第四話

「学校で急に倒れたって聞いて驚いたわ。今日は早よう寝るんよ」


 おでこにあったおばあちゃんの手が離れてから、わたしは黙って頷いた。朦朧としていた意識はすでに覚醒し、自分が高熱で倒れたのだと理解していた。


「それと、あとで京くんにもちゃんとお礼せな。保健室までまゆちゃんをおぶってくれたんやって」


「はあい……」


 布団の中で寝返りを打つと耳の中でガーゼがカサカサと鳴った。気が遠くなるほど痛んでいた耳の奥は大分マシになっていて、学校まで迎えにきてくれたおばあちゃんと、島の小さな診療所の先生に心の中で感謝の念を送る。


 倒れる前に見て聞いたことは、現実だったのだろうか。それとも具合が悪すぎて幻覚を見ていた?


 ふと布団の横で体育座りをしている渚に気づき、声をかける。


「ただの中耳炎だから大丈夫だよ」


「朝は元気だったのに」


「だって自分でも気づかなかったの。確かに昨日から少し耳が痛かったんだけど、今日の放課後急にすごーく痛くなって。薬もらったけど熱があるから、明日は学校は休むね」


「まゆこが学校行かないならぼくも行かない」


 ぶすっと顔を歪める渚を甘やかしてはいけない。そういえばわたしは島に来てから学校を休んだことがない。もしかして渚はわたしが休むと寂しかったりするのだろうか。教室ではずっと寝ているのだから問題ない気がするけれど。


「だーめ。わたしがいなくても京くんがいるでしょ」


「京キライ」


「えっ!?」


 唐突なその言葉に痛む耳を疑った。どうして? とたずねても渚はだんまりを決め込んでいる。


 わたしと京くんに挟まれて、渚は苦しんでいる。金の目の彼はそう言っていた。


 倒れる前の記憶がよみがえった。


 もしかして渚が学校で元気がないのはそのせいなのだろうか。


「でも、明日はお神楽の練習があるでしょ?」


 島の小学生は伝統的な神楽舞を学校で習う。十歳くらいの男子が年に一回催される島のお祭りで舞う決まりがあるからだ。


 今年は渚が舞い手を務める。つまり、練習をサボって本番で失敗して恥をかくのは渚自身なのだ。


 そうたしなめても渚はまだぶすっとしている。


「京くんのどこがいやなの?」


「まゆこを特別扱いするところ」


「え」


 どきり、なのか


 ぎくり、なのか


 分からないけれどとにかく動揺した。それが本当かどうかはともかく、渚にはそう見えているということに言いようのない焦りを感じてしまう。


「べ、別にそんなことないでしょ? 京くんは誰にでも優しいし」


「京は優しくないよ。むしろ僕たちのこと嫌ってる。京はまゆこのことが好きだからまゆこにだけ優しい人間のふりをするんだ。だからキライ」


「好っ……!」


 がばりと体を起こす。少し前まで夜一人でトイレにも行けなかったくせに、一体いつから渚は誰が誰を好きとか嫌いとか言うようになったのだろうか。


「へんなこと言わないでよ」


「まゆこのバーカ」


「バカって言う方がバカ!」


「そんなだからへびに捕まるんだよ」


 渚のその一言に今度こそ言葉を失った。


「つ、つかまってないし。なに言ってるの」


 慌てて冷静を装う。しかし渚はまるで六郎くんとのやりとりを見ていたかのように追撃してくる。


「まゆこはからかわれたんだよ。あいつの言うことにまじめに返事するから」


 渚は、影を踏む時のような無表情で、強い眼光を放っている。


 生まれて初めて、渚を怖いと思った。


「ねえなぎさ、どうしちゃったの。最近おかしいよ」


 まるで渚じゃないみたい。そう言いかけて、飲み込んだ。


「……別にどこもおかしくないよ」


「うそ! だって最近アニメもみないしゲームもしないし、東京にいた頃は学校から帰ったらすぐに友達と珍しい虫探しに行ってたりしたじゃん! コオロギ捕まえた〜とか言ってゴキブリ見せてきたの忘れてないんだからね!」


 そう息まくわたしに渚ははっとした表情になって、ぎゅっとくちびるを閉じてしまう。


「なぎさはなぎさだよね……?」


「うん、そう……そうだよ。でもさ、僕まゆこのこと心配なんだ」


「わたしのことが?」



「うん、だってまゆこははじめての姉ちゃんだから」



 なんだか、いま。


 とてもおかしなことを言われた気がする。


 はじめての姉ちゃん?


 当たり前だ。


 だってわたしたちは二人きょうだいなのだから。


 わたしが姉、渚がおとうと。


 きらきらしている渚の目をのぞき込む。



「あなたは――誰?」


 これは、熱に浮かされて見た夢?


「わかってるくせに」


 さも当たり前のことのように渚は答えた。勇気をふりしぼったわたしの心にズドンと衝撃が走る。


 あ、聞かなきゃよかった。


 本能がそう叫んでいる。


だよ。はるか昔から僕だ。なぎさが島に来てから、なぎさの中でようやく」


 渚はふと息を止めて目を閉じ、そしてゆっくりとまぶたを上げた。


「目を  開けた よ 」


 黒い虹彩が見る影もなく煌々と金色の光を放つ。それは六郎くんと同じ、ヒトにはありえない眼光だった。


 分かっていた。


 渚が時々渚じゃないことは、分かっていた。知っていた。わたしがただ目を背けていただけだ。それを認めただけだ。


「わかってて、まゆこはずっと僕のこと知らん振りしてたのにね。へびにそそのかされて気になっちゃった?」


 渚がヒトとは違うなにかかもしれないと、とっくに気がついていたのに。


 それを六郎くんにさらっと言われて、とうとう現実として受け入れてしまった。


「僕の中で常に、なぎさと僕がぐらぐらしてる。意識は半々くらい。まだ完全じゃあないけど、僕はなぎさの中で目覚めた『鼬』だよ」


 茫々とする意識の中で六郎くんに言われたことを思い出す。


 わたし達は『鼬』のあやかしだと。


 渚はきっと、目覚めてしまったのだ。


 自分の中に流れるあやかしの血に。


 ふと体の力が抜けて、がくりとそのまま布団に沈み込む。すると今度は逆に渚がわたしに覆いかぶさるようにして視線を合わせてきた。


「ねえ、まゆこは京のこと好きじゃないよね?」


 爛々とする金の瞳に黙って頷く。


 渚は本当に王様なのかもしれない。そんなことを思ってしまうくらい、有無を言わせぬ言いようだった。


 ▽


 それからわたしはまるまる一週間寝込み、不思議な夢を見るようになった。


 渚が呼んでいる。よく知った渚のほうだ。


 延々と続く石段を無邪気に駆け上がりながら時々わたしを振り返る。その表情は明るい。


「まゆこー」


 なあに? 答えようとしても声が出ない。どこへ行くの? 訊ねようとしても渚はどんどん石段を登って行ってしまう。それをぼんやりと見上げていると、今度は靄が出始めて、渚の姿が見えなくなってしまう。


「なぎさー?」


「ここにいるよ」


 声がするので安心する。けれどその声は少しずつ遠くなっていって。


 目で追った石段の先には、巨大な蒼い鳥居があった。


 鳥居の前で渚が手招く。


「おいでよ」


「でも、遠いし」


 渚のように軽やかに石段を上れる気がしないのは、ここが夢の中で、体が水底に沈んだように重いからだ。


「じゃあさきに行ってるから」


 そう言って渚は鳥居の向こうへと消えて行った。不安になって後を追おうとすると、ぱしりと片手を掴まれる。


「まゆ、だめだ」


 振り返るとすぐそばになんだか少し大人びた感じの京くんがいて、そこでいつも目が覚める。そんな夢。


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