第二十話

 いつもより早足で帰ったせいか、家にたどり着く頃にはわたしと渚はじんわりと汗をかいていた。玄関のドアを開けると、きれいに揃えられた革靴が目に入り、わたし達はバタバタと慌ただしく部屋に入った。


「お父さん!」


「ああまゆこ、なぎさ。おかえり!」


 引き戸を開けると白いワイシャツを着たお父さんがおばあちゃんとお茶を飲んでいた。いつもどおりの眼鏡姿で両手をこちらに広げてくる。渚が嫌そうな顔をしながらロケットのようにお父さんに頭突きをくらわせて、二人して畳に倒れたのをみてケラケラ笑った。


「空港から直で来たんだ。はいお土産」


「今回はどこ行ってたの?」


「コペンハーゲン」


「コ……?」


「コペンハーゲン。デンマークだよ」


 話す間に青と白のおしゃれな缶を手渡される。開けてみるとふわりとクッキーのいい匂いが和室に漂った。お父さんにしてはいいチョイスだ。前に奇妙な魔除けの人形を渡された時はドン引きしてしまったけれど、お土産のセンスに成長が見える。


「いい子にしてた?」


 渚に噛みつかれながらお父さんがわたしに聞く。わたしは「うん」とだけ言って、ちらりと渚を見た。


「わたしもなぎさも普通だよ」


「そっか」


「ふたりともとってもいい子にしよるよ。むしろろくに顔も見せんお父さんの方が悪い子や」


「いやあ、お義父さんお義母さんには本当にお世話になってます」


「まったくよ」


 おばあちゃんにはお父さんもタジタジだ。もっと言ってやってほしいくらい。


 それから三人並んで仏壇に手を合わせる。お母さんの写真はなんだか少しおすまし顔で、タガの外れたようなゲラゲラ笑いの方がお母さんらしいのになと思う。


「おとーさんアレ持ってきた!?」


「ああ母子手帳、持ってきたよ。あんなにギャーギャー言われたらさすがに忘れないって」


 渚の急かしように身を引きながらもお父さんはカバンの中をゴソゴソする。わたしはそれをぼんやりと見つめた。


 今さら止める必要もない、最初からお父さんに任せるしかないのだ。しかしお父さんは母子手帳を手にして、わたし達を対面に座らせた。


「なぎさ、その前に大切な話をしなきゃいけない。なぎさとまゆこにとって大切な話だ」


 お父さんの真剣な顔に思わず身構えるわたし。対照的に渚はふんと鼻を鳴らした。


「もう分かってるから早くして」


「え?」


 眉を寄せてわたしに目線を移すお父さんに首を振って見せる。


「なぎさ、言ったでしょ。なぎさの言ったことは間違ってるって」


「間違ってない。僕はお父さんとお母さんの子じゃないんだ! 今さらもったいぶらないでよ!」


「あっこら!」


 渚は軽い身のこなしでお父さんの手から母子手帳を奪ってしまった。


「なぎさ、話を聞きなさい」


「聞かなくたってこれに書いてある――」


 その時、お父さんの制止を聞かずに手帳をめくった渚の手が止まった。


「どうして……」


 何回も何回もその箇所を読み返す渚は、次第に唇を震わせる。


 だから言ったんだよ、間違ってるって。


 わたしはその手帳に、ちゃんとお父さんとお母さんの名前が書かれていることを知っている。


「なぎさはお父さんとお母さんの子なんだよ」


 わたしとお父さんに見守られながら、渚の手からぼとりと手帳が落ちた。信じがたいという感情を顔に張り付けたまま渚はゆっくりとわたしを見る。渚の中ではとっくにお父さんとお母さんの子じゃないことが決まっていて、そうやって生きていくつもりだったのだろう。


 だからお父さんに母子手帳を差し出させて、お父さんに言わせようとした。それでわたしとの関係を理解しようとした。わたしが何者であるかを分かろうとした。多分きっと、そんなところだ。


「じゃあどうしてぼくとまゆこは名字がちがうの」


 なにも言わないわたしに、渚はぽつりと呟く。


「どうしてまゆこはおかーさんの名字で、ぼくはおとーさんの名字なの」


 きょうだいなのに似てないね。きょうだいなのに名字が違うんだね。


 そんなの何回も言われてきた。周りにそう言われるたびに、お父さんとお母さんは籍を入れていなかったんだよと何回も説明してきたけれど、渚には難しかったらしい。


 母子手帳に並ぶ夫婦の名字は、東京では珍しかったけれど、島では見飽きるほど見る名前だ。


「なんでまゆこは古御門繭子で、ぼくは汐野しおの渚なんだよ!」


 そう叫んだ渚の金の目はゆらゆらと波打っていた。悲痛な表情なのに、光をため込んだ宝石のようにキラキラしていて目が離せない。


 わたしはこんな風には泣かなかったなと遠くの方で客観的に見ているわたしがいる。


 汐野に近づくななんて最初から無理な話だ。汐野が鼬の敵だなんてありえない話だ。


 だってこんなに近くにいる。渚は生まれた時から汐野なんだから。


 わたしはずっと渚の存在に矛盾を感じながら受け入れていた。東京から転校してきた日、京くんが真っ先に話しかけたのはわたしじゃなくて渚だったことも、同じ名字を珍しがっていたことも、全部最初からおかしかったのにそれが当たり前だった。


 京くんのことも渚のことも大切なのに、私が一番のなかま外れ。


 最初、汐野という名字は島によくある名前なのだと思っていた。だから京くんがお父さんと同じ名字でも偶然だなとしか思わなかったのだけれど、最近その名を聞くことが多すぎて、そのたびにお父さんの顔も一緒に頭に浮かんでいた。


 わたし達のお父さんの名前は汐野みなと。わたし達のお母さんの名前は古御門恋子れんず。一緒に住んでいるおじいちゃんとおばあちゃんは古御門の方のおじいちゃんとおばあちゃん。


 汐野の方の親戚には会わせてもらえない。それが、外から見えないわたし達の家の事情。


「お父さんの実家に結婚を反対されたんだ。だからお父さんとお母さんの名字は違う。でもなぎさは絶対にお父さんとお母さんの子だし、まゆこも大切な家族なんだよ」


 母子手帳という絶対的な証拠がある今、渚はお父さんの言葉を信じるしかない。お父さんは実家の汐野家にお母さんとの結婚を反対されて二人で島を出たと聞いた。


 考えれば当然、汐野家はあやかしの子孫である島の人間との結婚なんて認めないだろう。だからお父さんはお母さんと島の外に逃げた。わたしにとってその事実はなによりも希望になる。


 お父さんがゆっくり渚を抱きしめるのを見て、わたしは安心したのと同時に強烈な疎外感に襲われていた。

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