第3話 栗鼠(りす)
翌朝。
朝ごはんは、昨夜と同じ麦のおかゆだった。
小屋には鍋もおわんも一つしかなかったので、わたしはおわんを、男の人は鍋を、そのまま、食器として使った。スプーンも一本しかなかったけれど、男の人はナイフを使って、あっという間に、適当な木切れから平らなおさじを削り出してしまった。
暖炉の前で、黙々とおかゆを食べる。開いた戸口から、朝の光が射しこんでいる。鳥の声も聞こえる。
「……あの」
二人ともがおかゆを食べ終わると、わたしは言った。
「あなたのお名前は、なんと言いますか。わたしはマルティナと言います」
「アルベルト」
と、男の人は答えた。
「アルベルトさん」
わたしは言った。
「ここには何か、わたしに出来る仕事はありますか」
養うあてもない人間に、転がり込まれても困るだけだろう。
アルベルトさんの格好を見ても、暮らしぶりを見ても、本来、ここにわたしの居場所がないことは、明白だ。
「…………」
アルベルトさんは、すぐには答えなかった。空になった鍋を前に、何か考え込んでいる。
「わたし、糸紡ぎや機織りができます。繕い物もできます。ビスケットも焼けるし、畑の仕事もできます」
どれも、尼僧院で毎日のようにしていたことだ。
「……何かないか、探してみるが」
そう、アルベルトさんは言った。
そして続けた。
「とりあえずあんたは、今は、人前に出るな」
+
人前に出るな、とはつまり、屋敷の人達の前には出るな、ということだ。
つまり――
アルベルトさんと同じ、屋敷の下働きの男の人の中には、わたしがアルベルトさんのものになったことに、納得していない人もいるかもしれない。
アルベルトさんが手を出してもいいなら、自分だって手を出してもいいはずだ、と考える人も、いるかもしれない。
食事のあと、アルベルトさんは仕事に出掛けた。
お屋敷の裏手に広がる、広い野菜畑が彼の仕事場だ。
アルベルトさんはそこで、お屋敷の毎日の食卓にのぼる、季節の野菜を育てている。
お手伝いしてもいいですか、と聞いたら、お屋敷の人に聞かないと駄目だと言われた。それはそうだろう。お屋敷に仕える立場の彼が、許しも得ずに下働きを雇うわけにはいかない。
けれど、昼のあいだじゅう一人きりで、彼の小屋にいるのは、ちょっと怖かった。一人でいるときに、物陰に引っぱりこまれて襲われた女の人の話を、幾度も聞いてきたせいだ。
その不安はアルベルトさんにも伝わったようで、畑のまわりの松林になら、いてもいい、と言われた。そこなら誰も来ない、と言ったあと、アルベルトさんはぽつりとつけ加えた。
「……退屈なら、
栗鼠!
わたしは思わず立ち上がった。小さい動物は大好きだ。
彼のあとについて、果樹園の横を抜ける小道を歩く。緑に囲まれた、気持ちのいい道だ。
振り返れば、丘の上に大きなお屋敷が見える。昼の光で見ても、立派なお屋敷だった。
やがて目の前に、広い畑が広がった。
山一つ向こうのライデンよりも、ここはずいぶん温かいようで、秋が深まりつつある今の季節にも、畑には青菜が育っていた。リーキやホウレンソウ、ルッコラ……。どれも丁寧に世話をされており、みずみずしくて美味しそうだ。わたしたちの口には入らないのだろうけど。
「松林って、あっちですか?」
畑の向こう、丘の斜面に広がる木立ちを、わたしは指差した。アルベルトさんはうなずき、畑が見えないところまでは行くな、と言って、自分の仕事を始めた。作業小屋から鍬を出し、どうやら、じゃがいもの収穫をするようだ。
できれば手伝いたいが、そういうわけにもいかない。わたしは広い畑のふちをぐるっとまわり、その向こうの松林まで歩いた。露のおりた朝の畑は、清々しい、いい匂いがした。
近づいて見ると、そこは、明るい日の光の差し込む、さわやかで気持ちのいい場所だった。茶色い落ち葉がふかふかと敷き詰められ、ツンと松のさわやかな匂いがする。
振り返ると、広い畑の向こうに、畝にかがみ込んでいるアルベルトさんの背中が見えた。
わたしは林の中を歩いてみることにした。
落ち葉におおわれた、ゆるい斜面を登る。足元には羊歯やツタ、野いちごなどが生えている。もっとも、いちごは今は時期ではない。
栗鼠はいるだろうか?
足を止め、じっと待つ。
すると、樹の上の方で、かすかな物音が聞こえた。
音がしたほうを見ると、一匹の栗鼠が、枝の上に座っていた。小さな松ぼっくりを両手でつかみ、口を細かく動かして食べている。アーモンドの形の、濡れたような黒い目をしている。
次第に目がなれてくると、一匹だけでなく、何匹もいるのが見えてきた。
ぽとり、と食べ終わった松ぼっくりを落とす栗鼠。とととっ、と枝の上を走る栗鼠。ふさふさしたしっぽが揺れている。とても可愛い。
「ふふ……」
思わず顔がにやける。栗鼠は大好きだ。ネズミも小さいのなら可愛い。大きいネズミは人を噛むから嫌いだけれど。
林はとても静かだった。ときおり小鳥が鳴く声と、栗鼠がたてる物音しか聞こえない。
わたしは太い木の根元に腰を下ろし、落ち葉の上に足を伸ばした。木漏れ日を浴び、ゆっくりと息をつく。
こんなに広い場所で一人きりになったのは、いつ以来だろう。尼僧院ではいつも、みんなと一緒だった。一人の時間など、ほとんどなかった。それを鬱陶しく思う日もあったけれど――。
そのみんなも、もういない。
カーラたちは今、どうしているだろう。お屋敷の中にいるのだと思うけれど……。
「…………」
わたしは立ち上がり、歩き始めた。
畑の見えないところまでは行くなと、アルベルトさんは言った。丘の向こうに行かなければ、大丈夫ということだろう。
しばらく登ると、木立ちが開けたところに出た。初めて、丘の下の景色が見えた。ごく当たり前の、田舎の村の風景。畑と木立ちと放牧場。ところどころに、小さな家が散らばっている。
この丘の下にも、一軒ある。石造りにスレート葺きの、質素な家だ。母屋の前に庭があり、動きまわる人の姿が見える。
わたしは樹の幹にもたれ、その家をじっくりと眺めた。
灰色の服を着たおかみさんが、井戸のそばで洗濯をしている。大きなたらいを前に座って、両手でごしごしとこすっている。そのとなりでは栗色の髪をたばねた娘さんが、洗った服を干している。その二人のまわりをうろうろしているのは、灰色のズボンをはいた男の子。手に小さなおわんを持ち、地面になにかを撒いている。ああ、そうか。鶏に餌をやっているのだ。
あっという間に鳥たちが集まってくる。みんなで土をつついている。コッコッというやかましい声が、ここまで聞こえてきそうだ。
鶏の餌を撒きおえた男の子は、母さんと姉さんの手伝いをするのかと思ったら――あら? 餌入れをぽいと放りだし、そのままどこかに遊びに行ってしまった。なんてこと。悪い子だわ。
「……ふふっ」
ごく普通のおうちの、ごく普通の朝の一幕。尼僧院で育ったわたしには、新鮮な風景だ。……そう考えてから、ふと、思った。
わたしにも、家があったら。
血のつながった家族と一緒に暮らしていたら。
こんな目には合わなかったのだろうか。こんな、牛や馬みたいに、無理矢理連れてこられるようなことには。
そう思ったら、さっきまで微笑ましく見えていた人たちの姿が、急にねたましく思えてきて――
わたしは黙って、その場にしゃがみこんだ。
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