第二章 鈴玉、大いに後宮を鬧(さわ)がせる①

     一


「あなたも物好きねえ、こんなことにまで手を出すなんて」

「ん?」

 振り向いた鈴玉は香菱と眼を合わせた。二人ははぎの手入れに取り掛かっているところである。

 ついに鈴玉は、髪飾り用の生花をただこうえんで手に入れるだけでは飽き足らず、後苑の統轄を行う宦官との交渉の末、一角にあるごく小さな畑を借りることに成功した。

 いまは「師父」──秋烟や朗朗の師匠で、草木を育てる名人という老宦官の指導を受けながら、の栽培に取り組んでいる。さすがに一からではなく、師父が分けてくれた数種類の花の面倒を見つつ、自分でも苗や種から育て始めた。そんなこんなで、鈴玉は多忙な毎日を送ることになってしまった。

 また、香菱とは相変わらず仕事の上でも女官部屋でもぶつかることは多いが、最初の頃より上手うまくやっていくすべも身につけつつあった。

「そういえば、あなた、自分が陰でどう呼ばれているか知っているの?」

 油虫よけの酢水を萩に吹きかけながら、香菱がちらっとこちらを見る。

「何よ」

「出回っているえんぽんを読んでいるんでしょう?」

「もしかして、香菱も読んでいるの?」

「馬鹿言わないで、鈴玉じゃあるまいし。何でもあなた、どこかにいる作者に続きをしつこく催促しているって? で、本を手に入れたら入れたで、よだれを垂らしながら読んでるっていうじゃない。私たちと同室なのに、こそこそやっているのね」

「香菱、どこからそんな話を……」

 自分のことがなぜそれほどまでに知られているのか、鈴玉には見当もつかない。

「とにかくそんな感じであなたのことは噂になっていて、まあ最初は『ふくれっ面女官』『河豚ふぐ女官』、次に『艶本女官』、ああ、『好色女官』『色事女官』っていうのもあったわ」

「艶本女官?」

 鈴玉は怒りで身体を震わせた。

「あ、でもいまは別のあだ名で呼ばれているから、安心なさいな」

「何よ、今度は」

 疑惑に満ちた視線を送る鈴玉に、香菱はにやりと笑ってみせた。

「『でいじん女官』。泥人形のように、泥土にまみれて庭仕事しているからって」

「ふん、言わせておけばいいわ。馬鹿ばかしい」

 河豚女官は、つんとして目の前の萩に向き直る。

「それにしても、あなたってそんなに凝り性だった? それとも、家門再興のためなら遠回りの道でも頑張れるってこと? せっかく湯内官や謝内官と仲良しなら、花の栽培を任せたらいいじゃない。何も鈴玉が自分で育てなくても……」

「だって、思う通りに育ててくれるかどうかわからないでしょ。それに花がどのように育って、いつ咲き頃なのかをよく分かっていないと、しようにも上手く合わせられないし。この色のこの花が欲しい、となるとやっぱり自分でやらなきゃ。いけない?」

「あらあら、いつの間にか仕事熱心になっちゃって、鄭鈴玉先生は。でもちゃんと勉強しなさいよ、この間はれいだからといってきようちくとうを育てようとしていたでしょう? あれは毒があるのよ、気を付けないと」

「過去の失敗を責めないで。頭がいい人は、私の忘れて欲しいことをいつまでも覚えているから嫌い」

 ぷっとふくれた鈴玉の頰には、泥がついている。香菱は相棒の面相にふき出した。

「何よ、何がおかしいのよ。香菱だって、結局私に付き合って畑仕事をしてるでしょ」

「そりゃそうよ、私がこっちの仕事を手伝って早く終わらせないと、あなたはいつまでも鴛鴦殿に帰ってきやしないじゃない。だから、仕方なくよ」

「手伝ってくれだなんて、頼んでませんようだ」

「まあ、相変わらず憎々しいわね、あなたって人は」

 香菱は、んであったおけの水をすくいとり、ぴちゃっと鈴玉にかけてよこした。

「あっ、ひどいじゃない」

 わあわあ言い合う女官たちを、午後の太陽が優しく見下ろしている。

 ひとしきり騒いだ後、後苑を出たところで鈴玉は師父のもとに行く香菱と別れ、生花を抱えて鴛鴦殿の方角へと歩いていた。

 ──あら?

 少し離れた太清池のほとりに集まる人々、その中心には一人の女性がたたずんでいる。眼にも鮮やかなたいしゆうに濃い桃色の帯が目立ち、遠目にもただならぬ華やかさを匂わせている貴婦人だった。

 目を凝らすと、周りを取り囲んでいるのは数人のかんがんと女官だが、そのうちの一人は鸚哥である。彼女は鈴玉に気が付いたようで、貴婦人に近寄って何ごとかを囁いた。

 ──では、あの方が敬嬪さま?

 貴婦人は鸚哥にうなずいてみせると池を回り、ひざを折って目を伏せる鈴玉の前に立った。

 ──さすが権門のご出身で、王さまのちようあいも深いだけあるわ。

 ちらりと見ただけでもわかる、呂氏の見事な衣裳と宝飾。金と宝玉で飾られた大きなかんざし、金糸や銀糸を使ったぜいたくな大袖、一目で優品とわかるすいはいぎよく

 だが、それにもまして貴婦人の持つ匂やかさと艶やかさは「後宮の華」と呼ぶにふさわしく、彼女はすっかり当てられた気分になった。

「そなた、鴛鴦殿の女官だとか」

 やや低く、深い声が紅の唇をついて出る。

「鄭鈴玉と申します。貴い御方にごあいさついたします」

 一礼して姿勢を正した女官の名を聞いて、ほう、と敬嬪呂氏はかたまゆを上げた。

「そなたのことは知っている。不良の成績にもかかわらず鴛鴦殿に召し上げられた女官としてな。ふふふ」

 彼女が首を振ると耳飾りの紅玉がきらめき、きしめている濃厚な香が、ゆるりと立ち上って鈴玉の身体をも包んだ。

「ご存じでいらっしゃいましたか。恐縮の極みです」

「そなたは気が付かなかったやもしれぬが、私もあの場にいたからのう。遠くから『振り分け』を見ておった。惜しや、そなたが鴛鴦殿に行かなければ、我が殿で召し抱えようかと思うていた矢先だったのに──」

「私が、敬嬪さまづきに?」

 鈴玉は心底驚いた。あの「振り分け」の日、錦繡殿に仕えたいという望みがまさか実現寸前だったとは。では、自分は家門再興の望みを早道で果たす千載一遇の機会を、わずかな差で逃してしまったことになる。

 惜しいような、惜しくないような、あきらめるしかないような、まだ諦めたくないような、そんな複雑な表情を鈴玉がしていたからだろう、呂氏は一笑して彼女の両手を取った。まだ初秋だというのに、呂氏の手は磁器のようにひやりとしていた。

「私は生き生きとした人間が好きだ。『振り分け』の時のそなたは、後方にいても目を引いた。それはただ、そなたが持ち合わせているこのぼうのせいだけではない」

 敬嬪に頰を軽くでられ、鈴玉はびくっとして硬直する。

「ふふふ、なかなか可愛いところもあるのだな。どうだ、これを機会にしてそなたと私、縁を結ぼうかの?」

 別れ際、呂氏は鸚哥に命じて鈴玉を鴛鴦殿へと送らせた。

「私のせいで、用事が滞ったことを𠮟られては気の毒だ。鸚哥が王妃さまに事情を伝えようほどに。鄭鈴玉、今日は立ち話のみだったが、いずれ我が殿にも来るが良い」

 王妃と鈴玉に対する呂氏の細やかな心遣いがうかがえ、ありがたくその言葉を受け取った鈴玉ではあるが、実は鸚哥とはあの「実演」以来、顔を合わせるのは初めてだった。

 理由の一つは、朗朗たちの艶本はあと一冊で物語が終わることが明らかなのに、なかなか出来上がってこないからである。それで、鸚哥と顔を合わせる機会もがくりと減った。そしていま一つは、例の「実演」の時に気まずくなり、疎遠になっていたからだった。

 だが、いま二人は並んで鴛鴦殿への回廊を歩いている。

「ねえ、鈴玉」

 口火を切ったのは鸚哥だった。

「あんた、良かったじゃない。あたしの敬嬪さまへのつなぎも出来て、これで将来の出世は間違いなしよ」

 鈴玉は眉をひそめた。

「敬嬪さまの覚えをいただければ、私は浮かび上がれるかもしれないけれど、あちらは私と知り合って何の得があるのかしら?」

「さあ? でも損得勘定でなく、敬嬪さまのお優しさから出ているものだと思うけど」

 ほつれたびんを撫でつけた拍子に鸚哥の袖がめくれ、翡翠の腕輪がのぞいた。一介の女官が身につけるには贅沢な、緑色も鮮やかな逸品だ。鈴玉は反射的に、自分の細い銀の腕輪をさっと袖のうちに隠した。鴛鴦殿では主人の性格を反映して、女官もごく地味な腕輪か、小さいかんざしを挿すことくらいしか許されていないのだ。

 鈴玉の視線の先に気が付いたのか、鸚哥は得意満面になった。

「ああ、これは錦繡殿に勤めてひとつきめに、敬嬪さまからちようだいしたのよ」

 鈴玉には、翡翠の光がまぶしかった。

「贅沢なものね」

「あら、このくらい錦繡殿では普通よ。宦官には帯の佩玉、女官には耳飾りや腕輪。敬嬪さまはいつも『良い働きをしているから』と、惜しみなく高価なものを下さるわ。それで、あたしたちも働きがあるわけ」

「ふうん、そうなの。あなた、最初は『つまらない』と言っていたのに、錦繡殿にんできたわけね」

「まあね。鈴玉も見たでしょう? 敬嬪さまのご衣裳や飾りもの。一番大きな黄金の釵はどう? あれにまっているそうぎよくは、すい国の使者からの贈り物で、王さまが敬嬪さまに下賜されたのよ。それからね……」

「烏翠だかこつけいだか知らないけど、そんな宝玉のことなんか知らないわ」

 鈴玉は相手の長話を遮ったが、鸚哥は鈴玉のいらちなど気づかぬ様子で唇をめた。

「まあ、近いうちに鈴玉は錦繡殿で働くことになると思う。だって、あたしの主人がお気に召したんだもの」


 心を波立たせ戻って来た鈴玉に、王妃は変わらぬ優しげな表情を向けてきた。

「敬嬪と会って、話をしたとか」

「はい、お話しいたしました」

「どのようなことを?」

「ええと、私を錦繡殿に召し抱えたかったとおつしやってました」

 鈴玉は鸚哥の腕輪の件でくさくさしていたので、やけになって正直に答えてしまった。

 林氏はゆっくりと口の端を上げた。

「ふふふ、なるほど。華やかな花園には、より華やかな花を植えてでたいものでしょう。鈴玉、そなた自身はどうか。錦繡殿へ移りたいと思ったか?」

「えっ……」

 思いもかけぬ話の転がり方に、鈴玉は眼を丸くした。

「移りたく思えば、いずれは移っても良い。でもまだまだ、鈴玉は我が殿で修業しなければ。だから、いまはかなわぬ」

 ──移っても良い? 王妃さまは、私をずっとお抱えになるつもりはないの?

 林氏の不可解な態度に首をひねりながら鈴玉は御前を退出し、自室へ向かう途中で足を止めた。付近の建物の陰からぼそぼそと話し声が漏れている。

「あなたのお兄さまはまた、あなたが渡したほうろくを使い込んだの?」

「ええ。どうしよう」

 涙でも流しているのか、くぐもった声は明月のもの、そして相手は香菱だった。

「私がこんなことを言うのも何だけど、お兄さまはこれで何度めよ? あなたからお金をせびり取っていくの」

 それには答えず、代わりにかすかなすすり泣きが聞こえてくる。

「妹は綿わたいれも持っていないのよ。これからあっという間に秋が過ぎて、冬が来るのに。家族への仕送りも思うに任せない、こんな状態では年を越すのも……」

「だから、お兄さまときちんと話して、もうお金のことで迷惑をかけないと約束させなさいよ」

「でも香菱、そうできたら苦労はないわよ。兄は錦繡殿づきを鼻にかけてやりたい放題なんだから」

 聞き耳を立てていた鈴玉は、「錦繡殿」の一語にどきりとした。先ほどの呂氏とのかいこうでは、鸚哥以外のかんがんや女官は覚えていないが、あの場にも明月の「兄」がいたのだろうか。そういえば、彼女は以前「兄が宦官として働いている」と言っていた。

「まあ、私も家族に悩まされているのは明月と同じだけどね。うちの実家は、父が後妻を迎えて異母弟が生まれたら折り合いが悪くなって、居づらくなって。それが入宮の一番の理由」

「香菱、あなたも大変だったのね……」

「ふふ、そんな顔しないで。私は自分の選択を後悔していないから」

 ──明月も香菱も、それぞれ事情があるのね。

 鈴玉は、足音を忍ばせてその場を離れた。

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