第一章 鈴玉、青雲の志を立てる⑧

 鸚哥が鈴玉を連れ、足を向けた先は後宮の東北に隣接する園林、すなわち「こうえん」だ。池を回り込んで、鸚哥はすたすた歩く。小さな橋を越え、植え込みを通り過ぎ、点在する楼や亭を望みながら──。

 これだけ広い後苑のどこかに、作者がいるのだろうか。鸚哥の足は早く、鈴玉は小走り気味についていった。

 やがて、躑躅つつじの植え込みが連なっている場所が見え、鸚哥はその近くに立つと声を張り上げた。

「湯内官、謝内官、いるの?」

 するとがさがさ音がして、ひょこりと二人の内官、すなわちかんがんが顔をのぞかせた。両人とも躑躅のせんていをしていたらしく、手にははさみと枝葉を入れるかごを持っている。一人はほっそりとしたなで肩の柔和な顔つき、もう一人は相方より頭半分ほど高く、濃いまゆと快活そうな雰囲気を持っていた。

「やあ、鸚哥……じゃなかった、ちよう女官」

 あいさつした彼等は見慣れぬ女官にも目をとめ、それぞれ柔和なほうが湯秋烟、快活なほうが謝朗朗と名乗った。

 両人とも二十歳はたちに足らぬほどに見えたが、名を聞いて鈴玉は思い出したことがある。このもくしゆうれいな若い宦官二人は、あの「才子評」に載せられていた人物ではないか。「まさか、あなたたちが……」と鈴玉は口の中で呟いた。

「また持ち場を勝手に離れてきたのかい? 今日は一体何の御用かな?」

「ふふふ」

 鸚哥は辺りを見回し、あの本を懐から出して声を落とした。

「今回のも大評判で、あたしのところまで回ってくるのに大分待ったわ。でね、話の続きの催促と、あと──」

 彼女は鈴玉を振り返った。

「あんたたちの本を読んだ同輩が、どうしても書いた人間に会ってみたいんだって」

 そして、鸚哥から鈴玉の姓名と所属の殿舎を聞かされると、二人の宦官は揃って息をんだ。

「鴛鴦殿? 王妃さまの御殿づきなのに、あの本を読んだの?」

「ええ、いけない?」

 鈴玉は腰に手を当てて胸をそらした。そこで、朗朗ははっと気が付いたようだった。

「そういえば、今年の『振り分け』で大番狂わせがあって、成績がいまいちで生意気な女官が鴛鴦殿づきになったと聞いていたけど──まさか、君?」

「な、何ですって?」

 怒りに顔を赤くする鈴玉を見て、慌てて秋烟が取りなす。

「朗朗、おやめよ。彼は結構はっきり物を言うんだ。ごめんね、根は優しい奴だから気にしないで。それよりも鄭女官は僕たちに会いたかったって、どうしてまた……」

 鈴玉はおもむろにせきばらいをした。

「私ね、小説はもとから好きだったけど、艶本は初めて読んだの。でも、これは好色だけを売りにしないで、人物の心情とか雰囲気と色彩っていうの? 丁寧な描写だから、それがよく見えたのね。だから、一体どんな人が書いているんだろうと気になって。ああ、色彩の理由はここに来てわかったわ」

 彼女は辺りを見回して、我が意を得たりとばかりにうなずいた。濃い桃色の躑躅、まだみどりがかっている紫陽花あじさい、薄紅色のしやくやく──そして、名も知らぬ白い花。

「ここであなたたちが育てている草木や花は、小説のなかの色遣いとそっくりね」

「鈴玉、どうしたの? えんぽんを読んでえらく真面目になっちゃって」

「悪い?」

 鈴玉はいつものようにぷっとむくれ、鸚哥や二人の宦官はくすくす笑った。

「ありがとう。励みになるよ。昼間の仕事や宿直の合間を縫って書くから、なかなか大変だけどね」

「でも、まさか宦官たちの合作とは思っていなかったけど」

「変かな? 男女のむつみごとを一生経験できない僕たちが、こんな艶本を書くのは」

 二人は、鈴玉の心の底を見透かすような目つきをしていた。

「正直に言うと、そうよ。でも、宦官のあなたたちがどうしてあんな上手に書けるのかしら」

「それなりに書けてはいるだろう? 俺たち宦官は後宮で主上やひんの方々にお仕えするから、必然的にけいぼうのことも詳しくなるのさ。あと大切なのは、想像する力と観察だよね。経験したことだけを書けるわけじゃないし」

 鈴玉は納得して頷くとともに、一つ気になっていたことを聞いた。

「ねえ、これは対価を取らないの? 何も払わず読んでしまったけど、お金を取っても罰は当たらないほどの出来ばえでしょう?」

「お金?」

 秋烟と朗朗は驚きの表情になった。

「いや、できるだけ皆に読んで欲しいからお金は取らないよ。第一、これが露見しただけでも罪を負うのに、売買したなんてことになったら首が危ないじゃないか」

「それに、僕たちが欲しいのは金品じゃないんだよ」

「じゃあ、何なの?」

「感想。とにかく感想を教えて欲しいよ。良いところでも悪いところでも──ちょうどいま君がしてくれたようにさ。俺も秋烟も、読んだ人の反応を知りたいんだ」

「そうそう。そりゃ、人の意見に振り回されたりしてはならないけど、自分でも気が付かなかった点を人さまは教えてくれるからね」

「そう……」

 そもそも宦官は、彼ら独特の陰険さや強欲さと相まって、煙たく思われていることが多い。だが眼前の二人は、普通の宦官とは全く雰囲気が違っていた。繊細で陽気で、しかも心優しかった。

「ま、これで彼女をここに連れてきたあたしの役目はおしまい。鈴玉、これで気が済んだ?」

「ええ、ありがとう鸚哥。お礼にお下がりの干菓子をあげる」

 鈴玉はにこやかな笑顔で鸚哥に頭を下げ、鸚哥はえくぼをへこませた。宦官二人も微笑んでいる。彼ら四人の傍らを、初夏のさわやかな風が吹き抜けた。

「今日は本当にうれしかったよ。わざわざ僕たちのところまで来てくれて……」

「またおいでよ。といっても鴛鴦殿づきはいろいろ大変だろうから、ばれないようにね」

「わかっている、ありがとう。早く続きを書いてね」

 秋烟たちは鈴玉と鸚哥が戻った時の「言い訳」用に、花束を作って持たせてくれた。というのも、鈴玉たちはあらかじめ、後宮と後苑とを区切るしゆんちようもんの門番には「王妃さまの御用で後苑に花を切りに行く」と取り繕っていたからだった。

 女官たちは花を抱え、手を振る宦官二人にこたえて手をひらひらさせた。

 だが、鸚哥と春鳥門外で別れて鴛鴦殿にこっそり戻ったつもりの鈴玉は、柳蓉に見つかってしまい、あっという間に主人のもとへ突き出された。

「お前は何かにつけ、すぐに仕事を怠けてあっちへふらふら、こっちにふらふら! それになんじゃ、その花は。後苑から盗み取ってきたのではないか? 今日という今日は王妃さまに厳しくおつしやってもらわねばならぬ」

 鈴玉はいつものごとく、びようの神像のごとき半眼となっていた。

「全て、王妃さまのために取って参った花です。係の宦官には許可を得ましたから」

 林氏は宝座の手すりをひとでし、大きな息をついた。

「さて、こう度重なるとやむを得ませんね、鈴玉。いくら私のためとはいえ、私や尊長の者の下命なくして、勝手に持ち場を離れてはならない。今回は、そなたに一日の食事抜きの罰を与える。食事は抜いても、仕事は手抜きをせぬよう」

「……かしこまりました」

 さすがに、説諭ではなく懲罰という結果になって、鈴玉もいつもの鼻っ柱の強さが半減したかのようになった。入宮前にひもじい思いを散々してきたせいか、食事を抜かれることはたたかれるよりもつらいのだ。彼女はしつを巻いたいぬのごとく、しようぜんとした面持ちで拝礼したが、王妃は鈴玉の手もとに眼をやった。

「その花々に罪はない、こちらにおよこし」

 そして傍らの杜香菱にくばせすると、さとい女官は小走りに部屋を出て、かすかに水音を立てながら白磁の花瓶を抱いて戻ってきた。

 林氏はそれを宝座の脇の卓に置かせ、鈴玉から受け取った花を手ずから生けた。王妃の穏やかな表情、ほころんだ唇──全体の均衡や配色を考えて生けられた芍薬などの花々は、主君に頰を寄せられ、その優しさを賛美しているように見えた。

 ──あら?

 鈴玉は眼をしばたたかせた。顔を花々に近づけた王妃は、いつもより美しく愛らしく見えたのである。金銀に宝玉をちりばめたかんざしや耳飾りよりも、花は一層王妃のおもてを引き立てるようだった。そしてそれは、亡き母親を飾った秋明菊をも思い出させた。

 ──まるでいつもと違っているような。

 何気ない一瞬に鈴玉は気を取られ、王妃に退がるよう命じられるまで、心がふうっと浮いたままだった。

 そうして、長い一日が終わって彼女が女官部屋に帰ると、鸚哥から例の本の続きが回ってきていた。留守の間、部屋まで届けてくれたらしい。


〈子良はゆっくりと愛麗の両脚を開き、しらたかが獲物をさらう形となりました。哀れ小さな獣となった愛麗はおびえるように顔を背け、背中といい四肢といい、こわって震えています。引きはがされた薄緑色の羅は、春の山野のように寝台に広がり、その上には髪からむしり取られたすみれの花が散らばっているのでした。まさかこの優しい貴公子が、落花ろうぜきのごとき振舞いをなさるとは? でも、これは彼の芝居なのです。子良は微笑むと白鷹の構えをやめ、雄虎が雌虎を慈しむ姿勢をとって……〉


 主人公二人が繰り広げる痴態を、鈴玉は胸をどきどきさせながら読んでいたが、本から眼を上げ、ふと自分の主君を思い出した。

 ──薄緑色の羅が広がり、髪飾りだった菫の花がその上に散らばって……。

 林氏は、王妃としての体面を守るためとはいえ、似合っているとは言いがたいどっしりとしたにしきの衣を身に着け、過剰なしゆうぜいを尽くした金銀の宝飾に埋もれてしまっている。

 ──でも、これならば? 王妃さまには、生のお花ならばお似合いになるのでは? あと、もっと薄い色の衣にさりげなくしゃれた刺繡なら……。

 そこまで考えた鈴玉だが、はっと我に返ると頭をぶんぶん横に振った。

 ──違うちがう、衣服の出納は香菱や明月の職掌。私の仕事でもないのに、何よ。

 彼女はらちもない考えを頭から追い出すと、また話の続きを読み始めた。


〈そうは申しても、いとしい人を送り出したその朝は辛く、降り注ぐ日光が彼女の眼に刺さり、心の奥底をも容赦なく照らし出してしまいます。愛麗は、妻にはなれぬこの身を恨んだことなどないとはいえ、やはりどう考えてもかなわぬ恋に身を焦がす自分を哀れに感じ、またおかしくも思うのでした。……〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る