第一章 鈴玉、青雲の志を立てる⑩
八
それから三日後の朝、珍しく香菱の体調が悪かった。熱が出て
医薬担当の女官である
同室の他の二人は持ち場へと出勤し、鈴玉は残って往診の後片付けをする。彼女にとって香菱は苦手な部類の人間ではあるが、さすがにここまで弱っているさまを見ると、放ってはおけない。
「鈴玉……鈴玉」
香菱はかすれた声で鈴玉を呼ぶと、思いもかけないことを言い出した。
「今日は王妃さまが、側室の皆さまを午後の
「何で私が?」
「先輩はみな他の仕事で忙しいし、猫の手も借りたいのよ。あなたは猫の手よりはましでしょうから……」
「失礼ね、それが他人に物を頼む態度なの?」
「ごめんごめん。それはともかくお願いね?」
「……わかったわよ」
──驚いた、あの香菱が私に頼みごとをしたばかりか、謝るなんて! 明日あたり、太陽がこの殿舎に落ちてくるのかしら?
香菱が自分を信頼してくれた、という驚きと
──ああ、私を手伝いによこした香菱の顔を立てるためね。
そう鈴玉は察したが、むろん悪い気はしなかった。彼女は函をいくつも検分し、「
──子守に行っていた絹織物商人も良い布地を扱っていたけれど、やはり王宮の衣裳は布地も仕立ても段違いね。この織りの細かさ、
選んだ服に加えるのは濃い緑色の帯に薄紅色の飾り
「いつも王妃さまがお召しのものとは雰囲気が違うけど? それに、少しご身分が軽く見えてしまわないかしら?」
不安げな顔の明月に、鈴玉はふっと笑ってみせた。
「そんなことないわよ。仰々しい飾りや強い色の服を着れば、重々しく見えるとでも? いいから、これをお召しになってもらいましょう」
自信満々の彼女に明月は負け、二人は服の包みを手に王妃の居室に戻った。服に霧を吹き、
全てが終わったところで、明月は一礼して鏡を差し出した。
「王妃さま、どうか……」
「待って!」
鈴玉の鋭い声が飛んだ。その場の一同が振り返ると、彼女はやや離れたところから首を傾け、王妃の装いを検分している。
「何じゃ! 市場で品定めをする庶民のおかみのように、王妃さまをじろじろと……」
鈴玉は柳蓉の𠮟責など耳に入らない様子で、そのままの姿勢を崩さない。
「鈴玉、どうか?」
さすがの林氏も困惑顔になったが、鈴玉は脇の花瓶から
「ちょっと、何を……」
抗議の声を上げかけた明月ではあったが、王妃を見て「あ」と小さく叫んだ。
「どうしたの?」
林氏の疑問に答えるかたちで、明月は再び鏡を王妃に向ける。
「よくお似合いにございます。お
鏡に自分の姿を見た林氏は眼を見開き、ふっと微笑んだ。
「確かに花も釵も、化粧も……よく映えていますね。特にこの百日紅を最後に添えたのが良かったのかもしれぬ」
そして立ち上がった王妃にお付きの誰もが目をみはり、揃って笑みを浮かべた。
「鈴玉、そなたは意外な才能を持ち合わせているようですね」
本人は無言で一礼したが、王妃が接見のために部屋を出て行くのを見計らい、にんまりして殿の裏手に回ると、一人ぴょんぴょん飛び跳ねた。
──後宮に上がって、初めて沈女官さま以外の人に褒められた!
そのまま
「あれ、片割れは?」
「朗朗は後宮の各殿舎へ蓮を届けに回っているよ。それにしてもどうしたの? そんなに息を切らして」
鈴玉は
「あのね、お礼を言いたくて。あなた方が書いていたあの本にきっかけを
秋烟は眼をぱちくりさせたが、すぐ相好を崩した。
「なるほど、よく
「ご
「ふふふ、気を悪くした?」
ひと仕事を終えた秋烟は帯に挟んでいた衣の
「どう、執筆は順調なの?」
「うん、あと一冊分でいまの話は終わりだよ」
「どんな結末になるのかしら?」
鈴玉のわくわくした顔を見て、秋烟はにやりとする。
「まあ、大団円だね」
「大団円? どんな?」
「詳しくは読んでからのお楽しみだよ。いまは僕と朗朗だけの秘密」
「そうよね、楽しみだわ。で、書き終わったら次の作品は? どんな話にするの?」
「ああ、それが」
気のせいか、秋烟の端整な顔にすっと影が落ちた。
「朗朗がね、君がこの前言った
「でも?」
「僕は反対したんだ……何というか、嫌なんだよ」
そう言って秋烟は庭石に座ったまま、
──愛麗は、妻にはなれぬこの身を恨んだことなどないとはいえ、やはりどう考えても
そして「実演」の際、朗朗相手に秋烟が見せた色っぽさ。
「ねえ、あなた、もしかして……」
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