第八話

 狸の姿と同様、編笠を目深に被り黄緑色の袈裟を着た僧侶は、ゆっくりと上体を起こしてわたしの目を見て言った。


「まさか鼬太郎さまとこちら側でお会いできるとは。感激で言葉も出ません」


 緩やかに笑みを浮かべるその顔をまじまじと見てしまう。


 というのもこのあやかし、お坊さん役の俳優ですと言っても通じるほど顔がいい。剃髪でこれだけ美しかったらもうなにをしても許されそう。


 そんな余計な考えを頭から追いやりつつ、とにかく名前を訂正する。


「わたし、ゆうたろうじゃないんですけど。そういうあなたは?」


 これ以上変な呼び名を増やさないでほしい。そもそもわたしのことを太郎だのなんだのと呼ぶ時点で六郎くんと同類であることは嫌でも想像がつく。


 流されないように、からかわれないように、毅然としていなければ。


「私は『たぬき』のお役目を継ぐ、たぬき三郎さぶろうでございます。鼬太郎さまにおかれましては、こちら側でのお目覚め誠にお疲れ様でございました」


 たぬきのサブロー。この名前のパターンにもようやく慣れてきた。この場合は狸のあやかしの三番目に生まれたってこと。知らない言葉が分かるようになるのは、謎かけが解けた時のようにすっきりする。


「狸ノ三郎さん! わたしは繭子っていう名前があります!」


「失礼しました、繭子さま。折り入ってお願いがございます」


 イケメン僧侶――三郎さんのやけに真剣な様子に思わず息をのむ。



「私にもその本を読ませて頂きたいのです」



「え?」


 三郎さんの視線の先には、わたしの腕の中で積まれた古書があった。


「もしかしてこれが読みたくて蔵からついてきたんですか?」


「はい。それは汐野の蔵書の中でも特に貴重なもの。そもそも化けて蔵にいたのもその本を捜索するためでした。しかし鍵に阻まれ苦戦していたところに、あなたさまが現れたのです」


 そういえば、本の入っていた棚にはダイヤルキーがかけてあった。もしかしてひたすらダイヤルを回して正解にたどり着こうとしていたのだろうか。


 なにか事情があるのかもしれない。けれど借り物をほいほい又貸しするのも気がひける。


「わたしのじゃないので貸せないですけど、まあ読むだけなら……」


 多分大丈夫、だと思う。たとえあやかしでもお坊さんの頼みは断りづらい。自信なく答えると三郎さんはどこかホッとしたような表情を浮かべた。その様子を見るからに悪いあやかしではないと信じたい。


「ああ、助かります。ありがとうございます。では、繭子さまのお宅にお邪魔しても?」


「へ?」


 そう言うや否やわたしの答えも聞かず、三郎さんはしゅるりと袈裟をひるがえし、小さい狸の姿になった。


 あやかしの姿が変わることにもう驚いたりしない。と思っていても心の準備ができていないと本当に心臓に悪い。


「今度は置物じゃないんですね」


「先程は繭子さまを怖がらせないようにと思いまして」


 海岸線を狸と歩く。こんな状況を動物嫌いのお父さんが見たらびっくりするだろう。でも、もしお母さんが生きていたら、きっとケラケラ笑うんだろうな。


 そして、それにつられてわたしと渚も一緒に笑うんだ。


 流れる時間のほんの一瞬を一時停止して、そこにお母さんのイメージを貼り付ける。例えば今だったら、同じ画角にわたしと狸とお母さん。狸の小さい歩幅に合わせながら、これから食べる晩ご飯のメニューについて話す。


 せめてカレーの作り方、教わっておけばよかったな。


 渚はお母さんのことどう思っているのだろう。お母さんが死んでから、渚とお母さんの話をしなくなったから分からない。



 渚がすごい顔でこちらを見てくる。それもそのはず、今わたしは洗面器の中で狸を泡だらけにしているのだから。


「なんでたぬきがいるの?」


「道で会ったの! 狸ノ三郎さん」


「ああ次郎さま。どうか繭子さまを止めてくださ」


「はいはい動かないで」


「まゆこは寄せつける天才だね」


 害がないと察したのか、渚は興味を失ったようにリビングに戻って行ってしまった。前までならきっと一緒にはしゃいでくれていたのに。少しがっかりして三郎さんにお湯をかけたらやり過ぎだったらしくギャンギャン鳴かれてしまった。


 とにかく、きれい好きなおばあちゃんにバレる前に三郎さんをシャンプーすることに成功し、バスタオルでぐるぐる巻きにして和室に連れて行くことにした。


 あやかしにシャンプーは必要ないかもしれないけれど、ほこりだらけの蔵にいたし、裸足で外も歩いていたので気になってしまったのだ。


 濡れた硬い毛にドライヤーを当てる。その間にも三郎さんは待ちきれないとでも言うようにお目当ての本を短い足で捲り始めていた。


「やはりそうか……」


「ん?」


 三郎さんが独りごちながら真剣に目を落としているのは、京くんが適当に手渡してきた『演舞指南書』というひときわ古い本だった。手作り風な綴じ紐の具合からして売り物ではなさそうで、貴重なものというのがよく分かる。


「これはこの島に伝わる演舞を記録した本なのですが……実は最近、おかしなことを耳にしまして」


 三郎さんは小さい前足で本のある箇所を示す。そこにはトゲトゲした不思議な形の刀のような図が描かれている。


「なにこれ?」


「この島の神社に保管されている、六叉鉾ろくさほこです。年に一度、祭事での舞に使用するのですが、最近行方が分からなくなったと」


「えっ。すごく貴重そうに見えるけど、まさか盗まれちゃったんですか?」


「可能性はあります。まあ、金目当てや収集のためならまだマシです。問題はそこではない。この六叉鉾は、あやかしを殺める力を持っているのです!」


 それは乾かしたばかりの毛が逆立つほど大変なことらしい。わたしはブラシをせっせと動かしながら首をかしげる。


「そもそもなんですけど、もしかしてあやかしって普通には死なないんですか?」


「ええ、人間につけられた外傷では死に至りません。それこそ体に穴が開こうと八つ裂きにされようと。こちら側では、人間はあやかしを殺められない。そういう仕組み、あちら側とこちら側の決まり事なのです」


「でもその武器を使われたら死んじゃうってこと?」


「そうです。この本によると、悪しきあやかしが現れた時に断罪するためとのことですが……現状、この島にあやかしと呼べるあやかしは『鼬』『蛇』『狸』しかいないはずなので、極端な悪さはしていないはず。盗人の目的は別にあるのでしょう」


「えっ。あやかしってそれだけしかいないんですか」


 初めて聞くことが多すぎて頭が混乱する。そういえばわたしのあやかし知識は六郎くんのぼんやりとした説明で得たものだ。そんな彼が島民みなあやかし関係だと言っていたので、もっとたくさん存在しているかもと思っていたのだが。


 三郎さんは首をひねり、きゅるんとした金色の瞳をこちらに向けてくる。


「ええ。この島には蛇神信仰の名残で蛇の一族がいるのと、風来坊のたぬき、そして鼬の皆様のみと把握していますが」


「蛇ノ六郎くんに、島の人が大体人間じゃないって聞いたんですけど……」


「島民はほぼ鼬の子孫ですね。これも大昔のことですが、北の地から人間と鼬の夫婦が駆け落ちしてこの島で暮らし始めたのがきっかけで、この島には鼬の血を引く者が多いのです。しかしその血は深く眠ったまま、島民は人間として暮らしています」


「そ、そうだったんだ」


 その中でも、あやかしの血が目覚めたのが渚だった。そういうことなのだろう。島民がほぼ鼬の子孫ということは、わたし達があやかしじゃないという主張は通らない。お父さんもお母さんもこの島生まれなのだから。「やっと分かったか」なんて言う六郎くんの呆れた顔が脳裏に浮かんだ。

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