後悔2 Masaki Shiori

 僕には戻る場所がない。

 だけど、僕がそれでも再び生きたいと思うのは、この胸に焼きついた執念。ただそれだけなんだと思う。


 美しい思い出なんて一つもない。

 僕をここへ留めるのは、憎しみとか、悲しみとか、怒りとか、汚れた感情ばっかりだ。


 でも僕はどうしてもこの世界に存在したい。その為なら躊躇しないって決めた。


 

 ▼



「……きったない」


 これでもう何人目かも分からない。足元に横たわった女を冷たく見下ろして吐き捨てた。いくら貶めたって、結局は同じ。こんなにも吐き気がするのは日増しに汚れていく自分自身に対するものなんだって。気付いているけど、抜け出せない。


「汚ない……」


 僕は、とても。


「汚ない、汚ない、汚ない……」


 一度口にすると、自分の腕も、足も、顔も全部真っ黒に塗りつぶされたような気分に襲われる。

 体全体にまとわりつくような、不浄。背中を泥でも流れていくような感覚がして、僕は着ているシャツを掴んでグシャグシャと揺する。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ……」


 僕は汚なくて。生きている意味なんてなくて。


 袖口から覗く肌も、視界に映るこの髪も、全部全部気持ち悪い。滅茶苦茶に引っ掻いて、滲んだ血を見てようやく全部流れていってくれるような気がする。

 それでもまだこんなものじゃ足りなくて。もっと鋭いもので傷つけて、溜まったもの全部出してしまわなければ。このままじゃ気が狂いそうだ、と。

 引っ掻き傷だらけの手が真っ赤になった時、それでも動き続ける僕の手を誰かが掴んで止めた。


「栞、もうやめな」

「……うるさい」


 振り切ろうと力を込めてみたけれど、僕の腕を掴むその手は全く動きそうになかったから早々に諦めた。抵抗する代わりに、声の主を見上げて睨みつける。


「……分かった、もう止めるから。手離してよ」

「ほんとかなあ?」

「止める言ってるじゃん。しつこいよ葉月」


 苛立ちにまかせて思い切り振り払ったら、葉月の手は簡単に離れていった。「わあ、栞ってば意外と力強い」だなんてふざけた調子で降参のポーズをとってみせる葉月の両手にも僕の血が付いていて、少し安心した。ああ、汚れたのは僕だけじゃないと思って。


「またやっちゃったんだ?」


 葉月がため息混じりに尋ねてくる。


「……」

「これ、何人目?」

「……そんなのいちいち覚えてないし」

「だよねぇ」


 責められるのかと思ったら、可笑しそうに返事をしてくる葉月に思わず僕の方が眉を顰める。それに気付いた葉月は、薄っぺらい笑顔を貼り付けたまま僕に問いかけた。


「なーに、なんか不満そうだね?」

「……別に」

「ここまでして、まだ足りない?」


 葉月が首を傾げると、白に近い金色の髪がさらりと流れる。その隙間から見えた幾つものピアスに、僕はまたある衝動に駆られる。

 無意識にそういう表情をしていたのか、葉月はすっと手を伸ばして手のひらで僕の視界を遮った。


「すごい目してるよ」

「……」

「俺も、殺したくなっちゃった?」

「……」


 否定はできないなと思った。僕はもう、自分を抑える術がよく分からなくなっていたから。


「葉月は僕が悪いと思うの?」


 こうなった僕が。キチガイだって思うんでしょう。


「んー、どうかな」

「なにそれ。はっきり言いなよ」

「それが栞のやり方なら、俺は別にいいと思うけど……」


 人を利用して、間違いだと分かったら捨てる。それを何十回何百回とこれからも繰り返して行く僕でも良いって言うの。


「だってそうしなきゃ、栞は立ってらんないんじゃない?」


 確かにそうだと思った。同じことでも、無意味でも繰り返していかなきゃ僕は本当におかしくなりそうだった。


 「もう帰る?」


 葉月に問われて、僕は今だ足元に転がる女に視線を投げかける。


「……まだ帰らない」

「あ、そう? その人起きるまで待ってるの?」


 意外だね、と葉月は言うけど僕はそんなつもりは微塵もない。


「まだやることがあるから」


 どうせ次も間違いで、満たされないまま夜が明けるって分かってるけど。帰ったって眠ることもできやしないから結局は同じ事。

 それなら僕はこの胸の内を少しでも晴らしたい。


「……栞」

「心配しなくてもまた帰るよ」


 何か言いたそうに葉月の唇が微かに動いた。だけど僕は何も聞きたくない。被せるように言葉を吐いてやる。葉月は諦めたような微笑みを浮かべた。


「帰れなくなりそうだったら言ってね。迎えに来てあげるから」

「要らないしそんなの。気持ち悪い」

「辛辣だねー。さすがの俺も傷付いちゃう」

「あぁもうウザイ! もういいから、葉月はさっさと帰りなよ」

「はいはい」


 茶化すような声でそう言って、葉月は僕に背を向け歩き出す。月の光が反射してきらきらと光る金髪に思わず顔を顰めて、僕は大きな溜息をはいた。


「……やっぱ合わない」


 僕と、葉月は。


「なんで僕が、こいつが起きるまで待たなきゃなんないのさ」


 どうでもいい女だ。いや、違う。どうでもよくなった、女。数日前まではもしかしてと期待して、そうして今日、絶望させられたからこうなった。


「僕は愛してなんかない。それでも、僕だけを愛してるっていってくれなきゃ」


 答えを間違えたらな報いを受けないと。これは当然の結果でしょう?

 

 罪を背負って生きたいなんて思わないし、そんな意識もない。ぞくりとしたのはこの空気が冷たいせいじゃなくて、僕自身に感じた恐怖のせいだってことも分かってる。


 ——随分前のあの日。真っ赤な瞳で僕を睨んだあの人を、僕は一生忘れない。

 

 僕はただ愛してほしかっただけなんだ。待つしかないのは苦しいから、あの人を殺してしまったんだっけ。お花みたいに、真っ赤で、綺麗で。僕はすごく、嬉しかった気がする。だからこうして同じように足元にいる人も、踏み付けたい衝動に駆られるんだ。それってすごくすごく、素敵だよね。

 

 真っ直ぐにこちらを見つめる君の目が、僕なんて見てなかったとしても。息呑むほどの純粋さで、僕は君の手を取った。その微笑みの下に真っ黒な心を隠して。ねぇ、君にこの微笑みの意味が分かるかな。


 ——できるなら、あの日に戻ってもう一度、君を殺してやりたい。


 そう思うから、僕はやめられないんだ。


「じゃあそろそろ次いこっかな……」


 僕はドアを開けて、夜空の下を歩き出す。



 ▼



「僕には帰る場所がない。だからお願い。何でもするよ。ただ傍に置いて。ペットか何かと思えばいい。君は、何もしてくれなくていいから。だけど絶対に僕を捨てないで——」


 僕は、あんたを捨てるけど。


 また同じ台詞を吐いて、繰り返す。終わりがないと分かっていても、僕にはそれしかないから。


 ねぇ、君はなんて答えてくれるの?


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