第一章 鈴玉、青雲の志を立てる④

 翌日、挙措動作の稽古で異変が起こった。見習いたちが手にしたものをささげる動作をしている中で、楊女官が怒りの表情で立ち上がると、手に持つ笞で机をたたいたのである。

「鄭鈴玉! あれほど教えたのにまた間違えるのかえ?」

 名指しされた鈴玉は黙って突っ立っていた。

「貴人にものを差し出すにはまずみぎひざを折るのじゃ、左膝ではない! どうしてそう不器用なのか」

「……申し訳ありません」

 棒読みの謝罪にいきり立った老女官は笞で彼女の左膝を叩いたが、鈴玉はかしこまる代わりに半眼となった。いまだ見習いの身分とはいえ、鈴玉たちもいずれ正式に後宮の任につき、王の寵愛を受けることもあり得る。なので、教導役の女官は笞を使っても傷を残すような叩き方をしないわけで、鈴玉にとっては何も怖くなかった。

「おまけに何じゃ、その服の着方は! 宮中の規則に背いて……」

 鈴玉の態度に顔を真っ赤にした楊女官は、ついでに彼女の服の着方に文句をつけようと笞を再び振り上げたが、「ぐぬぬ」とうなって固まった。楊を前に鈴玉は無表情を保っていたが、心のなかでにんまりする。

 ──ふん。規則、規則とうるさいけれど、形ばかりで物事の本質が全く見えてないんだわ。

 入宮の審査時の服装もそうだったが、鈴玉は他人と微差を保ち、あか抜けた着こなしをするのが得意だった。それを厳格な着用を求められる女官の服に応用して、咎められぬぎりぎりの着こなしをしてみせたのである。ささやかな反抗というわけだった。

 抜きすぎているようでそうではないえり、わずかにずれているが故意ともいえない帯の結び目の位置、くんの微妙な長さ──明確な欠点を指摘できず歯ぎしりした楊女官は、鈴玉の傍らに立つ香菱に命じた。

「香菱、このどうしようもない見習いの代わりにお前がやって見せておあげ」

 香菱は「はい、おんかたさま」と答え、定められた所作を優雅かつかんぺきに行った。それを見て、楊はようやく機嫌を直したようであった。

「まことによろしい。鈴玉、次は必ず間違えぬように。でないと、正式に仕える以前にえいこう送りにするぞ」

「永巷」とは、罪を得た宮中の女性が幽閉される場所である。老女官の脅しに対し、鈴玉は「はい、御方さま」と答えたものの、「は」と「い」を少し伸ばして発音したので、再び相手のけんを山脈のごとく険しくさせた。

 そんな調子でその日も修練が終わり、鈴玉は裙をらすように歩いていた。だいだいいろの夕陽が差し込む回廊に彼女の長い影が伸びている。やがて後ろから別の影が現れ、軽い足音が小走りに追ってきた。

 ──あの走り方は彼女ね。やっぱりおいでなすった、というわけ。

「鈴玉!」

 呼ばれた方は立ち止まり、ひと呼吸置いてから振り返った。

「何よ、御方さまの覚えもめでたい良い子の香菱ちゃん?」

 鈴玉の先制攻撃に、香菱は顔をしかめた。彼女は明月と同じく成績優秀な見習いだが、その優等生然としたところに加え、何かと忠告をしてくるので鈴玉は苦手だった。

「鈴玉。どうしてそんなにつっかかるの? さっきだって……」

「だって、馬鹿ばかしいと思わない?」

「馬鹿ばかしいって?」

「来る日も来る日も、朝から晩まで立ったり座ったり、お辞儀をしたり。そんな練習は一日もあれば足りるじゃない? 少しぐらい間合いが合わなくても、不揃いでもいいじゃない」

「でも鈴玉、上は王妃さまから下は女官見習いに至るまで、後宮は何ごとも秩序をもって動かなくてはならないのよ。あれは単にお辞儀やあいさつの練習というだけではなく、目上や年上には従う心得を学ぶために……」

 鈴玉は鼻を鳴らした。

「従う心得? 上の立場の人間が常に正しいとは限らないのに? 理不尽なこともしょっちゅう言われたり、命じられたり……」

「あなたが本当に言いたいのは、お辞儀なんかではなく沈女官さまのことでしょ」

 鈴玉は図星を指されてまゆを寄せた。

「わかっているわよ、香菱。下が上に敬意をもって従うのは当然。でも、上も慈愛をもって下を導くべきでは? 後宮でそれが守られていると言える? 私は家門再興をかけて後宮に入ったのに、こんなに何もかも馬鹿ばかしい場所だなんて思わなかった。でも、私がいつか上の立場に立ったら……」

「そんな態度じゃ、上の立場になれるわけないでしょ。ましてや家門再興なんて」

 香菱は鈴玉の身の程知らずに鼻白んだようだが、忠告の手をゆるめない。

「ねえ、鈴玉。今日のようにとがって上の人たちとぶつかっていては、損をする一方よ。それにさっきの服の着こなしのこと、わざと人を試すような真似をして。そんなことをしていたら、沈女官さまだってきっと悲しむわ」

 またもや心の底を見抜かれた鈴玉は、相手を睨んだ。

「沈女官さまのお名前で私を黙らせようなんて思わないで。理不尽なことを理不尽と言って、何が悪いの。それに損って何? 長いものにはおとなしく巻かれていろって?」

「あのね。結局はこの後宮も世間と同じなの。位階や年功序列による厳しい上下関係はつきものだし、理不尽や納得のいかないことなんて、どこにでも転がっている。私だってそれを肯定するつもりはないけど、そこは割り切らないと」

「私を世間知らずと言いたいようだけど、香菱はずいぶん大人なのね」

 さすがの香菱も、堪忍袋の緒がそろそろ切れそうな雲行きである。

「とにかく気をつけなさいよ。見習いの考課でもし低い評価がついたら、一生浮かび上がれないかもしれない。それに、反抗自体が目的になったらそれこそ本末転倒だわ」

 鈴玉は痛いところを三たび突かれて動揺したが、それを隠すため強がりの笑みを見せた。

「ねえ、正直に言ってよ。香菱はそんなに私が心配なの?」

「心配よ。というより、あなたが道をれていくのを見ていられないの。それだけ」

 皮肉のつもりだったが、相手には全く通じなかった。迷いがなく真情の込められた即答に、さすがの鈴玉もたじたじとなり、しばし沈黙してから小さな声でつぶやいた。

「そ、そう。ご心配ありがとう。香菱」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る