マルティナ――十五歳の尼僧見習い、三十五歳の小作男の嫁になる
青猫
第1話 国境線
国境線が変わった。
理由は、うちの国の王様が、となりの国との戦争に負けたから。
王様は講和の条件として、わたしたちが住むこのライデン地方を、となりの国の王様に差し出した。
わたしが十五年間暮らしてきた、このライデン尼僧院も、となりの国のものになってしまった。
噂では、となりの国の王様は、旧教徒が嫌いなのだそうだ。
旧教徒が建てたこの尼僧院も、わたしたち尼僧のことも嫌いなのだって。
そのせいだろうか。
国境線が変わったその日のうちに、わたしたちの尼僧院は、お取りつぶしになってしまった。
院長であるゴッサ修道士様と、アレンデ尼僧長様もいなくなってしまった。
わたしたちを日々、教え導いてくださった、24人のシスター達も、行方がわからなくなってしまった。
そしてわたしたち、78人の見習い尼僧たちは、何一つ持たないまま、住み慣れた尼僧院を追い出されることになった。寒い寒い、秋の朝のことだった。
わたしたちには、行くところがなかった。
だって、みんな、孤児だったから。
なので、尼僧院の閉じた門の前に、みんなで固まるように座っていた。
そこに、二十人ほどの騎馬の男たちが、荷馬車を何台か引き連れて、やってきた。
ピカピカ光る剣を腰にさした男たちは、わたしたちをぐるりと取りかこむと、一人ずつ腕をつかんで立たせた。そして、かぶっていた尼僧の黒いずきんを脱がせると、わたしたちを何組かに分けて、別の荷馬車に乗せていった。こんなふうに――
「ほれ、金髪が一人」
「――ほい、金髪が一人」
「ブルネットが一人」
「――ブルネット一人」
「ああ、こいつは顔がいまいちだ。あっちの馬車に乗せろ」
「何だお前、自分のとこにばかり、いいのを選んでずるいぞ! 少しはこっちにもまわせよ」
正直、何が何だかわからなかった。小さな女の子たちの中には、泣き出す子もいた。
無理もない。新しい院長に、手のひらを鞭でたたかれることはあっても、こんな扱いは初めてだもの。
やがて、わたしの番がきた。わたしは友達のアンナマリアとベッラと一緒に立っていたけれど、男たちに腕をつかまれ、引きはなされた。
わたしの腕をつかんだ男は、乱暴な男だった。男はわたしのずきんを脱がせると、顔をしかめて言った。
「なんだぁ、こいつ」
そして、三人のうちわたしだけを、違う馬車に向かって突き飛ばした。
「マルティナ!」
わたしの名前を叫ぶ、ベッラの声が聞こえた。けれど、戻ることは出来なかった。馬車の前で待っていた男が、わたしを抱え上げ、馬車の荷台に押し込んだ。
わたしとアンナマリアとベッラは、三歳からずっと一緒だった。
けれど、家族も同然の二人の姿をわたしが見たのは、それが最後だった。
やがて、荷馬車は出発した。吹きっさらしの荷台には、わたしを含めて八人の少女が乗っていた。
+
谷間を縫い、峠を越える街道を、半日のあいだ、旅した。
わたしは生まれてはじめて、国境の山並みを越えた。
――いや、もと国境、と言うべきなのかも。わたしたちはもう、この国の人間になったのだから。
午後になって、広い丘陵地が見えてきた。
あたりに広がるのは、見慣れない田園の風景だ。丘の上に広がる放牧地、その奥に続くぶどう畑。その中を伸びる、灰色の土の街道。
分かれ道がくるたび、一緒に進んでいた他の荷馬車は、一台、また一台と離れていった。
いつしか、わたしが乗る馬車だけが、一本道を進んでいた。わたしは悲しかった。アンナマリアにもベッラにも、もう二度と会えないのだろうと思った。
夜になるころ、大きなお屋敷についた。
まわりじゅう真っ暗で、お屋敷の様子はよく判らなかったけれど、入り口の門の立派さや、庭の広さから考えて、そうとう偉い人の住まいだろうと思われた。
やがて、馬車が止まった。
「降りな」
旅のあいだ、馬車の横にずっとついていた、騎馬の男が言った。彼も疲れているようだった。
わたしたちが荷馬車を降りると、カンテラを持った男たちが、ぞろぞろとわたしたちを取り囲んだ。そして手に持った明かりでこちらを照らして、たがいにぺちゃくちゃとしゃべった。
「見ろよ、あの背の高いの、べっぴんじゃねえ?」
明かりを掲げた男の一人が言えば、
「だよなぁ。でもどうせ、ああいうのは俺らには回ってこねえよ」
そう言って、もう一人がうなずく。
「ちがいねぇ」
言いながら、男たちはげらげら笑った。
「――いいから早く連れてこい!」
誰かの大きな声が聞こえた。見ると、暗がりの先に明かりのついた建物があって、四角い扉が開いていた。中からオレンジ色の明かりが漏れて、地面に黄色い光を落としていた。その戸口に男の人が立って、こちらに向かって手招きしていた。
「早くしろ、ご主人さまがお待ちだぞ!」
男たちはわたしたちを取り囲んだまま、ぞろぞろ歩いて行った。
時刻はもう、夜の十時を回っていただろう。あたりはしんしんと冷え、わたしの手はかじかみ始めていた。
+
尼僧院で暮らしているあいだ、わたしたちはとなりの国について、色々な噂を聞いていた。
となりの国の王様や人々は、わたしたちと同じ神様を信じているけれど、でも、『宗派』というものが違うのだそうだ。
彼らは新教徒と呼ばれる人たちで、わたしたちは旧教徒。そして、わたしたち旧教徒と新教徒は、長いあいだ戦争をしている。
同じ神様を信じてはいても、彼らはわたしたちを嫌っている。旧教徒は嘘つきで怠け者だと言われているし、邪教の手先だなんて噂もあるという。旧教徒の女には、魔女が混ざっていると、本気で信じている人もいる。
それに、こんな話もある。
ふつう、敬虔な新教徒は、神が定めた教えにしたがい、一夫一妻を守る。
けれど、相手が旧教徒である場合にかぎっては、この決まりを無視することがあるという。
相手が神に逆らう旧教徒の女であるならば、妾として囲ったとしても、目こぼしされるというのだ。……もちろん、褒められた行いではないけれど。
+
わたしたちの連れてこられた建物は、どうやら、倉庫か、納屋のようだった。
わたしは一番うしろから、皆の後についていった。背が低く、容姿も悪いわたしを、前に引き出そうとする者はいなかった。
広い戸口から、中に入る。すると、木材やたるや馬車の車輪の前に、あかがね色の絹の服を着た、中年の男が立っていた。
「よく来たな、お前たち」
まんざら優しくなくもない声で、男は言った。
「お前たちには、これからわたしたちのもとで働いてもらう。これまでの暮らしは忘れ、よく務めるのだぞ」
男の横には、彼とよく似た服を着た若い男が三人、立っていた。
たぶん、この屋敷の主人と、その息子たちなのだろう。
なら、その周りにいる男たちはなんだろう? 皆、いい身なりをしているから、このあたりの有力者か、お金持ちなのかもしれない。
彼らは一体、わたしたちをどうするつもりだろう。どうしてこんなところに連れてきたのだろう。
もしかしたら彼らは誠実な新教徒で、ただ、若い女中が欲しいだけなのかもしれない。わたしたちを妾にするつもりなど、ないのかもしれない。人を疑ってかかるのは、よくないことだ。
にもかかわらず、わたしの足はすくんだ。他の娘たちも、それは同じだろう。
「ほら、前に出ろ」
まわりを取り囲む男たちが、戸口に立つわたしたちにうながす。
「旦那様のお目にかかるんだ」
「僕はあの子が気に入ったな」
屋敷の主人の息子の一人、背の高い青年が、高い声でそう言うのが聞こえた。
「ほら、あの背の高い、金髪の子だよ」
「なら、僕はあの髪の長い子だ」
と、もう一人の息子が言った。
「あの、ふわふわした栗色の髪のさ」
「お前たち、もっと前に来い」
と、屋敷の主人が言った。
「顔がよく見えないだろう」
周りに立つ使用人たちが、わたしたちをさらに押す。まわりから押され、皆、じりじりと前に出る。
一番後ろにいたわたしの背中にも、誰かがそっと手を当てた。そして、そうっと、前に押した。まるで、そうしたくはないかのように。泣き出しそうな子供に、そっと触れるように。
その手が、優しかった。
……その手が、優しかったのだ。
だから、わたしは顔を上げた。目を上げて、うしろを振り仰ぐと、そこにいたのは、屋敷の使用人の一人らしき男の人だった。背が高く、身体が大きい。三十絡みの男の人だ。
わたしと目が合うと、男の人は少し目を見開いた。
そして、その瞬間。
どういうわけか、わたしは、決心してしまったのだ。
それは、ひどく追い詰められた人間の、とっさの判断だった。どうにかしてこの人に助けてほしいと、そう、願ってしまった。
「あ、あの!」
震える声で、わたしは言った。というか、口を開いてみたら、みっともないほど声が震えていた。
「わ、わたしは、この方にもらわれたいです!」
言いながら、わたしは後ろにいた男の人の服にしがみついた。つい今しがた、わたしの背を押した人の服を。
服をつかまれた当人が、誰より驚いた顔をしたけれど、そんなことを気にする余裕はなかった。
今朝から――色々な男の人に、腕をつかまれ、こづかれ、引っ立てられ、突き飛ばされた。頭巾をむしりとられ、じろじろと顔を見られ、嘲るように顔をしかめられた。誰一人、彼のように、そうっと触れた人はいなかった。
理由はそれだけ。
ただそれだけ。
でも、それだけで、思ってしまったのだ。出来ることなら、この人から離れたくないと。
まわりの人たちは、呆気にとられた顔をしていた。屋敷の男の人たちも、こちらを振り向いた娘たちも、みんな、驚いた顔をしていた。
「あんた……」
娘たちの一人、わたしとは顔見知りのカーラが、かすかに、呆れたような声をもらした。
判ってる。
というか、自分でも、やってしまってから気づいた。
わたしが選んだ男の人は、ここにいる人たち全員の中でも、とびきり、汚い格好をしていた。とびきり、貧しい格好をしていた。顔も手も泥だらけで、服は擦り切れたまま。明らかに独り身で、食うや食わずの小作人で、妻をめとって養うお金があるようには、とうてい見えない。
あたりはしん、と静まりかえった。
やがて、沈黙の中、誰かがぷっと吹き出した。さっき一番に口を開いた、あの背の高い、お屋敷の息子だった。青い目に栗色の髪の、美しい青年だ。彼はこちらに近づくと、わたしの顔にランプを近づけ、驚いたように叫んだ。
「何こいつ、ひっでえ髪!」
なあ? と同意を求めるようにまわりを見まわし、それから、
「何お前、なんでこんなに髪短いの?」
とわたしに聞いた。
「な、夏に。熱病にかかって。そ、そのあと、か、髪が抜けてしまったので」
しどろもどろに、わたしは言葉を口から押し出した。
「い、院長先生が、短く切りそろえて、くださったんです」
高い熱が6日間続いたあとで、ざんばらに抜けてしまったわたしの髪。
大丈夫よ、熱病のあとには、あることよ。なおればもとのように生えてくるわ。院長先生はそう言って、短く切りそろえてくださった。
秋になって、その院長先生も亡くなった。そのあと、たしかに髪は生えてきたけれど、前と違って、ぱさぱさで艶のない髪だった。長さだってまだ、男の子よりも短い。減ってしまった体重も、戻らない。
「なんだよ、疫病病みかよ!」
青年は大きく身を引いた。苛立ったように叫ぶ。
「誰だよ、こんなやつうちに押しつけたのは!」
かと思うと急に無表情になり、わたしがしがみついた男の人に、冷たい声で言う。
「てか、何? お前。 こいつになんかしたの?」
「い、いや、こいつはなんもしてねえですよ! そんな甲斐性のあるやつじゃねえっす」
そばにいた年かさの男の人が、慌てたようにとりなす。
「女どもの前でも、いっつもだんまりで。あんまり無口なんで、笑いもんになってるくらいですから」
「……ふうん……」
青年はそう言うと、もう一度、わたしたちを見た。主に、わたしのばさばさの髪と、がりがりの体を。
それから、興味を失ったように言った。
「ま、いいんじゃないの? くれてやっても。こんな病気持ち、誰も欲しがらねえし」
まるで、運命の宣告。その一言で、わたしの行き先は決まった。
わたしは彼の――
言葉をかわしたこともなく、名前も知らない男の人の、『持ち物』になった。
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