第二十六話
「おーい」
ふと庭の方から呼ばれて振り返った視界の端で、誰かが軽々と庭を囲むブロック塀に登ったのを捉えてぎょっとする。
「よ、まゆ」
ちょうど逆光になって顔が見えないが、よく聞きなれた声に、着物から伸びる日に焼けた手足を確認してわたしはほっとする。
「な、なんだ京くんかあ。そんなところからどうしたの? 玄関から回っておいでよ」
わざわざ道路側から塀をよじ登ってこなくても、ピンポンしてくれれば迎え入れるのに。しかし京くんはブロック塀の上に直立したまま、わたしに話しかけた。
「祭事の準備はできたのか?」
「え? うんまあね。ねえ汚れちゃうよ、降りてきて京くん」
「そっか」
きっちりとした着物姿の京くんも、頭の横にお面を括り付けている。赤い組紐が顔の正面に垂れてしまっているのを、手を伸ばして避けてあげた。京くんはそんなわたしをただ黙って見つめている。普段とは違う格好を互いに見て見られて、なんだかすごく恥ずかしい。
「まゆ」
「な……なあに」
考えていることが伝わらないように、冷静な声を出そうとしてあえなく失敗した。対照的に京くんはすごく落ち着いているように見えてさらにドキドキしてしまう。
もしも京くんが祭主の家の子じゃなかったら、一緒にお祭りに行けたりしただろうか。
「今日の神楽、来ないでほしい」
もしもわたしが人間だったなら、こんなことは言われなかったのだろうか。
しんとした空気の中、京くんは辛そうな顔をしていた。言いたくないけどどうしても言わなきゃいけなかった、そう言いたげな顔だ。
最初はわたしがお祭りに行きたくないなんて言って、京くんが驚いていたっけ。今はまるで立場が逆転してしまった。
不思議なのはわたしの心が凪いでいることだ。
「行くよ」
「どうしても?」
「うん」
意思の固さは三郎さんのお墨付きだ。京くんが例えこうして警告しにきてくれても、わたしは渚の神楽を見届ける。
「仲間はずれにしないで?」
そう言うと京くんは困ったように空を見てから、しばらくしてまたわたしを高いところから見下ろした。
「――そっか、分かってたよ。それならそれで、いいんだ。じゃあまた奉納神楽で」
「京くんまって」
「なあ、まゆ」
背中を向けて今にもいなくなってしまいそうな京くんは、わたしの呼びかけに少しだけ振り向いて、わたしの大好きな笑顔を見せる。いや、逆光で顔が見えないから、ただわたしが笑顔であってほしいと思っているだけだ。
「浴衣似合ってるよ。でもそのお面は、まゆには似合わないなあ」
それだけ言い残して、京くんは塀から飛び降りて去ってしまった。
▽
日が暮れるとかがり火が道に沿ってゆらゆらと揺れる。
あれだけかけずり回った山道にも火が灯され、まるでファンタジーの世界に入り込んだように幻想的だ。
祭事には作法がある。まずはおじいちゃんがお神酒をお供えし、続いておばあちゃん、お父さんと大人たちが清めの盃を回していく。
わたしと渚はお神酒にちょんと口をつけ、そのしびれるような大人の味に耐えて、盃を戻した。
これでわたし達一家は祭事の盃交わしを終え、大人たちは飲んだり食べたりを楽しむのだそうだ。おじいちゃんはすっかり顔を赤くして漁師仲間と飲み交わしているし、おばあちゃんも島のマダムたちと楽しそうにしている。例年はこの後奉納神楽をみんなで見守って終わりだが、今年は見にいけないのでおのおの自由に過ごしている。
残るは渚の奉納神楽だ。盃交わしを終えて渚は神社へと向かう。険しい石段のふもとには、渚を迎えにきたらしい、兎のお面を被った女性がふたり立っていた。汐野家の人だと一目で分かる渦柄の着物を着ている。
「お着替えが済んだらご家族の方をお呼びします」
「あの、わたしも一緒に行っちゃダメですか? 着替え手伝えます」
「申し訳ございません。決まりなので」
女性ふたりに挟まれて、渚はゆっくりと石段を登って行く。夢の中で見た光景と重なって、わたしはぎゅっと着物の合わせ目を握りしめた。
途端、わたしの横をぴゅんっと駆け抜けて行く影があった。慌ててその影を目で追うと、袈裟を着た狸が一匹、渚の後をついて行くのが見えて、わたしはとりあえず安堵する。三郎さんが見ていてくれるならよかった。
「汐野にとってお神楽は大事な文化なんだ。決まりはちゃんと守らなきゃね」
兎の女性たちに見つかりたくなかったのか、ずっとわたしの影に隠れていたお父さんがこそこそ言う。つまり、汐野家側もお神楽自体を台無しにするつもりはないということだろうか。いずれにせよ三郎さんに任せて、わたしはひたすら石段の下で呼ばれるのを待つことしかできない。
「ねえお父さん、舳さんが汐野家の次期当主になる可能性ってある?」
日が暮れてから山には霞が出てきていた。お父さんはわたしの問いかけにうーんと唸ってから、「難しいな」と言った。
「舳の母親は先代の後妻として家に入ったわけだけれど、家の者みんなに認められていたわけじゃないんだ。中でも先妻――お父さんのお母さんを慕っていた者たちからの当たりは強かったんじゃないかな。今でも舳のことを、認めてない人はいる。次期当主になるにはなにかよほどのことがない限り難しいんじゃないかな。けどお父さんはそんなのは馬鹿馬鹿しいと思うし、舳が仲良くしてくれるならそうしたいよ」
「そっか」
もういっそのことお父さんが当主になってしまえば汐野家もお気楽に過ごせるんじゃあないだろうか。お父さんはまた能天気な声を出して続ける。
「次期当主の候補としては、兄さんの息子の京と、大穴で直系の渚かなーなんて」
「え!? 渚も当主候補なの!?」
家系図だけ見れば確かに渚は汐野の直系に当たるが、さすがに勘当されているしなによりあやかしである。
「だから大穴だって。その次くらいが舳じゃないかな。それくらい、舳が次期当主になるのは難しいんだ」
つまりほとんどありえないということだ。六郎くんの言った反あやかし派が当主になる可能性は限りなく低い。わずかに可能性があるとしたら、京くんが反あやかし派になることだけ。
「だったらいいんだけど」
二匹の兎に手招きをされ、わたし達は石段を登り始める。靄がかかる鳥居を見上げて、それが夢の中と同じ蒼色をしていることに気がついた。
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