第一章 鈴玉、青雲の志を立てる⑩

     八


 それから三日後の朝、珍しく香菱の体調が悪かった。熱が出てせきもひどい。思えば、彼女は前日の夕方からえない顔で、王妃の傍らに侍立していたのだった。

 医薬担当の女官であるしようやくに部屋まで来てもらって診察を済ませ、香菱は薬湯を飲んだかと思うとすぐ寝台にのびてしまった。また、王妃に病がうつる危険を考え、勤めは休むことになった。

 同室の他の二人は持ち場へと出勤し、鈴玉は残って往診の後片付けをする。彼女にとって香菱は苦手な部類の人間ではあるが、さすがにここまで弱っているさまを見ると、放ってはおけない。

「鈴玉……鈴玉」

 香菱はかすれた声で鈴玉を呼ぶと、思いもかけないことを言い出した。

「今日は王妃さまが、側室の皆さまを午後のうたげに招くの。ご衣裳にはいつも以上に注意しなければならないのに、私はこの有様。本当は昨日のうちに準備するはずだったのに。それに、もう一人の係の明月は、ご衣裳と宝飾の組み合わせがちょっと苦手なの。あなた、悪いけど明月を手伝ってやってくれない?」

「何で私が?」

「先輩はみな他の仕事で忙しいし、猫の手も借りたいのよ。あなたは猫の手よりはましでしょうから……」

「失礼ね、それが他人に物を頼む態度なの?」

 たらいを放り出し、しかめ顔で寝台をのぞきこむ鈴玉に、香菱は弱々しく微笑んだ。

「ごめんごめん。それはともかくお願いね?」

「……わかったわよ」

 ──驚いた、あの香菱が私に頼みごとをしたばかりか、謝るなんて! 明日あたり、太陽がこの殿舎に落ちてくるのかしら?

 香菱が自分を信頼してくれた、という驚きとうれしさがこみあげてきて、彼女は得意な気持ちになった。急ぎ鴛鴦殿に行って事情を話し、控えの間で衣裳の出納を行う明月の手伝いをする。香菱の案じた通り、明月ははこからあれやこれや出して衣裳を揃えるのに苦心していて、振り返ると鈴玉の意見を求めてきた。

 ──ああ、私を手伝いによこした香菱の顔を立てるためね。

 そう鈴玉は察したが、むろん悪い気はしなかった。彼女は函をいくつも検分し、「たいしゆう」と呼ばれるゆったりした袖の上着には明るめの松葉色のものを指さし、次に桃色のくんを取り上げた。どちらも底のほうにしまわれていたところを見ると、いままであまり王妃が着ることのなかった服であろう。だが、彼女はさいに調べてにっこりした。

 ──子守に行っていた絹織物商人も良い布地を扱っていたけれど、やはり王宮の衣裳は布地も仕立ても段違いね。この織りの細かさ、しゆうの手の込みようといったら! ただ、市井の流行のような、今風の軽やかさと切れ味は足りないけれども。

 選んだ服に加えるのは濃い緑色の帯に薄紅色の飾りひも。「はく」と呼ばれる肩からかける細長く軽い絹。薄桃色のはいぎよくと、すいの耳飾り、銀のかんざしを数本。

「いつも王妃さまがお召しのものとは雰囲気が違うけど? それに、少しご身分が軽く見えてしまわないかしら?」

 不安げな顔の明月に、鈴玉はふっと笑ってみせた。

「そんなことないわよ。仰々しい飾りや強い色の服を着れば、重々しく見えるとでも? いいから、これをお召しになってもらいましょう」

 自信満々の彼女に明月は負け、二人は服の包みを手に王妃の居室に戻った。服に霧を吹き、熨斗のしを当ててしようのうの匂いを飛ばし、何とか王妃の化粧が終わるのに間に合った。肌着の上に薄緑色のころもくんをつけ、大袖を……。貴人の着付けを手伝うのは初めてだったが、明月が的確に指示を出してくれたので、まごつくこともなかった。

 全てが終わったところで、明月は一礼して鏡を差し出した。

「王妃さま、どうか……」

「待って!」

 鈴玉の鋭い声が飛んだ。その場の一同が振り返ると、彼女はやや離れたところから首を傾け、王妃の装いを検分している。

「何じゃ! 市場で品定めをする庶民のおかみのように、王妃さまをじろじろと……」

 鈴玉は柳蓉の𠮟責など耳に入らない様子で、そのままの姿勢を崩さない。

「鈴玉、どうか?」

 さすがの林氏も困惑顔になったが、鈴玉は脇の花瓶から百日紅さるすべりの小枝を抜き、自分の手巾で枝の水分をよくぬぐった。そして王妃につかつか近寄ると、「失礼いたします」と言うなり、王妃のまげに挿したかんざしに花を添えた。

「ちょっと、何を……」

 抗議の声を上げかけた明月ではあったが、王妃を見て「あ」と小さく叫んだ。

「どうしたの?」

 林氏の疑問に答えるかたちで、明月は再び鏡を王妃に向ける。

「よくお似合いにございます。おあらためを」

 鏡に自分の姿を見た林氏は眼を見開き、ふっと微笑んだ。

「確かに花も釵も、化粧も……よく映えていますね。特にこの百日紅を最後に添えたのが良かったのかもしれぬ」

 そして立ち上がった王妃にお付きの誰もが目をみはり、揃って笑みを浮かべた。すその裙も、緑色の濃淡でまとめた上着や帯も顔立ちに似合っており、いつもより控えめな装いであるにもかかわらず、しとやかでせいな魅力を引き立てている。

「鈴玉、そなたは意外な才能を持ち合わせているようですね」

 本人は無言で一礼したが、王妃が接見のために部屋を出て行くのを見計らい、にんまりして殿の裏手に回ると、一人ぴょんぴょん飛び跳ねた。

 ──後宮に上がって、初めて沈女官さま以外の人に褒められた!

 そのままこうえんに駆け出していき、例の二人組がいる場所を覗いてみると、思った通り、池で採ったはすの花をむしろの上に並べている秋烟がいた。

「あれ、片割れは?」

「朗朗は後宮の各殿舎へ蓮を届けに回っているよ。それにしてもどうしたの? そんなに息を切らして」

 鈴玉はつばを飲みこんで息の調子を整えた。

「あのね、お礼を言いたくて。あなた方が書いていたあの本にきっかけをもらって、初めて王妃さまから褒められたの。わかる? 文中で描写していた、衣裳とか色のことよ」

 秋烟は眼をぱちくりさせたが、すぐ相好を崩した。

「なるほど、よくみ込めないけど……僕たちが君を助ける形になれたのなら何より。鈴玉でも褒められることがあるんだねえ。しかも、それを嬉しいと思うだなんて」

「ごあいさつね。私がいつも、人が西を向けといえば東を向くような人間だとでも?」

「ふふふ、気を悪くした?」

 ひと仕事を終えた秋烟は帯に挟んでいた衣のすそを降ろし、鈴玉を誘って庭石に腰を下ろした。そこは木陰になっており、夏の風が心地良い。

「どう、執筆は順調なの?」

「うん、あと一冊分でいまの話は終わりだよ」

「どんな結末になるのかしら?」

 鈴玉のわくわくした顔を見て、秋烟はにやりとする。

「まあ、大団円だね」

「大団円? どんな?」

「詳しくは読んでからのお楽しみだよ。いまは僕と朗朗だけの秘密」

「そうよね、楽しみだわ。で、書き終わったら次の作品は? どんな話にするの?」

「ああ、それが」

 気のせいか、秋烟の端整な顔にすっと影が落ちた。

「朗朗がね、君がこの前言ったかんがん同士の恋物語を書きたいんだって。女官たちがきっと喜んで読んでくれるだろうって。悲恋で終わるような……でも」

「でも?」

「僕は反対したんだ……何というか、嫌なんだよ」

 そう言って秋烟は庭石に座ったまま、ひざを抱えて遠くを見ていた。彼はまるで、鈴玉が傍らにいることなど忘れてしまっているかのようだった。そのただならぬ様子に彼女は首を傾げたが、やがてえんぽんの一節を思い出し、はっと息を吞んだ。

 ──愛麗は、妻にはなれぬこの身を恨んだことなどないとはいえ、やはりどう考えてもかなわぬ恋に身を焦がす自分を哀れに感じ、またおかしくも思うのでした。

 そして「実演」の際、朗朗相手に秋烟が見せた色っぽさ。

「ねえ、あなた、もしかして……」

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