第一章 鈴玉、青雲の志を立てる⑪

 池からかるがもが一羽飛び立ち、残る一羽も後を追った。

「朗朗のこと──好きなの?」

 秋烟は返事をしなかったが、代わりに頰が赤く染まる。

「どうして……彼を?」

 うつむいた秋烟は、まるで腰かけた岩と一体となったかのようだったが、しばらくしてやっと鈴玉の顔を見た。その目つきは怖いほどに真剣だった。

「宦官が人に恋してはいけないかい? 肩で風を切って我が物顔で宮中をのし歩く、どんよくで陰険で人間扱いされない僕たちが、恋なんて身分不相応だと?」

「そんな……」

 いつもの彼に似つかわしくない切り口上。鈴玉も、されるように語尾が消えた。

 でも、なぜ秋烟が朗朗を深く慕うのか、その理由はわかっていた。快活で優しく、男女問わず人をきつけてやまない朗朗──。

 そのまま二人は黙って並んで座っていた。見上げれば空には雲が天帝のおわす宮城のようにそびえ立ち、見下ろせば池には鯉がまどろんでいる。

「聞いていい?」

 長い沈黙に耐えられなくなり、ついに言葉を発したのは鈴玉のほうだった。

「朗朗は、あなたの気持ちを知っているの?」

 秋烟は首を横に振った。

「知らないし、これからも知ることはないはずだ」

 去勢により声が高くなる宦官に似合わず、低い声音で答えた彼の表情は、平素の穏やかなものではなく、一つの覚悟を背負っているような厳しいものに見えた。そして、服の袖をまくるとひじから下を鈴玉に示した。

「見て、この傷」

 肘の付け根から手首にかけて、一条の古傷が走っている。

「僕も朗朗も、家が貧しすぎて食べていけないから宦官になった。見習い時代は本当につらくて、僕たちは殴るるされながら宦官として生きる道を仕込まれた。君たち女官は主上のちようあいを受ける可能性もあるから、あとあと傷が残るようなせつかんはされないだろう? でも、宦官は違う……」

「秋烟……」

 鈴玉は、胸が詰まった。

「雨の日、捨てられた犬っころみたいにさ、朗朗と僕は軒下で震えながら縮こまり、互いの傷をかばい合って泣いていた──もう十年も前の、子どもの頃の話だけどね。ともあれ、親兄弟よりも長い間、昼も夜も、楽しい時も辛い時も一緒にいる、それが彼だ」

 秋烟は、そでを下ろして傷を隠した。

「朗朗は親友で同僚。それで充分、それ以上は望まない。朗朗の気持ちは知らないけれど、僕が小説を書く理由は何だと思う? 自分が女性になったつもりで、朗朗のような男性からの愛を受けてみたいと思うからなんだよ。鈴玉はこんな僕をおかしいと思う?」

「はっ」とちようじみた笑いが、彼の唇から漏れる。

「秋烟……」

 ──でもそれでいいの? 寂しくないの?

 鈴玉はそう言いたい気持ちを吞み込んだ。そして、なぜ自分が房事の場面以外で彼等の小説に魅かれるところがあったのか、また一つ理由がわかったように思った。

 鈴玉の切なげな視線をとらえて、秋烟はふっと表情をやわらげた。

「ごめんごめん、せっかくいいことをしらせに来てくれたのにね。そんな顔つき、君らしくないよ。ねえ、僕のことは朗朗には黙っていてね。代わりに口止め料をあげるから」

 恋にはんもんする秋烟と別れ鴛鴦殿に戻った鈴玉を、柳女官が待ち構えていた。

「鈴玉、また怠業しておったのか? そんなしおらしい顔をしても駄目じゃ。まあ、よい。そなたに報せがある。そなたの職掌はべい係からしよう係に変更になった」

「えっ……」

 鈴玉は顔を輝かせ、柳蓉もそれまでの渋面を少し和らげた。

「明月が今朝のそなたの働きに感謝し、自分と職掌を交替するよう私と王妃さまに懇願したのじゃ。王妃さまはよくお考えになり、二つの条件つきで許可なされた。一つは衣裳係に精励すること、そしてもう一つは、折を見て器皿の出納に戻ること。何事もやりかけはよくないからのう。さあ、早く王妃さまにお礼を申し上げてきなさい」

 王妃に謝礼を言上したあと、鈴玉は急いで明月を捜しに行き、回廊でつかまえた。

「今朝の衣裳を整える鈴玉は何だか『えていた』から、お願いしてみたの。でも、あなたには余計なお世話だったかも……」

「ううん、本当にありがとう。私も、器皿より衣服の管理のほうが性に合うと思う」

 鈴玉の喜びようを目にして笑顔になった明月だったが、何かを思い出したらしく、口を相手の耳に近づけてささやいた。

「でも、香菱とは仲良くね。うまく行かなければ係を辞めさせられてしまうかもよ」

 ──そうだった。

 女官部屋に戻ると、当の香菱は既に明月から職掌替えのことを知らされていたらしく、寝台から起き上がって鈴玉を見るなり、顔をしかめた。だが、そもそも自分の代役を鈴玉に頼んだのがことの始まりだと思い返したらしい。

「まあいいけど、よろしく。全て私の指示に従ってね。私は明月ほど優しくはないから、もしあなたが何か粗相をしたら、王妃さまにお願いしてすぐに辞めてもらうわ。それで、ご衣裳を選ぶのはいままで通り私がする。あなたは宝飾を選ぶこと」

「わかってるわよ」

 鈴玉は、おとがいを反らして相手を見据えた。


     九


 翌朝、鴛鴦殿では王妃の身支度を手伝うために、女官たちが忙しく、しかし優雅に立ち働いていた。

 白粉おしろいの入った黒い磁器、びん付け油の入った白磁のつぼきようにかけられた銅鏡、盆に並んだ一揃いのくし。それらを前にした林氏は、肩に白粉けの布をかけて微笑みながら、香菱に髪をかれている。

「あの、こちらを……」

 髪が結い上がるのを待っていた鈴玉が、遠慮した調子ではこを差し出した。

「何?」

 林氏と香菱が函をのぞき込む。そして、二人ともあっと声を上げた。

「まあ」

「これは……」

 函に入っていたのは、生花で作られた髪飾り。きようを中心に他の花を組み合わせて編み込んである。花々は昨日こうえんで、秋烟から「口止め料」としてもらってきたものだった。

れいねえ」

 王妃は眼を細めて花の小宇宙を眺め、それからかしこまる鈴玉に微笑みかけた。

「鈴玉が? 私のためにわざわざ?」

「さようにございます、王妃さま」

 鈴玉は上ずった声で下問に答えた。

せんえつなこととは存じますが、お似合いになるかと思いまして」

「僭越などと……」

 林氏は首を横に振ると両手を伸ばし、鈴玉の右手を包み込んだ。

「真心がこもっていて、うれしいわ。ねえ、香菱?」

 香菱も眼を見開いたまま、こくこくとうなずいた。

「さあ、早速つけておくれ」

 平素は慎ましやかな林氏もさすがに嬉しいのか、まげに花飾りが当てられ、その脇から銀の釵が草の編み目を縫って花を留めるさまを、鏡を通してずっと見ていた。

「どうかしら、映える?」

 頭をこちらに振り向けた王妃に、鈴玉はどきりとした。彼女の予想よりはるかに似合っていたからだ。

「よくお似合いです、王妃さま」

「そう、ありがとう」

 ふわりと笑った林氏の姿に小さな幸せの形を見て、鈴玉は泣きたくなった。

「鈴玉? 何よ、涙まで浮かべて……」

 香菱の𠮟責に泣き笑いの表情を返し、鼻をすすりながら鈴玉は肩布を王妃から取り去った。だが、立ち上がった林氏を見ると、わずかに首を傾げた。

 ──何だろう。

 首から上はいい。だが下はというと、どこかに違和感がある。髪飾りの雰囲気と、重厚な衣裳とがちぐはぐなのである。やはりこの前のように、全てを統一して考えたほうがいいのでは? でも、衣裳は香菱が見立てることに決まっているし……。

「うーん」

 思わず声に出してしまった鈴玉の頭を、香菱はぺちんと手ではたいた。

「どうしたの?」

 笑顔を保ったままの林氏の問いに、鈴玉は取り繕って打ち消した。だが、主人が宝座に臨御したのちも、片付けをしながらあることを真剣に考え込んでいた。

 やがて決意した表情で部屋を出て行き、香菱をつかまえる。

「私が持っているぎよかぎを? なぜ借りたいの?」

 衣の染色や花の栽培の勉強をしたいので、御衣庫へ入りたい──鈴玉がそう切り出すと相手はげんな顔をした。

「王妃さまのお召し物のためよ。あそこには、ご衣裳の現物だけではなく資料も沢山しまってあるでしょう? それも読んでみたいの」

「勉強熱心なのはいいけど、何だかおかしいわね。ひょっとして、王さまのおんが王妃さまにとまることが増えれば、自分も利益を得られるから頑張っているの?」

「そんなの邪推よ、利益って何のこと……」

 反論する鈴玉に、香菱はじとっとした目つきを向けた。

「あなたの考えは、単純でわかりやすいの。下心があるんでしょ? 正直におっしゃいな。この頃、王妃さまの前ではしおらしい態度だけど、鈴玉は家門再興という自分の利益のためにあれこれやっているだけ。違う?」

 鈴玉はむっとして、香菱をにらみつけた。

「そうよ! 王妃さまのためよりも私のためよ、下心なんて……あるわよ、大ありよ! でもおかしい? 王妃さまがお綺麗になって誰が困るの? ひょっとして、王妃さまと王さまがもっとなかむつまじくなれるかも……」

 あたりかまわず叫ぶ彼女を香菱はあきれた様子で眺めていたが、鈴玉の必死さに何か思うところがあったのか、やがて抑えた声を漏らした。

「いつもの仕事はきっちりこなして。それに、服飾への余計な費えを王妃さまは好まれないのだから、その辺りを良く考えなさいよ。王妃さまには私から話しておくから」

 そして、鈴玉の手に何かを押し付けるやくるりときびすを返し、足早に遠ざかる。

「……ありがとう」

 同輩の後ろ姿を見送る鈴玉の右手には、木札のついた鉄の鍵が握られていた。

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