第二章 鈴玉、大いに後宮を鬧(さわ)がせる②

     二


 自室に戻った鈴玉は一息つくこともなく、今度は懐に薄い冊子を忍ばせて再びこうえんに出かけていく。

 師父の小屋近くにある奇岩の脇では、謝朗朗が庭仕事の道具を丹念に手入れしていた。

「やあ鈴玉、久しぶりだね。どうした、『不出来女官』は返上かい?」

「何よ、そのあいさつは。『不出来女官』?」

 朗朗は白い歯を見せて笑った。

「うん、皆が君のことをそう呼んでいたからね。でも、このところ姿を見せなかったから、真面目に働いているんだと……」

「皆がみんな、私に勝手な名前をつけているのね、失礼しちゃう。そうよ、せっせと働いていたわよ」

 鈴玉はむくれたが、肝心の用件を思い出して懐に手を入れた。

「はい、あなたたちの本を読んだり『実演』を見せてもらったりしたでしょう? で、気が付いたことや感想を書きとめておいたの。良かったら読んで」

「ありがとう、助かるよ」

 冊子を受け取って喜ぶ朗朗を前に、鈴玉は肩をそびやかした。

「礼なんていいから。それより、あと一冊でいまの物語は完結なんでしょ。早く書いてちょうだいな。今日はこれを餌に、続きの催促をしに来たのよ」

 朗朗は「参ったね」とつぶやき、手で自分の額をぽんとたたいた。朗朗の口調や言葉一つとっても、「朗朗快活」いや違う、「明朗快活」という言葉がこれほど似合うものはない。

「それはそれは、お心遣いありがとう。でも、完結部分を書くのは、相棒の持ち分なんだよ。彼、決着のつけ方に悩んでいるみたいでね」

 鈴玉はふくれっ面になった。

「あともう少しで終わるのに、ここに来てお預けなんてひどいじゃない」

 彼女が抗議がてら手で軽く朗朗をはたくので、朗朗は腕で防戦せざるを得なくなった。

「ごめんごめん、いま秋烟は使いに出ているけど、帰ってきたら伝えておくからさ」

 鈴玉は秋烟の名を聞き、上目遣いに朗朗を見た。

「……ねえ、朗朗は秋烟のこと、どう思っているの?」

「どうって? 彼は友達で同僚だよ、他に何かあるの?」

 きょとんとして問い返す朗朗は、鈴玉の言葉の含意には気づかぬようである。

「別に、何でもない」

 いきなりおかしなことを言うね──そんな様子で悪戯いたずらっぽく笑った朗朗だが、雲に隠される太陽のように、ふっと表情を曇らせた。

「そういえば、鈴玉は外朝の動きについて何か噂を聞いているかい?」

「外朝の噂?」

 鈴玉は首を傾げた。「外朝」とは、王が政治を行う空間を指す。

「私は何も知らないわよ」

 鴛鴦殿では滅多に政治の話は出ない。後宮が朝廷の政治に介入するのを避けるため、そして王妃の考えが不用意に外に漏れるのを防ぐためでもある。

「だったら安心だけど……でも気を付けて。外朝が不穏らしいんだよ。これで政変か何かが起これば、僕たち後宮の人間も巻き込まれてしまうからね。特に鈴玉は鴛鴦殿づきなんだから」

「政変? 何か起こりそうなの?」

「うん、実はね……鈴玉も、長らく権門が幅を利かせて主上のご政道を妨げているのは知っているよね?」

 涼国では現王が即位する以前から、敬嬪呂氏の実家を含めた四大権門が中心となって政治をほしいままにし、王権との緊張関係が続いていた。

「昨年も、主上が凶作のため租税を軽減しようとなさったら、権門の連中がさんざん盾ついてさ。まあ、主上もしたたかでおわすから、権門連中の離間を計ったり、駆け引きなさったりしてようやく成功した。でも、この頃は連中がおとなしいんだ、不気味なほどにね。それは決して良いことではなく、事件が起こる予兆だともっぱらの噂さ」

「後宮の外では、そんなことになっているのね」

「そうさ。で、俺たちが最終巻をなかなか出さないのも大きな理由はそれなんだよ。秋烟の筆が進まないせいもあるけど、出す間合いを計ってもいる。下手なことをして、政変に巻き込まれたら大変だろう?」

 なぜ政治とえんぽんの話が結びつくのかは鈴玉にはぴんと来ず、あいまいうなずくほかなかったが、朗朗は決していい加減なことを言う人間ではないので、彼の忠告を胸にしまっておくことにした。


 その数日後の昼下がり、鈴玉は敬嬪呂氏の錦繡殿に招かれていた。女官としてはあり得ぬことながら、呂氏とともに卓につき、茶菓子のもてなしを受けている。

「あの、私はただの女官です。尊い御方と席をともにすることは……」

「宮中の規則に触れると? 良いではないか。ふふふ、今日は全て王妃さまにお許しをいただいているゆえ、案ずるでない。一度、そなたとはゆっくり話をしてみたかった」

 白磁に五彩で繊細な絵付けをされたちやわん、それに注がれるのは最高級の茶。鈴玉は呂氏に茶葉の名を伺ってはみたが、何やら小難しい名前で覚えられない。そして、勧められるがまま砂糖菓子を口に入れると、舌の上でふわっととろけ、上品な甘みが広がる。

「どうじゃ? 鴛鴦殿の格式には及ばぬだろうが、この錦繡殿にも後宮暮らしの慰めとなるものは揃っておる」

 呂氏は紅も匂やかな唇を開いて、くくくっと笑う。

「それにしても、王妃さまが女官の『振り分け』の日に、そなたをお手元に引き取ったのには、感心させられた」

「どういうことでしょう?」

 呂氏は直ちには答えず、茶碗に手を伸ばす。

「そなた、自分の主人のことをどう思うか?」

「王妃さまですか?」

 鈴玉は首を傾げた。先程から、この貴婦人の言葉が謎めいて聞こえる。

「そうですね……まことにお優しく、慎ましいお方だと心得ます」

 呂氏はそれを聞くや、鋭い笑い声を上げた。鈴玉は思わず身をすくませる。

「はっ! 確かに! 王妃さまはこの上なく優しいお方だ。だがそなた、それだけか? そなたは見習いのときには上に反抗的で、鴛鴦殿に配属された後もめごとばかり起こしていたと聞くが、ずいぶん『良い子』な答えをするのだな」

「…………?」

「後宮の華」は卓越しに身を乗り出して、こちらをのぞき込んだ。

「鴛鴦殿の主人たるもの、ただ『お優しい』だけではつとまらぬ。時に冷酷にも非情にもなり、場合によっては親きょうだい、子飼いの者を切り捨てるほどの覚悟がなくては、王妃の地位を保てぬ。そう、あの方も例外ではない。ふふ、そのような驚いた顔をするな。意外だったか?」

「いいえ、……ええ、とても」

 鈴玉は首を曖昧に振った。

「では、その王妃さまがそなたを手元に引き取られた理由を当ててみせようか?」

「理由、ですか」

「よもや、単なる気まぐれで王妃さまが動かれたと思ってはいまいな? ははあ、その顔つきを見たところ図星であるな。そなた、この宮中で頭角を現したいのであれば、自分の考えをやすやすと表情に出すでない」

 恥じ入る鈴玉の右手を、呂氏は自分の両手で包み込む。

「そう、そなたは美しい。艶やかな黒髪、星のように輝くひとみほうらい山に積もる雪のごとき肌。私から言わせてもらうと、そなたは主上がお好みになる女性の美しさを持っている。だからこそ、王妃さまはそなたをお側近くに置いた……主上の訪れも少ない鴛鴦殿で、そなたを監視するためだ。王妃さまのむねのうち、私はそう拝察するがのう」

「そんな……」

 鈴玉は予想外のことを言われ、絶句した。

 だが、あり得ないと思いながらも、王妃に対する自分の気持ちにぽつんと黒い染みがつき、みるみる広がっていく。そんな彼女の心の揺れを見透かすように、呂氏は意味ありげな笑みを浮かべた。

「まあ、これはあくまでも私の推察──いや、邪推にすぎないだろう。つまらぬことを言った、許せ」

「いいえ。許せだなどと、滅相もございません」

 恐縮する鈴玉は、外の回廊を駆けるごく軽い足音に気が付いた。振り返ると、五歳ほどの男の子が、入り口にかけられたとばりをするりと通り抜けてくるところだった。

「ははうえ!」

 髪を童形のそれに結い、若草色の衣に身を包んだ貴公子。鈴玉は慌てて立ち上がった。彼は真っすぐ母に駆け寄り、息を切らせてそのひざにしがみつく。

「母上、ゆうれんがぼくのまりを隠しちゃって」

 優蓮とは、呂氏が産んだ公主の名である。母親は微笑み、息子の髪をでた。

「おお、そうか。でも心配せずともよい。あの子から毬を取り戻してみせようほどに」

 母親の一言で納得したのか、童子は傍らの鈴玉には眼もくれず、きびすを返してぱたぱたと駆け出していった。

せつけい公子さま?」

 半ばつぶやきのような鈴玉の言葉に、呂氏は頷いた。

「そうじゃ。王の一番上の男子ぞ。いずれ重責を担う立場ではあるが、学問には興味を示さずあのように……困ったことだ」

 その口調とはうらはらに、敬嬪の表情はとろけんばかりになっている。

 ──まあ、そりゃとろけもするでしょうよ。何と言っても、王妃さまにこのまま男子がお生まれにならなければ、あの雪恵さまがいずれ世子となり、最終的には玉座におつきになるのだから。それにしても、王妃さまがこの方のおつしやるような策謀家とは、とても思えないけど……いいえ、ここは宮中。何があってもおかしくないのだから。

 慎ましやかな王妃と華やかな呂氏、路傍の花と大輪のたんようぼうも性格も何もかも、互いに逆を行く二人。そして、いまの鈴玉の気がかりは、そのれんにも見える路傍の花にとげが隠されてやいまいか、ということ──。

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