四、君あるいは雨のせい
第十四話
どうやって家まで帰ったかほとんど覚えていない。山のふもとまで舳さんに送ってもらい、その後はただひたすらに家に帰りたい一心だった。途中からザアザアと雨の音がし始めたのは覚えている。
渚は傘を持っていたかな。京くんの練習は雨で中止かな。
雨のせいで匂い立つ土の香りに、無性に東京に帰りたくなる。
家族四人で暮らしていたマンションで、渚とお母さんと一緒にお父さんの帰りを待つ。そんな日々に。
自分があやかしであることなんて気にしていなかったあの頃に戻りたい。
ポタポタと足元に水滴が落ちるのを気にしないまま、わたしは玄関の戸を引いた。
「ただいま」
「まゆちゃん! 雨に降られ――て、ないねえ。よかった」
「え?」
おばあちゃんの言葉に、ようやく自分の状態を気にした。
濡れてない? あんなにザアザア降りだったのに?
自分の体を確認すると、傘をささずに帰ってきたとは思えないほど全身が乾いている。疑問に思ったが、今はなにも考えたくない。頭を働かせようとして、すぐに諦めて部屋に入る。
「なぎちゃんのお迎えお願いね」
「うん」
渚の傘は玄関に置いてあった。このままでは濡れねずみになってしまう。おとうとの面倒を見るのは姉の役目だ。
なのに
「今日はちょっと、つかれちゃったな……」
心が重い、理解が追いつかない。鼬と人間の関係が、つらい。
ぱたりと畳に倒れて、蛍光灯からぶら下がる紐を目で追う。そんなことをしているうちにわたしは目を閉じていた。
「鼬の数をへらしたってどうやって?」
あやかしは普通には死なない。
「汐野家のひとが短命ってほんと?」
舳さんは病弱らしいけど、京くんはすごく元気だから信じがたい。
「鼬が人間を絶やしてしまうなんてうそだよね」
うとうと、もやもや。そんな思考の中でわたしは誰に聞かせるわけでもなくわいて出る疑問を宙に投げた。
「――鼬の力が強大だった過去、汐野家は六叉鉾を使って鼬を倒していきました。残ったのは微弱な力しか持たない鼬とその子孫。当時の鼬の王も汐野に倒されています」
なんだか頭の側から男の人の声がする気がする。
「他のあやかし達にも、もはやどうすることもできませんでした。あれは人間と鼬の生存競争だったのです。結果、鼬の力は衰退し、王の不在がこれまで続くことになりました」
「んー?」
気のせいじゃない。わたしは重いまぶたをやっとの思いで上げ、声のする方を見た。
「今後あやかしが人間に対してどんな姿勢をとるか、次の王である次郎さまにかかっています。過去の鼬に対する仕打ちを、我々あやかしは忘れてはいません。もしも次郎さまが強行姿勢をとるのであれば、あちら側のあやかしも加勢するでしょう」
そこには、ほかほかと湯気を立て、手ぬぐいを頭にのせた狸が二本足で立っていた。
「わあ!?」
「ああ、ご安心を。ちゃんと部屋に入る前にお風呂はいただきましたので」
「三郎さん!!」
勝手知ったるとでもいうように座布団の上にちょこんと腰かけた狸ノ三郎さんは、わたしの叫び声にぺたんと耳を折った。
「鼬が『人断ち』だってほんと?」
とりあえずなぜここにいるのかは置いておいて質問を急ぐ。また急にいなくなってしまうかもしれないからだ。三郎さんはしょんぼりした様子で頷く。
「いろいろなことを知ってしまわれたご様子。心苦しいですが、全て事実です」
さっきのひとりごとはもちろん聞かれていたし、それに対して難しい解説も入れていた。耳に入ってきたことで気になることもある。わたしは目の前の狸の言葉をじっと待つ。
「できればお耳に入れたくはなかったのですが、確かにそのとおりです。いにしえより『人断ち』と呼ばれるあやかしこそ、鼬であります」
「そ……っか」
否定してほしかったわけではないけれど、自然にがっくりと肩が落ちた。
「あえてお伝えしなかったのは、繭子さまと汐野の次期当主が友人関係にあったからです。その、子どもには酷な話かと思いまして」
「はい、分かってます。でもきっと知らなくてもいつか後悔していたと思うからいいんです」
「そうですか……」
もしもあそこで舳さんに会わなかったら、鼬が人間に憎まれていることやその理由をなにも知らないままだった。あの地図に導かれたのはきっと間違いじゃない。
三郎さんに向き直って口を開く。
「昔の汐野のひとは例の盗まれたっていう鉾を使って鼬を倒したってことですよね」
「はい、そのように言われています」
「じゃあもしかして鉾を盗んだのは……また、鼬を倒すため?」
自分で言ったその内容に頭がまっしろになる。
渚が鼬として目覚めたのと同じ時期に、過去に鼬を倒したという鉾が消えた。
鼬がいまだに憎まれていることを知ってしまった今、偶然とは思えない。
「なぎさが危ない――!?」
弾かれたように部屋を飛び出す。まさかとは思うけれど、渚が狙われているかもしれない。一体誰が? この島に人間は汐野のひとしかいないのに。じゃあ汐野の誰かが渚を狙っている? そんなはずない。だって、なんのために?
とにかく渚を迎えに行かないと。もう頭がそれしか考えられない。
「繭子さま!」
三郎さんの制止を無視して、どしゃ降りの中家を飛び出した。視界が悪くて何回もつまづく。ばしゃばしゃと水たまりを蹴りながら、渚のいる体育館をひたすら目指した。
厚い雲のすきまから、わずかに光がこぼれる。徐々に明るくなってくる視界の先に、雨宿りをする渚の姿があった。閉まった店の軒先から渚の仰天した声が響く。
「うわー! なにやってんのまゆこ!! うぎゃっ」
走った勢いを止められず、渚にタックルをブチかまし、さらにそのまま店のシャッターにぶつかってようやくわたしの体は止まる。ズルズルとその場にしゃがみ込むと渚が慌てて手を差し出した。
渚からしたらどしゃ降りの中いきなり現れたわたしに襲いかかられたように見えるだろう。ぜえぜえ息を切らせながら渚の無事に安堵する。
「なにしてんのほんとうに」
「む、迎えに来た」
「カサは?」
「あ」
「まゆこのばーか」
いつもどおりのこんなやりとりにも、とてつもなく安心してしまう。渚の手をとると、ふと自分の体の異変に気づく。
「また……濡れてない!?」
走っている時は全然分からなかった。今度こそどしゃ降りの中を来たというのに、水滴ひとつ染みていない。まるで雨粒がわたしを避けたようだ。
「どうしてなの?」
「へびが守ってるよ」
「え?」
渚の言葉に耳を疑う。「どういうこと?」と聞き返しても面倒くさそうにして続きは言ってくれなかった。
「はやくかえろ」
「でもカサ忘れちゃったから」
今回ばかりはまゆこのばかと言われても仕方がない。本当に焦っていたのだ。渚が危ないと思ったらとっさに体が走り出していたのだ。
「なにいってるの、ほら」
渚がついっと空を指さす。雨のかわりに、雲の切れ目から光のシャワーが降っていた。軒下から出ると、もう雨粒は落ちてこない。きれいな夕やけ空が戻ってきていた。
「まゆこは晴れをむかえにきたんだね」
「そうみたい」
二人並んで家に帰る。
分からないことなんていっぱいあるし、不安だらけだけど、渚の近くで渚を見守っていればいい。
「おばあちゃんまだ母子手帳のこと気にしてるから、帰ったらあやまろう」
「うん。そーする」
随分とあっけらかんとしているものだからついでに言っておく。
「なぎさの母子手帳見つからなかったら、わたしもなかったことにする。先生には一緒に言いに行こう」
「――うん」
渚の返事がちょっとだけにごる。分かるよ。問題はそこじゃないって言いたいのは。でもわたしはそこは問題じゃないって思っているし、もし問題だったとしてもなにも変わらないと思っている。
「そうだ。家にね、三郎さんがきてるよ」
「げー」
嫌いな玉ねぎを食べた時みたいな顔をする渚にふと疑問がわく。
「ねえ、なぎさは他のあやかしのこと分かってるんだよね? どう思ってるの?」
「どうでもいい」
「またそんなこと言って」
「できればちかづけたくない」
「なにに?」
渚はその問いには答えず、黙って空を見上げている。仕方がないからわたしも同じように上を向いてみた。赤と紫を混ぜた空には薄い月が出ている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます