第一章 鈴玉、青雲の志を立てる⑦

     六


「なあに? これ」

 再び鸚哥から一冊の書物を渡された鈴玉は、首を傾げた。

 ここはじんかいの集積場だ。初めのうちは鸚哥が勤める錦繡殿の裏手で、鈴玉は借りた本を返しがてら、「偕老同穴、偕老同穴」と暑苦しく感想をまくし立てていた。だが、鸚哥は「ふふ、はまったのね」と嬉しげに本を受け取ると、人目をはばかる様子で鈴玉を連れて集積場に行き、そこでもったいぶって別の本を取り出したのである。

「これは裏口版と言うか、登場人物も舞台も同じなんだけど、一部分が違うの」

 促されるままぱらぱらと本のようを繰った鈴玉は、数行を読んで眼を丸くした。


〈かくして、愛麗の脚はしなやかにそり返り、子良の広い背にたこのように絡みつきました。それから後は二人して、しようさまも頰を赤らめ、えんさまもかんばせが青く変わろうかというほどの、雲雨の快楽に身を任せます。ほうおうが桐の上に宿り、翼を広げて片脚を上げ打ち震えれば、せいりゆうは雲から降りてとぐろを巻き、舌を伸ばして鳳凰の……〉


 そこまで読んで、鈴玉はぱたんと書物を閉じた。うなじは真っ赤で頰も上気している。

「何これ?」

「読みたい? 何しろ本編よりさらに大人気で、やっと私のところまで回ってきたのよ」

「そうじゃなくて!」

 鈴玉は思わず大声を出し、えんぽんを鸚哥に押しつけた。艶本のめくるめく色欲の世界は、えた匂いの漂う集積場とはいかにも不似合いだった。

「しっ、声が高い」

「艶本やしゆんきゆうたぐいは、後宮では持ち込み厳禁でしょう?」

「あら、その戒めをちゃんと覚えているの? 鈴玉はいい子ね」

「茶化さないでよ」

 鈴玉の抗議に、鸚哥はにやりとした。

「そんなの建前に決まっているじゃない。第一、王さまのためにお子をもうけるのが、後宮のお妃さまたちの大切なおつとめでしょ? 皆さまは年増の女官からとぎの手ほどきを受けられる時、似たような御本を参考になさっているわけ」

 このような知識や見聞だけは人並み以上に仕入れている友人に、鈴玉は呆れるやら感心するやらであった。

「それに、この本は外から『持ち込まれた』ものじゃないのよ。表の本も裏の本も、作者は同じで後宮にいるの」

「えっ、まさか艶本を後宮で書いているの?」

「そうよ。とにかくあたしは読み終わったんで、この間みたいにあんたにも回してあげようと思って。ねえ、読むの? 読まないの?」

 鈴玉はしゆんじゆんしたが、とうとう勢いよく手を差し出して艶本を受け取った。


 幸運にも、その夜は香菱たち同室の女官が宿直で出払っていたので、鈴玉は明かりを引き寄せ、寝床の中で艶本をじっくり読んだ。

 この手の本を読むのは初めてだったが、既に「雲雨のこと」、すなわち男女の契りについては聞きかじりではあっても知識を得ている。さらに自分自身も色気づく年頃で、かたをのんで一枚いちまい、葉をめくっていく。


〈愛麗は寝台の上で、深い眠りの海をいつまでもたゆたっているのでした。彼女の身体が一そうの小舟であるならば、子良のあいかいであり、自在に舟を操ってらくの海にぎ出してくれるのです。それは想う人の訪れを、を抱えながら待つほかはない、浮き草稼業の妓女の寂しさを埋め合わせてなお余りあるものでした。……〉


「鈴玉、鈴玉!」

 香菱に呼ばれてはっと目を覚ませば、すでに窓の外は明るい。

「だらしないわね、早く起きなさい。昨夜は戻ってきたら明かりもつけっぱなしだったし。火事にでもなったらどうするの? ほら、さっさとしないと朝の点呼に遅れるわよ」

 小言を受け流し、鈴玉は少しの間ぼうっとしていた。腹ばいになった自分の胸の下には、例の本が開かれたままぺたりとのびているが、幸い香菱には気づかれていないようである。そっと取り上げると、開いた葉の隅がしわになっていた。昨夜は途中で眠り込み、よだれを垂らしてしまったらしい。

 ──どうしよう、本を汚したら鸚哥に怒られるわね。

 もぞもぞと着替えて鴛鴦殿に出向いたが、仕事の段取りよりも、あの艶本の中身と鸚哥への言い訳で頭が一杯となっていて、そこへまた香菱の𠮟責が飛ぶ。

「またぼうっとして! 王妃さまに差し上げるお菓子の鉢が一つ足りないじゃない」

 反射的にぷっとむくれた鈴玉は、別室に忘れていた菓子の鉢を取り上げ、戻ってくるなり音を立てて机に置いた。目をく香菱をよそに、鈴玉は物思いにふけっている。

 ──それにしても、あれはただいやらしいだけではなかったわ。男女の営みを描いてはいても、優しさと奥ゆかしさ、寂しさもあって全体的に温かい感じがした。情景も色鮮やかに思い浮かべられるし。「表」の物語と作者が同じで、後宮で書いているそうだけど、一体何者かしら?

 矢もたてもたまらず、鈴玉は鴛鴦殿を抜け出して鸚哥のもとへ行った。順番待ちの読者のため、早い返却を促されていたからである。それに──。

「誰がこの本を書いているかって? そんなこと……」

 鸚哥は嫌な顔をした。そして返された本の点検のため、葉をめくっていた手が止まる。

「あっ、しかも涎を垂らしながら読んでたの? 皺がついちゃってるじゃない!」

「よ、涎を垂らしながらなんて、そんなはしたないことはしないわよ! ただ、眠り込んじゃってその時に」

 ほかの子に回すのに苦情が出るわよ、こんなことなら貸さなきゃよかった──そうつぶやいて本を懐へ隠す鸚哥に、鈴玉は慌ててすがった。

「ごめんなさい、本を汚してしまって。謝るからまた続きを回してよ。ついでに、誰が本の作者なのかも……」

 米つき虫のように何度も頭を下げる鈴玉を前に、鸚哥のけんの皺がほどけた。

「どうしてそんなに作者に会いたいのか知らないけど。いいわ、ついてきて」

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