後悔3 Matsunami Azusa

 あの瞬間にまた戻って、過去も未来も取り戻せたら。



 ▼



「10秒待ってあげる」


それはつまり、死刑宣告。栞はゆっくりと首を傾けた。


「僕は優しいからね。ほら、逃げてみてよ」


 甘える様な声色でそう言い捨てる栞の数歩後ろ。地面にへたり込んだ女をじっと眺めていたら、ふっと視線を逸らされた。行き場を無くした俺の目が、今度は栞の後ろ姿を視界に入れる。


 相変わらず栞は、人を傷つけるのがうまくて。比べて俺はどうしようもない馬鹿のままだ。

 堕ちきるなんて許せないから、とかそんな正義感から同じ場所へ留まってるわけじゃない。俺がどうしようもない弱虫だから。

 そう言ってはみても、最初はあんなに恐ろしくて理解できないと思ったことも、場数を踏めば慣れてくるもんで。

 それでもまだ馬鹿みたいに、淡い期待を抱いてる自分がいる。

 夢と現実の区別がつかないほど、馬鹿じゃないけど。だからこそ、これは悪い夢なんじゃないかって。


あずさはさ」


 足元に流れてくる血を起用に避けながら不意に栞が口を開く。手持無沙汰でなんとなくバスケットボールを回していた手を止めた。


「何だよ?」


 栞のほうから俺に話しかけてくるのは珍しい。余程機嫌がいいのだろうか。少々構えながらも問い掛けに応じると、栞は満足げな笑みを湛えて言葉を続けた。


「むかついたりしないの?」

「……はあ?」

「こう……なんでこんな最低なことばっか起きるんだよ! って。全部壊れちゃえ! って」

「……俺、お前みたいに情緒不安定じゃねぇし」


 急に何かと思ったら、意味の分からない質問ばかり投げかかてくる。

 なんでわざわざ俺に聞くんだよ、と溜息吐いてその場に座り込んだ。他の奴もいるんだから、暇ならそっちに話しかければいいのに。


「僕が予測するにはねー」

「……」

あずさの恋人はバスケットボールだったんだ」

「うるせぇよ」

「ふふ、物相手に腹立てたって仕方ないもんね」

「……」


 栞の言葉を反芻する。一見意味のない言葉にも思えるそれは、俺の心に鋭く突き刺さる。

 そうか、だから俺はこんな行き場のない気持ちをずっと抱えたままなのか。


「僕、あずさのことは大好きだけどさ」

「……」

「でも、あずさのことが一番よく分かんない」

 

 分かってもらおうなんて思ってない。


「俺だってお前のことなんか理解できねぇっつの」


 栞はまた美しく穏やかな笑みを湛えて俺を見る。


「お前はなんでそんな風に笑ってられる?」

「何で、って。そんなの楽しいからに決まってるじゃん」


 こいつは本当に嘘吐きだ。栞の周りに楽しいことなんて何一つありはしない。本気でそんなこと思うはずない。

 でもはぐらかしたいならそれ以上問い詰める気はなかったし、俺は栞に呆れていたから大人しく口を閉じた。


「……綺麗ならそれでいいの?」


 けれど引き下がらなかったのは栞の方だった。


「傍目から見てきれいならそれでいいの?」

「は?」

「だってあずさが言ってるのはそういうことじゃない?」

「全然ちげえよ」


 俺のさっきの言葉の、どこをどう捉えたらそういう解釈になるというのか。


あずさから見たらさ、僕や、葉月や……そうだな……  も真っ黒に汚れて見えるんだろうねぇ……」

「………っ」

「もう随分一緒にいるから慣れてきたけど、でも今でも引くんでしょう?」


 そんなことない、という言葉が喉の奥に引っ掛かってしまった。俺の感情をぴたりと言い当てられて。栞は図星だ、とでもいうように、にやりと笑んだ。


あずさみたいに全部諦めて、穏やかな心で過ごしたいよ僕だって。でも無理だよ」


 諦めた。その台詞がまた深く深く胸に突き刺さる。本当に人を傷つけるのが上手い奴だ。


「心も死んだら幸せになれるの?」

「……」

「違うよね、だってもし幸せだって言えるんなら——」


 全てを忘れたら幸せに、なんて。なれるはずがない。だってそれなら俺はもうとっくの昔に幸せになっていいはずだ。それなのにまだ尚、胸の奥底で燻るこの気持ち。


あずさがそんな顔してるわけないよね」


 栞の言葉にハッとして窓を見やったら、なんだかんだで自分とは違うと一線置いてきた栞とか  とかとおんなじような目をしていることに気が付いた。

 憎悪とか、後悔とか、悲哀の激しく入り混じったような。そんな濁った色だ。


 足元にぱたりと何かが落ちた。俺は見ようともしなかったけど。零れ落ちたのは、たぶん、涙だった。



 ▼



 分かっているんだ、本当は。


 片時も忘れないあの感覚。

 

 本当は今でもあの瞬間の、二センチ先に触れたがるこの右手。



 

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