「てことはお前さん、異教徒かね」
わたしは思わず飛びあがった。
「いっ、異教……っ!?」
「旧教徒だ。だがまだ子供だし、糸紡ぎも繕い物もできるらしい」
「ははぁ……。でもなんでお前さんが?」
「俺にもよくわからん」
「…………ははぁ……」
トニオ爺さんはふたたび顎ひげをなでた。
二人の間で話がまとまり、アルベルトさんとお爺さんは、わたしを連れて歩き出した。
「しかしなぁ、儂はてっきり、あの子、お前さんの姪っ子かなんかと思ったがなぁ」
と、トニオ爺さんが言う。
「まぁ、それにしちゃあ黒尽くめだし、髪も短いがなぁ」
「あのっ、この髪は、夏に、熱病で抜けちゃって」
もう何度目かの説明を、わたしは繰り返した。
「でも、もう治ってますから!」
「そうかいそうかい」
畑を過ぎ、松林のふちをぐるっと回る。すると、丘のふもとの道に出た。片側が林、片側が牧草地の田舎道だ。
その道を少し行ったところに、一軒の家が建っていた。……って、あら? この家、さっきわたしが林の中からのぞいた、丘のふもとの農家じゃない。
前を行く二人は、家の庭に入っていく。さっき、わたしが上からのぞき見していた、あの庭だ。濡れた洗濯だらいが、柵に立てかけられている。その上では、さっきも見た洗濯物が、風に揺れている。そして――
「あら、父さん。それに、アルベルトも」
さっき洗濯していたおかみさんが、家から出てきて、お爺さんに挨拶した。
それからアルベルトさんを見て、わたしを見て、これは誰だ? という顔をする。
「マルティナだ。仕事を探してる」
と、アルベルトさんが言い、
「お前のところで、使ってやってもらえないかと思ってねぇ。イルマが嫁いじまって、繕い物の手が足らんだろう?」
と、トニオお爺さんが付け足す。
おかみさんは腑に落ちない顔をした。
「って言ったって、何だってうちで? お屋敷の子じゃないのかい」
「山向こうの子だ。騎士どもがさらってきた」
「はあっ?」
おかみさんは大声を出した。
「さらってきたあ??」
「領主お抱えの連中が、他の娘と一緒に、つぶれた修道院からさらってきたんだ。昨日」
「……って、旧教徒じゃないか!」
「そうだ。屋敷で働かせるのも、まずいだろう」
アルベルトさんの言葉に、おかみさんが顔をしかめ、こんなに小さな子をかい、とつぶやく。
それからもう一度、アルベルトさんの顔を見て、
「……でも、そんな子を、なんだってアンタが面倒見てるんだい?」
「俺にもよくわからん」
「わからんって……」
呆れたような顔をしたおかみさんが、わたしを見る。わたしは思わず小さくなった。どう考えても、皆さんに迷惑をかけすぎている。
「――つっても、あんた、何ができるんだい?」
たずねられ、わたしは慌てて顔を上げた。
「あっあの、糸紡ぎも機織りも、縫い物も出来ます。簡単なお料理も、畑仕事もできます」
「羊の番は?」
「……やったことがありません」
尼僧院の外には、ほとんど出たことがない。
「まだ子供だし、給金はいらない。昼飯だけ食べさせてくれればいい」
アルベルトさんが言い、おかみさんが腕を組む。
「食べさせて、ねえ……。たしかにえらくがりがりだけど」
「今年の夏にねぇ、流行り病にかかったらしいんだよ。となると、外仕事は大変だろう?」
とトニオお爺さん。
「髪もそのせいかい?」
と、おかみさん。
「はい。高い熱が出たあと、抜けてしまったので、切ったんです。あ、でも病気はもうすっかり治りましたから」
「うーん……」
おかみさんは考えこんだ。そして言った。
「ちゃんとした腕があるなら、いいけど。いい加減な仕事をされちゃ、こっちも困るんだよ。まずは、どのくらい縫えるか見せとくれ」
「――はい!」
+
おかみさんは、トニオお爺さんの実の娘さんだった。
名前をロザンナさんと言う。
ロザンナさんと話がつくと、お爺さんとアルベルトさんは、お屋敷に帰っていった。二人ともまだ仕事があるのだ。
「ここいらの人の、裁縫の仕事をさ。上の娘とわたしとで請け負ってたんだけど」
わたしを家に招き入れ、テーブルに座らせながら、ロザンナさんが言う。
家の中は、居心地の良さそうな雰囲気だ。大きなテーブル、大小のお鍋。洗い上げられた布巾。ピクルスや油漬けの瓶詰め。
「上の娘のイルマが、去年、町に嫁いじまったからね。たしかに手は足りないんだよ。……昼の残りだけど、これでいいかね」
そう言って、おわんによそってくれたのは、トマトソースで煮込んだパスタだった。たっぷりのトマトとサラミが入っている
「にしても、本当にがりがりだねえ。今まで何を食べてたんだよ」
そう言われても困るのだけど……。
冷めたパスタは、それでもとても美味しかった。ソースまで残さずにいただき、わたしは行儀よくスプーンを置いた――はずだったのだが、そこでロザンナさんがじぃっと、こちらを見下ろしているのに気がついた。
「……もっと食べな。欲しいんだろ」
言われて、かっと赤くなる。嫌だ。そんなに顔に出ていただろうか。
「お試しとはいえ、あんたを引き受けたあとで、餓え死になんてさせられないからね」
ロザンナさんはため息をつき、もう一杯よそってくれた。
お腹が一杯になったところで、仕事の説明を受ける。
「裁縫の仕事と言っても、お屋敷のお針子みたいな腕はないからね。あたしんとこに来るのは、このへんの男どもの仕事着さ。あんた、ボタン穴はかがれるかい?」
わたしは大きくうなずいた。尼僧院では、真っ黒な修道服のボタン穴を、十も二十もかがったものだ。
「なら、お手並み拝見といこうか。言っとくけどあたしは、縫い目が汚いのは許さないからね。あと、手が遅いのも駄目だよ」
わかってますとも、任せてください。
明るい軒下に椅子を出し、男物のシャツを膝に乗せる。ボタン穴はもう切ってあり、糸で周りをかがるだけだ。
わたしはさっそく、針に糸を通した。こういう細かい仕事は嫌いじゃない。きれいに仕上がって喜んでもらえたら、嬉しい。手が遅いのが駄目と言うなら、いいわ。尼僧院で培った腕前を、今こそ発揮してみせる。
一心不乱に縫って縫って、どのくらいの時間が経っただろうか。
わたしはふと顔を上げた。
すると、目の前に、見知らぬ少年がしゃがみこんでいた。こちらをじいっと見上げている。
「――きゃっ!」
知らない子に、いきなり顔をのぞきこまれていたら、驚く! って、……ううん、違うわ。この子、あの子だ。さっき洗濯の手伝いもせずに、遊びに行った男の子。
わたしが悲鳴を上げると、男の子は目を丸くした。それから、ぱっと立ち上がり、叫んだ。
「かあちゃーん! こいつ、男なのに女の服着てる! からすみたいに真っ黒なやつ!」
からす!?
――男!!??
「マルティナだよ! 髪は短いけど、女の子だよ!」
家の中から、そう、ロザンナさんが叫び返す。
「仕立ての仕事をやってくれてんだ! 邪魔すんじゃないよマルコ! 余計なこと言ってないで、草むしりやっとくれ!」
言いながら、ロザンナさんが家から出てくる。そしてこちらを見下ろすと、すい、と手を差し出した。わたしは縫いかけのシャツを渡した。
「――いいね。基本ができてる」
その言葉に、心底ほっとする。縫い物には自信があるけれど、かなりどきどきした。
「もっと早くできると、もっといいけどね。子供にしちゃあ、上出来だ」
「えっ」
わたしは思わず、ロザンナさんを見た。
「ん?」
「わたし……もう十五なんですけど……」
十五歳は、普通、子供とは言わない。働きに出て当たり前だし、結婚する子もいる。
「えっ?」
ロザンナさんは声を上げると、わたしの頭から足へ、足から頭へと、順繰りに目を走らせた。
「……あれまぁ……」
「――――」
ええ、はい。判ってます。この背丈にこの体つきでは、年相応には見えないってことは。それでも昔は、背中の真ん中まで届く、長い黒髪があったのだけれど、今はそれもない。
自分でも思う。これじゃ、下手をすれば、十歳そこそこに見えるかもしれないと。
「――まあ、いいじゃないか」
落ち込むわたしに、ふと、ロザンナさんが微笑んだ。
「今回はそれで助かったようなもんなんだろ、あんた」
「……はい」
そう。……髪が抜けてしまった時は、ずいぶん泣いたけれど。
多分、だからこそ、わたしはお屋敷のお偉い男の人たちの、情人にならずにすんだのだ。
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