第二章 鈴玉、大いに後宮を鬧(さわ)がせる③

 ふと、窓の外の日差しから夕方が近いことを知った鈴玉は、錦繡殿の主人に丁寧にいとまを告げた。すると、呂氏は茶菓子の残りや茶葉を与えてくれたが、鈴玉だけでは持ち切れないほどの量だったので、若いかんがんを一人つけてくれた。

 その宦官は、お茶の時間じゅう呂氏の傍らにはべっていたが、鈴玉にもしばしば思わせぶりな視線を送ってきたので、気にはなっていたのである。二人は黙々と歩いていたが、宦官は横目で鈴玉を見たかと思うと、口を開いた。

「鴛鴦殿に、薛明月という女官がいるね」

「ええ、おりますけど。それが何か?」

 宦官はにやりとした。

「妹なんですよ、実は。俺は薛はくじんといいます」

 鈴玉は思わず立ち止まり、眼をぱちくりさせた。

「何ですって? じゃあ、あなたは明月のお兄さま?」

 ──ああでも、そういえば明月に似ているかも。三日月型のまゆとか、やや下がったじりとか、少しぽってり気味の唇とか。

 妹のほうろくまで使い込み、錦繡殿の威光をかさに着てやりたい放題という明月の兄。鈴玉は一歩離れ、改めて相手を検分したが、ぱっと見には悪目立ちしない、どちらかというと妹と同様に人好きがする容貌である。

 だが、鈴玉は彼に違和感を覚えた。笑っているようで笑っていない顔、優しげな中にも、鋭さと抜け目なさとを兼ね備えた眼──こう見えるのは、鈴玉が香菱と明月の立ち話を聞いてしまい、本人を目の前に警戒しているからだろうか。でも確かに明月とは似た顔立ちなのに、雰囲気は全くと言っていいほど異なっている。

「君のことは明月から聞いたんだ。鴛鴦殿で仲良くしていて、志を持つ君を応援したいってね。ところで彼女は元気でやっているだろうか?」

「ええ。王妃さまの覚えもめでたく、朝から晩まで良く働いていますよ。明月は賢くて優しい、いい妹さんね。私と職掌を交換してくれたので、彼女には感謝しているの」

「職掌? 何の?」

しよう係よ」

 鈴玉は誇らしげに胸を張り、博仁は左右に眼球を動かした。

「ふうん。じゃあ、あれは君のお手柄だというわけだ」

「手柄?」

「うん。このところ、主上は王妃さまを以前よりもお心にかけておられるともっぱらの噂だよ。それには、王妃さまのお召し物や雰囲気が変わられたのも大きいって。さすが有能な女官が鴛鴦殿には揃っているともね。特に、衣裳係が腕利きだと」

「そんな噂が……」

河豚ふぐ女官」やら「好色女官」やら、そのような不名誉なあだ名だけではなく、自分を評価してくれる者もいることがわかって、鈴玉もまんざら悪い気はしなかった。

「でもさ」

 博仁は顔をぐっと鈴玉に近づけた。

「君が頑張るのは、自分のお家再興のためだろう? 言葉は悪いけど、王妃さまが主上のちようあいをもっとお受けできれば、君もそれだけ浮かび上がれるわけで」

「なっ……それじゃ、まるで私が利己的なだけの人間みたいじゃない」

 鈴玉は初対面のこの宦官が、なぜそのようなことを言ってくるのか、見当もつかない。

「君にはもっと近道も用意されているんだよ。気が付かない?」

「何が言いたいの?」

 博仁はまたもにやりとする。

「『寄らば大樹の陰』という言葉もある。ねえ、大樹の指している意味はわかるよね?」

 鈴玉はだんだんいらちを覚えてきた。

「わかったわよ、どなたを指すかってことくらい。でも、どうしようもないじゃない。私が錦繡殿に移れる可能性は、いまのところ……」

 それを聞くや、博仁はざらついた笑い声を上げる。

「殿舎を移らなくても、うちの主人に協力できることはあるんだよ。例えば、日々の暮らしのなかでの『色々なこと』を知らせて差し上げるとか、ね」

 女官は露骨に嫌な顔をした。

「つまり、私に間者になれってこと?」

 博仁は射殺すような目線を向けられても、すっと受け流した。

「ずいぶん人聞きの悪い言葉を使うね? 鄭女官」

「ああ、そりゃ敬嬪さまには利益になるでしょうよ。私が間者になって見聞きしたことを錦繡殿に流して、敬嬪さまが私をいっそうお気に召してくだされば、私にとって立身出世の近道かもしれないわ。でもこれだけは言わせて。──私は、他人に利用されるのは嫌いなの」

 鈴玉はあえて言葉のつぶてを浴びせてみたのだが、相手はびくともしない。

「ふふふ、君は本当にきがいいね。我が主君がお気に召すだけある。だけど、どこまで君の強情が持つか……楽しみでもあるな」

 鈴玉はすっと眼を細める。

「あなたのいま言ったことは、敬嬪さまのご内意? それともあなたの一存で?」

「さあ、どうだろうね?」

 彼の言葉の紡ぎ出し方は糸を吐く蜘蛛くものそれにも似て、鈴玉の背筋をうすら寒くさせた。

 ──この私が、たかが一人の宦官にびくつくなんて。

「まあ、気が変わったらいつでも錦繡殿においで」

 鴛鴦殿に帰り着き、王妃に口上を述べて引き返す博仁を見送りながら、彼女は「お断りよ」と毒づいたが、ふと、先日の明月のすすり泣きを思い出した。

 ──明月もあの兄では苦労するわよね。そうだ。宮中に上がってから、お父さまにはお手紙も何も送ってなかった。そのうち綿わたいれでも作って送ろうかしら。

 そして、鈴玉は自分からも改めて王妃に帰参の報告をしたが、王妃はいつも通りの柔和な表情でうなずき、錦繡殿からの数々の土産を同輩たちと分けるよう許してくれた。

 だが鈴玉は、鴛鴦殿を出る時と帰ってきた時とでは、全く別の殿宇にいるかのような気持ちになっている。

 というのも、呂氏の言葉がどうにも頭に引っかかっていて、林氏の温顔、優しい声とおうような態度、それら全てが入念に作り上げられた仮面なのではないか、ひょっとして自分もゆくゆくは鴛鴦殿から追放されるのではないか、という疑念にとらわれてしまう。

 自分の主君を信じたくても、ともすれば不信がするりと忍び込んでくる。そうなると、再び仕事にも力と熱が入らなくなってきた。

「あなたこの頃、衣裳選びに『切れ』がないわよ。畑仕事でも師父に𠮟られたばかりでしょ。慢心して仕事を疎かにしているんじゃない? それとも何か心配ごとでも?」

 勘の鋭い香菱にぽんぽんと責められ、口をとがらせて言い返したものの、相手の言うことはせいこくを射ているだけに、鈴玉はたじたじとなった。

 ──ああ、全くどうかしている。こんな落ち着かない気持ちを引きずるのは嫌。


==この続きはぜひ書籍版にてお楽しみください!==

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王妃さまのご衣裳係 路傍の花は後宮に咲く 結城かおる/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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