第一章 鈴玉、青雲の志を立てる⑤

     四


 瞬く間にふたつきが経ち、今日は見習い女官の「振り分け」の日だった。彼女たちのなかで特に優秀な者は王妃づきとなり、その他は後宮の側室の殿舎をはじめ、王の食事をつかさどぎよちゆうしゆうや医薬などといった分掌に振り分けられることになっている。まさに、女官の卵たちにとって運命の日といえる。

 その前途を祝福するような青空のもとで、王妃の殿舎であるえんおう殿でんの庭に整列させられた新米の女官は、みな緊張した面持ちで直立不動の姿勢を取った。

 彼女たちの眼前にはほうおうの彫刻が施された宝座が置かれ、これから誰が臨御するのかを雄弁に物語っていた。

 この日を迎えるまでの鈴玉は、一時の反抗的な態度を引っ込め、おとなしくけいに励んでいた。あの時の香菱の忠告が心に刺さり、家門再興の初心をも思い出したからだった。

 だが、彼女の努力が伝わらないのか、それとも一度広まった悪評は容易に消えないのか、鈴玉を見る楊女官の眉間のしわは、山脈からなだらかな山地になった程度だった。

 加えて、成績順である今日の新米女官の配列でも、鈴玉は後方に入れられてしまっていた。しかし、失望したのは一瞬で、配属先次第でばんかいできるだろう、と考え直した。

 ──そうね。もし配属されるなら、けいひんさまの御殿がいいわ。

 彼女はここ数日、手に入れられるだけの情報を集めていた。その結果、現在もっとも後宮で王のちようあいを得ているのが、敬嬪のりよ氏であることを知った。

 呂氏は正妻である王妃の下、側室の最高位である「嬪」の一人で、その出身の呂家は「四大権門」の一角を占める、いわば権門中の権門である。しかも彼女は既に二人の公子と一人の公主を挙げており、君寵は並々ならぬものと聞いている。

 また、彼女は召し抱えるかんがんや女官については過去の成績を気にせず、もっぱら風変わりで個性的で、日々を楽しませてくれる者を好むという噂だった。これが事実ならば、一度は「反抗的」とらくいんを押された自分にも可能性あり、と鈴玉はふんでいた。

 ──王さまの訪れも多く、権勢ある敬嬪さまのきんしゆう殿でんなら、私も活躍できて家門再興の近道に違いない!

 鈴玉がそんな未来を無邪気に思い描いていたその時、鴛鴦殿の一角がざわついたかと思うと、宝座のあるじが女官や宦官たちを引き連れ姿を現した。

 新米たちの緊張は極限に達しているようだったが、鈴玉一人だけが、冷めた目で後宮の統轄者である王妃を眺めていた。

 王妃はりん氏といい、高位の文官の林けいどうを父に持つ。ただ、王妃の実家自体は伝統ある名門とはいえ弱体で、当主の啓堂も学者肌の官僚であり、政治の手腕を発揮するような人物ではない。つまり、啓堂はがいせきとなっても権勢を振るうことはあるまいと、権門たちの都合でもって、その娘が王妃に選ばれたに過ぎないのだった。

 ──王妃さまにしてはかんろくがなく、しようもいまいちえない方ね。

 歳は二十代前半といったところで、ようぼうは地味でつつましく、後宮の主人とは思えない女性である。王妃の重厚華麗な衣裳も格式こそあるが、どことなくぱっとしない。

 王は節度をもって丁重に王妃を遇してはいるものの、王自身が「路傍に咲く花のごとし」と評されたとの噂もある。

 たとえ王妃といえども、後ろ盾がなければ権勢のある側室に、いや、そのお付きの女官にすら圧倒されてしまうものなのだ。

 王妃が宝座につくのを見計らってその場の者は一斉にはいし、また立ち上がる。続いて、女官長が王妃にうやうやしく名簿を差し出した。

「王妃さま。これから新しい女官を振り分けますれば、名簿をお目通しになり、もしお気に召す女官がいればどうぞお取り上げあそばすよう」

 そうは言っても、あらかじめ高位の女官と宦官たちの手で、振り分けはほぼ済まされているのである。答える代わりに王妃が微笑むと、宦官長は新米女官たちに向き直る。

「ではまず、鴛鴦殿づきの女官の名を呼ぶ。呼ばれた者は前に出よ」

 進み出たのはあの杜香菱と薛明月、すなわち最も優秀な見習いたちだったが、鈴玉は全くの他人ひとごととして、二人の背中を遠くから見つめていた。

「以上でよろしいでしょうか? 特にご指名がなければ、後宮の他の殿舎づきを……」

 宦官長の問いに、林氏はにっこりして名簿の下のほうを指さした。

「この者はいずこに?」

 宦官長には想定外の成り行きなのか、困惑顔になった。そのまま彼は女官長のもとに行って耳打ちする。彼女も眉根を寄せてともに王妃の指した名簿をのぞき込み、二人でひそひそ言っている。女官たちは黙ったまま互いに顔を見合わせた。

 ──王妃さまは、直々に誰かをお選びになるおつもりかしら?

 あまりに長引くので、鈴玉もげんな表情になった。だが、やがて宦官長は再び新入りたちのほうを向いて呼ばわる。

「鄭鈴玉は御前に出でよ!」

「ええっ!」

 はしたなくも、思わず鈴玉は声を上げてしまった。新米女官たちの「なぜあの娘が?」という怒りときようがくの視線が、彼女に突き刺さる。

「早く参れ!」

 宦官長のいらった声に引きずられ、鈴玉はくんすそに足を取られながら、最前列のさらに前へと進み出る。

「王妃さまの御前である、さっさと拝礼せぬか!」

 また𠮟られて、ぎこちなく鈴玉は拝跪した。いっぽう王妃は柔らかな表情でうなずき、名簿を宦官長に返す。

「そなたが鄭鈴玉か。私はこの後宮に上がって七年にならんとするが、いまだかつて、『振り分け』前にこれほど噂になった女官見習いは知らない」

 悪意は感じられなかったものの、その率直な物言いにさすがの鈴玉も恥ずかしくて真下を向いた。

「名簿を見る前から、鄭鈴玉という見習い女官の噂はこの鴛鴦殿にまで聞こえてきた。上に口答えをしたとか、反抗的であるとか、生意気だとか、数々の噂が。しかし、かえって私は興味を持ったのです。噂は本当であろうか、どのような少女なのだろうかと。見たところ、このような成績と悪評を得るようには見えぬがのう」

 ふふふ、と笑いを漏らす王妃に、女官長が「恐れながら」と声をひそめた。

「この者は大いに難があると報告があったゆえ、私が宦官長に相談して名簿の下位に入れたのでございます。ご不審であれば教導担当の女官を……」

 林氏は「良い」と女官長の言葉を遮り、鈴玉に顔を上げるよう命じた。

「鈴玉とやら。そなたが私に興味があるかどうかは知らぬが、私はそなたに興味がある。したがって、鄭鈴玉は我が殿舎に仕えさせることとする」

 ──何ですって?

 思いもかけぬ成り行きに、鈴玉の大きなひとみは限界まで丸くなった。

「いえ、王妃さま。彼女は『りすぐり』の者が揃う鴛鴦殿には……」

 女官長と宦官長の反対の合唱にも、王妃は澄ました顔を崩さなかった。

「そなたたちの決めた配分以外に、私も名簿から好きに選べと申したのでは?」

 ──私が! 王妃さまの御殿づきに?

 それは困る、と正直に鈴玉は思った。王の寵愛も形ばかりで何の力もない王妃づきでは、自分が浮かび上がれる瀬もないではないか。となれば、目指す家門再興も──。

 鈴玉のそんな焦燥を知らない王妃は、彼女に向かって頷く。

「我が身に過ぎる恩沢でございます」

 脇の香菱にこづかれ、我に返った鈴玉は型通りの謝辞を言上するのが精一杯だった。

 こうした次第で、鈴玉ははからずも鴛鴦殿づきの女官となってしまった。先輩女官や宦官の居並ぶなか、あらためて香菱ら三人の新入りは、王妃の御前に拝跪して忠誠を誓った。だが、鈴玉の失望の念はその拝礼にも現れていたと見え、この殿舎の女官を取り仕切るりゆうようなどはぎろりとにらんできた。

 ──睨まれたって構うもんですか。それにしても、困ったわね。

 鈴玉の女官勤めはこのように、波乱含みの幕開けとなった。

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