第一章 鈴玉、青雲の志を立てる③
三
「あら?」
翌日、朝の
「今日から私が教導の担当となる。私は沈女官ほど甘くはないから、みな心しておくように」
剣先のような鋭い口調に、見習いたちは身を縮める。だが、鈴玉は声を上げた。
「あの、沈女官さまはどうされたのでしょうか? 何かお身体の具合でも? いつ復帰されるのでしょうか」
「何だと?」
楊女官は鈴玉を睨みつけ、声を荒げた。
「そなたには関係ない」
「いいえ、関係あります。沈女官さまに早くお返ししたいものがあるのです」
彼女の懐には、沈女官から借りた
「ですから、沈女官さまのご復帰のご予定を教えてください……」
食い下がる鈴玉の頰がぱんと鳴った。楊が近寄るなり、平手を食らわせたのである。
「…………!」
場の空気は凍り、皆の視線は彼女に集まった。鈴玉は身を震わせながら頰を押さえたが、楊女官はそちらには目もくれず、机に置いた
「では、本日の稽古を始める」
鈴玉は怒りと屈辱感を抱いたが、それよりも敬愛する沈女官のことはどうにも納得が行かなかった。
──調べて、何とか事実を突き止められないかしら?
といっても、見習いたちは何も知らないし、何か知っていそうな先輩女官たちは、そもそも鈴玉のことを鼻であしらって相手にもしてくれない。
「ねえ鈴玉、聞いて回るまでもないわよ」
成果が得られない鈴玉を見るにみかねたのか、物陰でそっと
「沈女官さまの件は、
「嫉妬? 沈女官さまに何があったの? お願いだから知っているなら教えて、明月」
鈴玉は必死の形相で、明月の両腕を
「痛いわ鈴玉、落ちついて。沈女官さまは有能だし温和で気品があり、人望も厚い。しかも、不正を憎み
「主上の聖恩を受ける」とは、すなわち「主上と枕を共にする」ことを意味する。
鈴玉は仕事部屋の前で立ち聞きした、楊女官と沈女官のやり取りを思い出した。
「で、実際に主上から聖恩を受けたの? それとも噂だけ?」
「あくまで噂よ、聖恩
「いきなり追放? 言いがかり? 一体どんな……」
鈴玉の驚きに対し、明月はためらう素振りを見せた。
「沈女官さまは先日の夜の見回りで、一か所戸締りをお忘れになったんですって。それを
「そんなことで追放なの?」
鈴玉は思わず大声をあげてしまった。
「しっ。確かに戸締りの落ち度は処罰の対象だけど、それだけを理由にした追放は解せない、と
鈴玉の
「沈女官さまは本当にお気の毒だわ。あなたはあの方に懐いていたので、知らせてあげなきゃと。私は兄も
鈴玉は
──もう一度、沈女官さまにお会いしたい。もっと色々教わりたかったのに。
彼女は沈女官の上品な挙措、自分を励ましてくれた微笑みを思い出してたまらなくなり、懐からあの手巾を取り出して眺めた。こうなったいまは、
「ねえ鈴玉、わかったでしょ? 二度と楊女官さまや他の方々の前で、この話を蒸し返さないでね? おとなしくしていて。でないと、あなたにまで累が及びかねないから」
「……わかったわ」
本心からではない。自分を心配してくれる明月の真情を
彼女は手巾をぎゅっと握りしめ、明月と別れて早足で回廊を歩いた。ふと、視界の隅に何かが横切り、あっと思ったときには体の半分がぐっしょりと
「あら、失礼」
回廊の曲がり角から、二人の先輩女官が姿を現した。彼女たちが手に持っているものは水の滴る
「なぜそんなことをなさるんですか? 私が何かしたとでも?」
先輩女官の片割れは、にやりと笑って桶を振った。
「あなた、あの小役人の娘、ええと、沈何とかが大好きだったんだって? あなたはお貴族の身分だそうだけど、小役人の娘を尊敬するくらいにはさばけているのね」
鈴玉はかろうじて理性を総動員して、相手に摑み掛かろうとする自分を抑えた。相手が先輩女官でなければ、そうしていただろう。その代わり、一礼するや猛然と走り出す。涙を
「……っう、えっ」
抑えようと思っても
──見てなさい、こんなことでひるんだりはしないから。
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