第一章 鈴玉、青雲の志を立てる⑥

     五


 あさもやが薄くかかり、宦官や女官たちが優雅に行きかう鴛鴦殿に不似合いな音が響く。

 ──がちゃん!

 八つの花弁を持つ青磁の皿が、床に落ちて割れた。宮中のべいはみな一級品の中からさらに選りすぐったものばかりだが、このすい色も美しい揃いの器は特に王妃の愛好する品であり、鴛鴦殿の者はみな丁重に扱っていたものだった。

 そもそも、「選りすぐり」の者たちが勤める殿舎で、本来このような無作法は起きないはずなのである。

「またか、一体これで割ってしまうのは何皿めじゃ! お前のほうろく一年分をもってしても、いや、お前の命をもってしても、とうていあがなえぬほど貴重で高価な逸品ぞ!」

 犯人は足元に散らばる皿の破片を半眼になって見下ろしてはいたが、そのまま木偶でくの坊のようになっている。

「何とか申せ! びか何か言うべきことはあるはずじゃ!」

「では申し上げます。ただいま柳女官さまは何皿割ったかとお尋ねになりましたが、私の記憶では三皿めとなりまする」

「なっ……!」

 大仰に拝礼した犯人──鈴玉を前に、初老の柳蓉は顔を火照らせ失神寸前である。

 一方、王妃の林氏はしよくぜんを前に微笑を浮かべ、ふてくされた鈴玉を見つめている。

「王妃さまのご指名でこの御殿づきとなり、また王妃さまのご指示で器皿の出納役に任じられたというのに、お前は連日のごとく不始末を! 一体何が不満なのか。さあ、さっさと王妃さまに詫びるのじゃ。その後、出納の係をやめさせて……」

「おやめ、柳女官」

 穏やかなとがめが、林氏の唇から発せられた。

「いまこの者を出納から免じたら、一生皿を割り、わんを役に立たなくし続けて直るところがないであろう。私は鄭鈴玉をいまの職務から免じるつもりはありません。たとえ私の殿の器皿が全て割られ、しいの葉を皿とし、その枝をはしとしてでも……」

 王妃は真っすぐ鈴玉を見つめたが、温かなまなしのなかにも譲らぬ、強いものがそこにあった。主従の間に、朝の光と沈黙が落ちる。

「申し訳ありません。いかようにも罰してくださいませ、王妃さま」

 ようやく鈴玉はひざまずいて許しをうた。王妃は表情を変えずまゆだけをゆっくり上げ、立つよう命じる。

「その皿を一枚作るにも、何人もの手と何か月もの時間がかかっている。かつに割られたとあれば、皿も作った者たちも悲しむであろう。そのことに思いを致しながら散らばったものをきちんと片付けるのであれば、罪は免じる。どうか? 鄭鈴玉」

「王妃さまの寛大なお心に、深く謝したてまつります」

 鈴玉は眼を伏せて答えた。長いまつ毛が瞳に影をつくる。

 王妃のあさが済み、女官やかんがんたちが後片付けに立ち働いている間、鈴玉は皿の破片を拾った。澄んだみどり色はばらばらになってもなおみずみずしく、彼女の瞳に鮮やかに映った。

「……つっ!」

 かけらで右の人差し指を切った鈴玉は、思わず破片を床に投げつけそうになったが、思いとどまり、振り上げた手をゆっくり下ろした。ぽたりと落ちた血の赤が、器の色とかんぺきな対照をなす。彼女は、その暗赤色と翡翠色の取り合わせに思わず魅入った。

 入宮前に思い描いていた生活ではない。自分を導いてくれた人は理不尽の犠牲となって目の前から消え、希望や志は「振り分け」で出鼻をくじかれてしまった。

 周囲の優秀な人間のなかで、うまく行かないことに焦ると、余計うまく行かなくなる。第一、自分の居場所はここではない気がする。仕事は上の空になりがちで、磨くべき能力も適性もわからない──いまの自分が手にしているのは、灰色にくすんだ単調な日々。

 ありていに言えば、彼女は「腐って」しまったのである。

「……つまらない」

 彼女はこうしたもやもやが心にたまると、太清池に向かうのが常だった。池の鯉を相手に愚痴ってみること、それだけが気晴らしの手段であり、ふちの草地に腰を下ろし、悠然と泳ぐ鯉の群れを眺めながら「つまらない」と何度もつぶやく。

 今日もそうしていると、背後に別の人影が立ち、木霊こだまのごとく答えた。

「ねえ、つまらないわよね」

 鈴玉が振り返ると、一人の若い女官が自分を見下ろしていた。

いん、あなたもそう思う?」

 小柄でせぎすな女官はにっこりし、鈴玉に手を差し伸べて立ち上がらせた。鸚哥は鈴玉の同輩で、女官見習いの成績は鈴玉より下であった。何でも乱暴者の父親に苦労した末の入宮というが、貧家出身という共通点で二人はうまが合い、仲良くしていた。

 しかし思いがけなく王妃づきとなった鈴玉のように、鸚哥はいまを時めく敬嬪呂氏の錦繡殿に配属された。その成績の悪さをかすませたのは、彼女の持つあいきようとはしっこさであり、呂氏好みの女官と判断されての人事であろう。鈴玉は彼女がうらやましかった。

「鸚哥はめでたく敬嬪さまに召し抱えられたのに、つまらないの?」

「うん、鈴玉と一緒じゃないからかな、調子が出なくて。あんたは嫌なことがあるとここに来るじゃない。何だか会いたくなったから、もしかしたらと思って来てみたの」

 そう言って頰のえくぼをへこませると、鸚哥は後ろ手に持っていたものを差し出した。

「なあに、これ?」

 それは一冊の本だった。手に取り、ぱらぱらめくった鈴玉の表情が明るくなる。

「面白そうな小説ね」

「そうよ、あんたの大好きな恋愛もの。先日よそから回ってきたの。あたしはもう読み終わったから、これでも読んで元気を出して」

 かつて子守の仕事をしていた時、鈴玉は呉氏の令嬢から、誰が書いたともしれぬ「小説つまらないはなし」の存在を知り、貸してもらった才子佳人の恋愛話やようかいへんたんを読みふけったものだった。

「持つべき者はやはり友ね。ありがとう、鸚哥」

 友人の好意にすっかりうれしくなった鈴玉は、非番になると女官部屋に飛んで帰り、寝台に転がって借りた本を読み始めた。


りゆうりようは高官のりくじゆんから、令嬢との結婚を持ち掛けられました。彼はじよあいれいしか眼中にないのでその話を断ろうとしますが、友人たちはみな令嬢との結婚を熱心に勧めます。しょせん妓女とは結ばれぬ縁、陸の娘を妻とすれば今後の出世にどれだけ役立つか、それよりも高官の不興を買うと後がやっかい、特に政争が激しさを増している状況では、どんな災難が降りかかるかわかったものではない──というのがその理由です。子良は彼らの忠告を聞こうとしませんが、そもそも追従で立身出世を望むような性格ではありませんから……〉


 没頭して読み進めるうちに、いつの間にか明かりが消えかけていた。鈴玉は慌てて油を足してからまた本にかじりつく。


〈子良は愛麗を生涯愛すると固く約束し、彼女の両手を取りながら満月に向かってかいろうどうけつの誓いを立てました。愛麗は恥じらいつつも、まことの心を全て受け入れ、彼の胸に自分の顔をうずめます。そうやって二人は満月に見守られながら、いつまでも桃園の中で寄り添っているのでした……〉


 ──なんて素敵なの! そうよ、恋愛ものはこうでなくっちゃ。まことの慕情、永遠の愛、偕老同穴の誓い。ああ、私もこうした、ただ一人の殿方と誓いを交わせたら……。

 不本意な日々が鈴玉を純粋な愛の世界に逃避させるのか、泉で長旅ののどの渇きをいやす旅人のごとく、彼女は夢中になって何度も読み返す。

 そればかりか、すっかり脳内を小説に占領されてしまい、非番の明月をつかまえ、読んだ物語の筋を長々と語って聞かせた。気のいい明月は「うん、うん」とうなずきながら耳を傾けてくれていたが、やがて半ば感嘆、半ばあきれたように笑った。

「偕老同穴、偕老同穴って何べん繰り返すの? 慈しみあって添い遂げ、死後も同じ墓穴に葬られる、そんな絵空事の殿方じゃなくて、もっとあこがれる人は現実にいるでしょ?」

 鈴玉は頰をぷっと膨らませる。

「この後宮で? 女官の私たちに手を触れることができる殿方は、お話ししたこともない雲の上の存在、つまり王さまだけ。でも、王さまは王統のご繁栄のため、後宮に数多あまたの女性をお抱えで、それ以外は、『もと男』だった宦官たちしかいないし」

 そう、「女官」の身分と引きかえに、偕老同穴の殿方との恋愛はもはや縁がなくなったのだ──その事実がちくりと鈴玉の胸を刺した。

「でも鈴玉、女官たちの殿方への評判を集めた『さいひよう』によれば、文官ならばたいじようけいていこくさまが頭脳めいせきにして沈着冷静、武官ならばりんちゆうろうじようりゆうせいえいさまが武勇に優れているうえ主上のご信頼も厚く、王族ならば主上の従兄いとこに当たられるせいかいけんこうさまが博覧強記かつ人望を集め、宦官ではとうしゆうえんさまとしやろうろうさまがどちらももくしゆうれいで温厚篤実。この辺りが定番の憧れの殿方で有名よ。もっとも、宦官以外はなかなかお会いできない方々ばかりだけど……」

 明月はどこで聞きかじってきたのか、憧れの君たちの評判をすらすらそらんじてみせる。

「そんな、ろくにお会いできない殿方なんて、水に映ってはいるけど手を伸ばしてもつかめないお月さまみたいじゃない。つまらない」

「摑めなくても、月は月よ。あとは才子評というのもおそれ多いことながら、後宮中の憧れの君といえば、やはり主上よね。お若いながらよその国からも明君との評判は高く、文武両道に秀で、徳は山のごとく高く慈愛は海のごとく深く、お姿もまた……ちようあい獲得を狙っている者も後宮には大勢いるし」

「うーん。どんな明君でいらしても、王さまのお立場では偕老同穴は望むべくもないし……」

 迷う鈴玉に、明月はからかうような表情となった。

「ほら、また偕老同穴に戻っちゃった。でも、楽しそうなあなたを久しぶりに見られて良かった」

「そう言って喜んでくれるのは明月だけ。香菱だったら『仕事以外のことにうつつを抜かして』って、きっと怒るわ」

「私は良いことだと思う。今日みたいな気晴らしや楽しいことがまたあれば、仕事も順調になるかもよ。そうなったら、あなたの家門再興という目的に一歩近づけるじゃない」

「ありがとう。でも、仕事も順調になんて、本当にうまく行くかしらね……」

 半信半疑の鈴玉ではあるが、確かに楽しいひと時を過ごせたことは嬉しかった。

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