第二話
渚がまた変なタップダンスをしている。
その報告はのんびりと流れる島の時間の中でも光の速さでわたしのもとに届く。
それは決まって放課後、日が傾こうとする時間。
その時わたしは大抵学校の図書室にいて、最近はまっているファンタジー小説を読んでいるのだけれど、報せが入るとしおりも挟むのを忘れてしまう。
日中溜めに溜めた熱量を放出するかのように、渚は今日も元気に影を踏んでいた。
東京で暮らしていたときも、お母さんが死んだときも、初めてフェリーに乗ったときも、渚はいたって普通だった。
おかしくなってしまったのはこの島に来てからだ。
見えてはいけないなにかが見えるようになってしまった。
それはわたしも同じで。
それでも島のみんなが渚の
もちろんそれはただの言い訳なのだけれど。
「なぎさ、帰るよー」
他の誰の呼びかけにも反応せず、渚は唯一わたしの声だけを聞き分けて顔を上げる。そしてなんの感情もない顔で、わたしの足元を指さして言った。
「まゆこ、後ろにアレがいる」
わたしは黙って一歩下がり、それを踏む。渚の方に行かせないように。ふたつ違いのおとうとがどこかへ行ってしまわないように。
「大丈夫だよなぎさ。暗くなる前に帰ろう」
コンビニもゲーセンもない、曖昧な山鳴りと波の音だけが響くこの島で、わたし達は少しだけ
ひとしきりダンスをし終わった渚をわたしの影に入れて家路を急ぐ。山を下り住宅地を抜けると、ようやく海沿いの道に出た。
潮の香りが強くなると、なぜか影たちは渚を追わなくなる。
アレは海が苦手なのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えながら、うごうごと引き返していく影たちを黙って見つめる。
「人間には普通見えないんだけどなあ」
突然、背後から声がした。
「ひゃ!?」
耳に吐息がかかるほどの、その恐ろしく近い距離に思わず肩が跳ねる。
慌てて振り向くとそこには知らない男子が立っていた。変な格好だ。襟の立ったシャツの上からボロボロの羽織を着ている。
学帽を被ってはいるが、彼を学校で見たことがない。
そして、よく見るとその白い肌を透明なうろこのようなものが覆っていた。
逃げろ、と本能が言っている。けれど足は地面に縫い付けられたように動かない。
目の前の男子は大きな目をさらに見開いて、眼光の全てをわたし達に注ぎ込むようにこちらを見ていた。
思わず渚の手を強く握る。
「お前が
男子はわたしを指さしてから、そのまま渚を指さした。
全然違う名前で呼ばれてわたしは小さく首を振る。
「あの、ちがう……人違い……」
「いいや間違いないね」
金色に光る眼がわたしと渚を交互に見る。そして再びうろこの浮く指で渚を示して言った。
「次の王は次郎」
「王?」
「次郎、次郎! 鼬ノ次郎!!」
声高にそう叫んで、ケラケラと笑いながら男子は去って行く。あまりのことに直立したまま目で追うが、その姿はひとつの瞬きをした間に蜃気楼のように消えてしまった。
呆然とするわたしの手を渚がちょいちょいと引く。
「はっ! こ、怖! 早く帰ろっ!」
我に返って渚を引っ張りながら家路を駆ける。
「まゆこ怖いの?」
「あ、当たり前だよ! 絶対に不審者だって! なぎさはなんでそんなにケロっとしてるの!?」
「あんなの全然怖くないよ」
背負ったランドセルをパタパタ鳴らして、二人並んで走る。いつもなら海岸で島のジジババ達が散歩しているのに、今日に限って誰もいない。
『次の王は次郎』
ざわりと二の腕が粟立つ。その言葉の意味を理解してはいけない気がした。
「あの子、一体なんだったんだろう……?」
冷や汗をかき浅く息をするわたしを横目に、渚はさも当たり前のように言い放った。
「あれは
▽
蛇なんかじゃない。かと言って本当に人間だったかと言われると自信がない。うろこのようなものが人間に生えるとも思えないし。
波音に紛れるように海岸を走って潮の香りに守られた家に着いた頃にはもうへとへとになっていた。
「まゆちゃんなぎちゃん、おかえり。どしたんそんなに息切らせて」
台所からおばあちゃんがひょっこりと顔を出したのを見て、わたしはようやく全身の力を抜く。
「変な子がいたの」
「よその子をあんまり変とか言わんの」
「ほんとのほんとに、不審者が」
「まゆこはへびにびびりすぎ」
「なんや蛇かいな」
「蛇なんかじゃない! ヒトだった……と、思う」
渚も見ていたはずなのに、どういうわけか本当に道端で蛇を見かけただけのような反応だ。きっとおばあちゃんにはわたしが蛇に大騒ぎしているだけに見えるだろう。
それとも彼は本当に蛇だった?
いっそ夢ならよかったのに。
頭を抱えて和室の隅にランドセルを置く。渚はのんきなことに、庭で子犬のまる子と戯れ始めていた。
「まゆちゃん、ご飯の前に宿題済ませておいでよ」
「はあい……」
トントン、コトコト。
おばあちゃんの料理の音をBGMにして宿題に手をつける。今日の夕飯はきっと鯖の味噌煮と温野菜。わたしはおばあちゃんの作る温かいご飯が大好きだ。
そのご飯を食べ終わった頃に、漁に出ているおじいちゃんが今日もお酒を飲んで帰ってくるに違いない。赤ら顔でいつもご機嫌で、ころっと寝てしまうおじいちゃんも大好き。
だけど時々、お母さんの作るカレーライスが食べたくなったり、お父さんがパソコンをカタカタ打つ音が恋しくなったりするのは内緒だ。
「お父さんは次いつくるの?」
ふいにかけられた声に、ぱきりと鉛筆の芯が折れる音が重なった。
いつのまにか渚が畳に寝転がってこちらを見上げている。本当に自由なやつだ。
「お父さん忙しいから、わたしにも分からないの」
「電話で聞いてよ」
「自分ですればいいでしょ。ねえ鉛筆削り知らない?」
「まゆこのバカ。知らないし!」
「バカって言う方がバカ!」
ぎゃあぎゃあ言い合っている内に、道具箱の奥に追いやられていた鉛筆削りを見つけた。お父さんが選んでくれたシンプルなそれは渚と共用で使っている。
わたしだってお父さんに会いたい。けれど相手は各国を飛び回っているスーパービジネスマン。お父さんが海外出張の間わたし達が生活できるように、お母さんの実家があるこの島に引っ越してきたのだ。
お父さんはそのまま単身赴任、日本に帰って来て休みが取れたら会いに来てくれる。
「なぎさがいい子にしてたら来てくれるかもよ」
「ぼくお父さんに嫌われてるもん」
渚はまた変なことを言い出す。
本当はお父さんに会いに行きたいだけなんでしょ。渚はお父さんの端末で見れるアニメの続きが見たいんだって知ってるんだから。
「なんでそんなこと言うの」
「だってぼくお父さんに似てないから」
しゃりしゃりとわたしが鉛筆を削る音が和室に響く。
台所からおばあちゃんの包丁の音がする。
遠くからは波の音。
もっと遠くから船の音。
じゃあ足元からは?
「なに言ってるんだか」
耳の奥がズキリと痛んだ。
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