第一章 鈴玉、青雲の志を立てる⑥
五
──がちゃん!
八つの花弁を持つ青磁の皿が、床に落ちて割れた。宮中の
そもそも、「選りすぐり」の者たちが勤める殿舎で、本来このような無作法は起きないはずなのである。
「またか、一体これで割ってしまうのは何皿めじゃ! お前の
犯人は足元に散らばる皿の破片を半眼になって見下ろしてはいたが、そのまま
「何とか申せ!
「では申し上げます。ただいま柳女官さまは何皿割ったかとお尋ねになりましたが、私の記憶では三皿めとなりまする」
「なっ……!」
大仰に拝礼した犯人──鈴玉を前に、初老の柳蓉は顔を火照らせ失神寸前である。
一方、王妃の林氏は
「王妃さまのご指名でこの御殿づきとなり、また王妃さまのご指示で器皿の出納役に任じられたというのに、お前は連日のごとく不始末を! 一体何が不満なのか。さあ、さっさと王妃さまに詫びるのじゃ。その後、出納の係をやめさせて……」
「おやめ、柳女官」
穏やかな
「いまこの者を出納から免じたら、一生皿を割り、
王妃は真っすぐ鈴玉を見つめたが、温かな
「申し訳ありません。いかようにも罰してくださいませ、王妃さま」
ようやく鈴玉は
「その皿を一枚作るにも、何人もの手と何か月もの時間がかかっている。
「王妃さまの寛大なお心に、深く謝したてまつります」
鈴玉は眼を伏せて答えた。長いまつ毛が瞳に影をつくる。
王妃の
「……つっ!」
かけらで右の人差し指を切った鈴玉は、思わず破片を床に投げつけそうになったが、思いとどまり、振り上げた手をゆっくり下ろした。ぽたりと落ちた血の赤が、器の色と
入宮前に思い描いていた生活ではない。自分を導いてくれた人は理不尽の犠牲となって目の前から消え、希望や志は「振り分け」で出鼻をくじかれてしまった。
周囲の優秀な人間のなかで、うまく行かないことに焦ると、余計うまく行かなくなる。第一、自分の居場所はここではない気がする。仕事は上の空になりがちで、磨くべき能力も適性もわからない──いまの自分が手にしているのは、灰色にくすんだ単調な日々。
ありていに言えば、彼女は「腐って」しまったのである。
「……つまらない」
彼女はこうしたもやもやが心にたまると、太清池に向かうのが常だった。池の鯉を相手に愚痴ってみること、それだけが気晴らしの手段であり、
今日もそうしていると、背後に別の人影が立ち、
「ねえ、つまらないわよね」
鈴玉が振り返ると、一人の若い女官が自分を見下ろしていた。
「
小柄で
しかし思いがけなく王妃づきとなった鈴玉のように、鸚哥はいまを時めく敬嬪呂氏の錦繡殿に配属された。その成績の悪さを
「鸚哥はめでたく敬嬪さまに召し抱えられたのに、つまらないの?」
「うん、鈴玉と一緒じゃないからかな、調子が出なくて。あんたは嫌なことがあるとここに来るじゃない。何だか会いたくなったから、もしかしたらと思って来てみたの」
そう言って頰のえくぼをへこませると、鸚哥は後ろ手に持っていたものを差し出した。
「なあに、これ?」
それは一冊の本だった。手に取り、ぱらぱらめくった鈴玉の表情が明るくなる。
「面白そうな小説ね」
「そうよ、あんたの大好きな恋愛もの。先日よそから回ってきたの。あたしはもう読み終わったから、これでも読んで元気を出して」
かつて子守の仕事をしていた時、鈴玉は呉氏の令嬢から、誰が書いたともしれぬ「
「持つべき者はやはり友ね。ありがとう、鸚哥」
友人の好意にすっかり
〈
没頭して読み進めるうちに、いつの間にか明かりが消えかけていた。鈴玉は慌てて油を足してからまた本に
〈子良は愛麗を生涯愛すると固く約束し、彼女の両手を取りながら満月に向かって
──なんて素敵なの! そうよ、恋愛ものはこうでなくっちゃ。まことの慕情、永遠の愛、偕老同穴の誓い。ああ、私もこうした、ただ一人の殿方と誓いを交わせたら……。
不本意な日々が鈴玉を純粋な愛の世界に逃避させるのか、泉で長旅の
そればかりか、すっかり脳内を小説に占領されてしまい、非番の明月をつかまえ、読んだ物語の筋を長々と語って聞かせた。気のいい明月は「うん、うん」と
「偕老同穴、偕老同穴って何べん繰り返すの? 慈しみあって添い遂げ、死後も同じ墓穴に葬られる、そんな絵空事の殿方じゃなくて、もっと
鈴玉は頰をぷっと膨らませる。
「この後宮で? 女官の私たちに手を触れることができる殿方は、お話ししたこともない雲の上の存在、つまり王さまだけ。でも、王さまは王統のご繁栄のため、後宮に
そう、「女官」の身分と引きかえに、偕老同穴の殿方との恋愛はもはや縁がなくなったのだ──その事実がちくりと鈴玉の胸を刺した。
「でも鈴玉、女官たちの殿方への評判を集めた『
明月はどこで聞きかじってきたのか、憧れの君たちの評判をすらすら
「そんな、ろくにお会いできない殿方なんて、水に映ってはいるけど手を伸ばしても
「摑めなくても、月は月よ。あとは才子評というのも
「うーん。どんな明君でいらしても、王さまのお立場では偕老同穴は望むべくもないし……」
迷う鈴玉に、明月はからかうような表情となった。
「ほら、また偕老同穴に戻っちゃった。でも、楽しそうなあなたを久しぶりに見られて良かった」
「そう言って喜んでくれるのは明月だけ。香菱だったら『仕事以外のことにうつつを抜かして』って、きっと怒るわ」
「私は良いことだと思う。今日みたいな気晴らしや楽しいことがまたあれば、仕事も順調になるかもよ。そうなったら、あなたの家門再興という目的に一歩近づけるじゃない」
「ありがとう。でも、仕事も順調になんて、本当にうまく行くかしらね……」
半信半疑の鈴玉ではあるが、確かに楽しいひと時を過ごせたことは嬉しかった。
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