第2話 藁
とても暗い夜だった。お屋敷の敷地は広く、塀に沿って続く細い道を、わたしは彼のあとについて歩いた。明かりは彼が持つカンテラ一つ。
納屋の中では、まだ、屋敷の男たちが娘たちを取り囲んで議論していた。要は、誰がどの娘を取るかという話し合いだ。それが女中としてなのか、情婦としてなのかは考えないようにする。それを考えると、仲間の娘たちを裏切った気分になるから。裏切って、自分だけ逃げた気分になるから……。
とは言っても、わたしだって、この人にもらわれたのだけれど。
わたしは前をいく男の人の背中を眺めた。背が高く、身体が大きい。いかにも農夫、という感じだ。さっきから一言も口を利かない。というか、彼の声をまだ聞いていない。
と思ったら、その彼が口を開いた。
「ここだ」
そう言って、松の木立ちのそばにある、灰色の小屋の戸を開ける。
石造りの粗末な小屋だ。
小さな戸口をくぐる。中は暗かった。彼は慣れた手付きで、カンテラを壁の釘にかけた。
そして。
明かりに照らし出された室内を見て、わたしは、はっと息を飲んだ。
小屋の中には、恐ろしいほど何もなかった。小さな暖炉と、小さな腰掛けと、ぼろ布が丸まった、粗末な寝台だけ。たったそれだけ。あとは何もない。テーブルすらない。まるで……まるで、荷物を全て運び出されたあとの、からっぽの部屋みたいだ。
そう思ってから、わたしは自分で自分が嫌になった。相手の都合も考えず、勝手に押しかけておいて、今さら、相手の貧しさに驚いているなんて。わたしはなんて、なんて……卑しい人間なのだろう。
でも。そうは思っても、やはり、驚かずにはいられなかった。だって――ああ、なんてこと。この部屋には、神の御言葉をしるした聖典さえないのだ。旧教徒であろうと新教徒であろうと、どんな家にも必ず、一冊はあるはずなのに。これじゃあ、どうやって日々の祈りをささげればいいのだろう――。
立ちつくすわたしをよそに、男の人は火を起こしはじめた。暖炉の前に膝をつき、火かき棒で熾を掻きだす。
「あっ、わたしがやります!」
わたしは慌てて膝をつき、そばにあった粗朶を手にとった。こういうことはきっと、女の人の仕事だ。
「あんた、出来るのか?」
男の人は驚いたように言った。わたしが思わずぽかんとすると、
「尼僧なんじゃないのか?」
そう、付け加える。
「えっ、あっ、いえ、尼僧ではなく、尼僧見習いです!」
慌てて訂正してから、ふと、気づく。もしかしてこのひと、尼僧は火の支度などしないと思っているの? ……ああ、でも、そうかもしれない。人前での尼僧は、ただひたすらしずしずと歩いて、聖歌を歌うだけだもの。
「あっ、あのでもっ、尼僧も尼僧見習いも、火の支度ぐらいは出来ますから! お料理もお洗濯も、繕い物もできますからっ!」
焦って言ってから、思わず赤くなる。これでは自分で自分のことを、お買い得ですよと言っているようなものだ。
男の人は少し驚いた顔をした。わたしの言ったことに驚いたのか、わたしの剣幕に驚いているのかは判らない。
「……そうか。なら、頼む」
そう言うと、男の人は立ち上がった。
「は、はいっ!」
思わずつられて立ち上がりながら、わたしは外に出ていく彼の背中を見送った。
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熾火の上に、粗朶を置く。粗朶に火がついたら、細い薪を置く。やがて薪から炎が上がり、あたりを赤く照らし始める。
それを見届けながら、わたしは一人、床の上にしゃがみこんでいた。
……どうしよう。何かした方がいいのだろうけど、何をしていいのかわからない。
仕方なく、ふたたび部屋の中を見回す。小さな暖炉。その上の小さな鍋。床に積まれた薪。そして――。壁際の寝台に目が留まり、わたしは慌てて目をそらした。
彼が帰ってきたら、あそこで一緒に寝るのだろうか。
そうすれば何が起こるのかは、だいたい承知していた。
世の中の人は、尼僧院の尼僧はきよらかで、『そういうこと』について何も知らないと思いこんでいる。
けれど、違う。尼僧院というのは、男の人に手篭めにされたり、そのあげく孕まされたりした女の人が、最後に逃げ込むところだからだ。
だから……世間にあふれるそういう事件について、わたしたちは知りたくなくとも知ってしまっていたし、わたし自身、そんな女の人のお産のために、夜通しお湯を沸かしたり、リネンを洗ったりして、手伝ったこともある。
中には、お産の最中に死んでしまった女の人もいた。その人は今も家に帰ることが出来ず、尼僧院のはずれの小さなお墓に埋められている。相手の男の人は、そんなこと、何も考えずに暮らしているのだろうけれど――。
だから。
彼の足音が聞こえた時、わたしは体がすくむのを止めることが出来なかった。
もちろん、自分で選んだことだ。あのお屋敷の、人を見下す笑みを浮かべた、怖い男の人達よりも――あの一瞬、わたしの背に触れた、優しい手のほうが、まだ。
けれど、それでも、怖かった。どうしようもなく。
ぎい、と小屋の戸が開き、わたしは身を縮ませた。そうしながらも、振り返る。
すると――目に飛び込んできたのは、予想外のものだった。
黄色い藁。
藁のかたまり。
戸口の向こうに立つ彼は、両手に、一抱えもある藁束を抱えていたのだ。
「……ちょっとそこ、どいてくれ」
そう言われ、慌てて場所をあける。彼は藁束をどさりと床に置き、ほどいて広げはじめた。
「あっ、あの」
わたしは困惑して立ちつくした。これは、敷き藁? ここに、馬でも連れてくるのだろうか?
藁を平らに広げると、男の人は、今度は、手鍋を持って外に出ていった。その鍋に水を汲んで戻って来る。そして暖炉の上の容器から、ひき割り麦を二つかみ入れて、火にかけた。
鍋が煮えるのを待つ間、どちらも、何も言わなかった。やがて、麦のおかゆがくつくつ言いはじめると、彼はそれをおわんに流し入れ、わたしに差し出した。
「こんなものしかなくて悪いが」
「えっ」
わたしは慌てて首を横に振った。
「――いいえ、まさか! 尼僧院でもずっとお粥でしたから! それも、もっとずっと薄かったですから!」
嘘ではない。尼僧院と言っても半分は孤児院のようなものだ。毎日配られるおかゆは、量が少ない上に薄く、わたしたちはいつもお腹をすかせていた。
男の人はまたしても驚いた顔をすると、ちょっと身を引くようにしてわたしを見た。
「……それでそんなに痩せてるのか」
わたしは思わず赤くなった。
「あっ、いえっ、これはその、夏に病気をしたからです! その前はもう少し太ってたんです! あっでも、病気と言っても疫病ではありませんから! もうすっかり治りましたし!」
勢いよくまくしたて、それから、さらに赤くなる。太っていただの何だのと、何を言っているのだろう。子豚を売るのでもあるまいに。
「……とにかく、食べろ」
「は、はい……」
騒がしい人間だと思われてしまっただろうか。恥ずかしい。
わたしは大人しく腰を下ろし、もちもちしたおかゆをいただいた。熱くて、濃くて、美味しい。しゃばしゃばと薄い、院のおかゆとは大違いだ。
男の人はもう一度外に出て、今度は冷えた錫のカップに、水を汲んできてくれた。手渡されたので、それもいただく。冷たくておいしい水だった。
「ありがとうございます。……ご馳走様です」
わたしがお礼を言うと、男の人は言った。
「食べたら、寝ろ」
「え」
思わず顔を上げたのは、そう言った時の彼の視線が、壁際の寝台ではなく、暖炉の方に向けられていたからだ。暖炉の前の、敷き藁に。
え?
……えっ?
ということは、もしかして、そうなの? この藁は……わたしのための寝床なの?
わたしは床に敷かれた藁を見つめた。それから、奥の寝台を見た。そうすべきではないと思うのに、思わずそうしてしまった。それから、彼の顔を見る。目が合って、思わず視線を逸らす。
……いいのだろうか?
別々に寝るので、いいのだろうか?
けれど、いいんですか? とは聞けなかった。よくない、と言われるのが怖い。
「あ……っ」
わたしはただ、のどから声を絞り出した。こんなところで黙っているのは変だ。
「……りがとう、ございます」
ぎゅっと目をつむり、頭を下げる。ぎくしゃくと床に膝をつく。もそもそと藁に横たわる。……ああ、でも、駄目だ。借りたお皿を洗わなければ。お鍋もコップも洗わなければ。彼の都合も考えず、勝手にすがりついたのだから、せめて役に立たなければ。
でも、今は無理だった。あまりにほっとしたせいで、泣きそうだった。わたしはちくちくする藁に顔をうずめ、奥歯を噛みしめた。そうして息を殺し、声を殺して、泣くように、祈るように思った。
――ありがとう。
有難うございます、本当に。
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