第一章 鈴玉、青雲の志を立てる⑫

 それからというもの、鈴玉は仕事の合間を見ては、御衣庫でしようを見たり文献を読んだりした。

「大切なお召し物が、あなたのせいで傷みでもすればたまらないわ」

 香菱は最初こそ嫌味っぽく言ってよこしたが、精励する鈴玉を意外に思ったのか、御衣庫についてきて、衣服の畳み方や宝飾の扱い方を丁寧に教えてくれた。

「冬至のさいに用いるのは白玉の首飾りに真珠の耳飾り。ほうおうの冠は夏至と同じで……」

 宮中行事で着用する衣裳の細かな決まり、衣裳係が代々申し送る覚書、巻物に仕立てられた図解。これらは外への持ち出しが出来ないので、御衣庫の窓際の机を使い、鈴玉は熱心に衣を広げたり、文献を飽かずめくったりした。そして──。

「大きな行事がなくて、王妃さまが常服をお召しになる日でいいの。一度でいいから衣裳と宝飾、両方の案を私に作らせてもらえない?」

 ある日、鈴玉に問われた同輩は鼻にしわを寄せた。

「あなた……今度は私の仕事を取ろうって?」

 その警戒の声音に「そんなつもりじゃないわ」とは言い返したものの、確かに香菱が疑うのも無理はなかった。

「衣裳と宝飾は荷車の両輪のようなものでしょう? 色彩や雰囲気が上手うまく調和すれば、さらに王妃さまはお美しく見えるかもよ。そして、王さまの訪れもいま以上に……」

「私が気に入らないのは、そこなのよね」

 香菱の鼻の皺が、けんに移った。

「どうして?」

「だって、王妃さまは今のままでお心優しく、気高く、国母としてまこと不足のない方なのに、側室たちと競ってちようのようにひらひらとまとわりついたり、たんのように華やかに着飾ったりして、王さまの気をあえて引く必要なんてあるかしら?」

 ぐっと鈴玉は言葉に詰まったが、気を取り直してなおも言いつのった。

「それは、そのままでも王妃さまに違いはないけど、王さまは王妃さまを、『王妃さまとして』は大切に思われているけれど! もし王さまが、『一人の女性として』王妃さまをお目にとめる機会が増えれば、もっと大切に思われるかもしれないじゃない」

「…………」

「何もぜいたくなものを勧めたり、大げさに飾り立てたりするわけじゃないわ。ちょっとした工夫をしたいだけ。ねえ、お願い。一度だけでいいから。それで王妃さまのご不興を買ったら、私は元のべいの係に戻る。約束よ」

 それから二十日あまりの後、再び王妃は朝の身支度で目をみはることになった。

「これは?」

 彼女が指さした先には見覚えのある衣裳。しかしえり元の布地は取り替えられていた。やや濃いめの水色にさりげない、繊細な花柄のしゆう。そして、残暑のなかにも秋立つ季節を感じられるよう、くんには茶色みが強いえんを配している。

「もしや、これも鈴玉が?」

 振り向いた主人に、鈴玉ははにかんだ。

「はい。あ、いえ、刺繡はしようふく局の女官に頼んで……」

 尚服局は衣服をつかさどる部署であり、鈴玉が頼んだのはその中でも最も刺繡の巧みな女官だった。彼女は王妃の御用と聞いてもが高かったが、頼みに行った鈴玉は怒りをこらえ、頭を下げたのである。

「でも、図案と配色はそなたの手で考えたのですね?」

「ええ、お似合いになると良いのですが」

 香菱が衣裳を取り上げ、王妃の身体に着せかけた。そのまま彼女は背後に回って衣の中心を決める。一方、鈴玉は慎重な手つきで衿元を調整し、紋様の図柄を合わせると同時に、ほっと息を漏らした。

 ──良かった、思った通りだわ。お顔映りが格段に違う……。

 無駄な費えを嫌う王妃の性格を考え、衣裳の新調はしない代わりに、衿元の装飾を替え、王妃の顔立ちに合うよう調整する。それだけで、いつもの衣裳が見違えるようになった。

「まあ、王妃さま。良くお似合いになります」

 帯結びに奮闘する鈴玉の脇で、香菱も感嘆の声をあげる。やや薄い青の帯、帯に回す紺の飾りひも、そして白の鳳凰のはいぎよくに至るまで、みな鈴玉が配色や形の組み合わせを慎重に考えたものである。仕上げには、小ぶりのようで作った髪飾り。

 銅鏡で自分の姿を確認した王妃はくすりと笑い、居並ぶ女官やかんがんたちも口々に賞賛した。

 そこへ国君の臨御を知らせる先触れが響き渡り、鴛鴦殿の全ての者が身をただした。今朝は王が王妃とともに、嫡母である太妃にあいさつをすることになっている。

 王妃は宝座を退き、女官たちの前に立ってはいする。そしてさつそうと入ってきた王を迎えた。鈴玉ももちろん主人にならったが、ちらりと王のりゆうがんを盗み見た。

 二十代半ばの若き主上ははつらつとした印象を人に与え、秀でた額に思慮深そうなまなし、整ったりよう、それとは対照的に悪戯いたずらっけを帯びた唇には、朗らかな笑みを浮かべている。

 視線を感じたのか、王が鈴玉を見返してきたので、彼女は慌てて下を向いた。

 ──賢君と誉れ高い王さまだけれども、お姿も素敵ね。まるで小説に出てくる主人公そのまま。「かいろうどうけつ」とは無縁の御方なのに、嫌だわ、胸がどきどきする。

 王妃は、自分の背後にいる若い女官の心の乱れはつゆ知らず、「ようこそお越しなされました、主上」と夫に微笑みかけた。

「うむ」とうなずきかけた王は、林氏をいちべつして驚きの様子を見せる。

「どうなさいましたか?」

「雰囲気が、いつもと異なるような……」

「お気に召しませぬか?」

「いや、そのままで良い」

 そして、そうぼうをきらめかせて唇の端を上げた。

「正直に言って、来る殿舎を間違えたかと思った。いつも以上に美しい」

「まあ、お戯れを」

 王妃が笑みを含んで夫をとがめ、王も照れを隠すように天井を向いてこうしようした。女官たちも笑いをこらえきれない。

「お褒めのお言葉をちようだいしてうれしゅうございますわ。実は、こちらの鄭女官が服や宝飾を選んでくれたのですよ」

 当の鈴玉は、いきなり名指しされてびっくりした。王は彼女に頷いてみせる。

「我が妃の美点を引き出すように工夫したのだな、鄭女官。なかなか見事な仕事ぶりだ」

「いえ、もつたいないお言葉で……」

 ──初めて、王さまよりお言葉を賜った!

 鈴玉はもう倒れそうで、どうやって拝礼したのかも覚えていなかった。

「いつもの元気さはどこにやった? 鄭女官」

 鴛鴦殿の主人はからかうような眼差しを鈴玉に向け、再びその場には笑いが満ちた。そして、王妃は女官長に促されるまま、王とともに太妃の御殿に向かった。

「何をにやにやしているのよ、薄気味悪いわね」

 身支度道具の片付けをしながら、香菱がひじで鈴玉をこづく。いつもなら必ず何か言い返す鈴玉も、「えへへへ」と笑うばかりだった。

「だって、王妃さまのお気に召したばかりか、主上からもお言葉を……」

「それはわかっているわよ」

 香菱は相手の締まりのない口元を見やって、「処置なし」とばかり首を横に振ったが、声を落としてささやいた。

「でもまあ、あなたに下心があるとしても、結果的には良かったわね。私も、王妃さまが王さまにお褒めの言葉を賜るのは嬉しいものだし。もし王さまのお目にとめていただければ……ひょっとしたら、あなたの出世の糸口になるかもよ?」

「出世?」

 実のところ香菱に言われるまで、鈴玉は出世やら、家門再興やら、そんなことはすっかり忘れていた。

 ──そりゃ、香菱の言う通りだけど。ええ、もちろん自分の望みや志は捨ててないわよ。でも私は、何でこんなに仕事に夢中になっているんだろう?

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