第一章 鈴玉、青雲の志を立てる③

     三


「あら?」

 翌日、朝のけいが始まり、教場に整列した見習い女官たちは一様に眼をぱちくりさせた。入って来たのは沈女官ではなく、あの尊大な楊女官だったからである。鈴玉は思わず顔をしかめた。

「今日から私が教導の担当となる。私は沈女官ほど甘くはないから、みな心しておくように」

 剣先のような鋭い口調に、見習いたちは身を縮める。だが、鈴玉は声を上げた。

「あの、沈女官さまはどうされたのでしょうか? 何かお身体の具合でも? いつ復帰されるのでしょうか」

「何だと?」

 楊女官は鈴玉を睨みつけ、声を荒げた。

「そなたには関係ない」

「いいえ、関係あります。沈女官さまに早くお返ししたいものがあるのです」

 彼女の懐には、沈女官から借りたしゆきんが大切にしまわれていた。洗濯して熨斗のしを当ててあり、返すつもりで携帯していたものだった。

「ですから、沈女官さまのご復帰のご予定を教えてください……」

 食い下がる鈴玉の頰がぱんと鳴った。楊が近寄るなり、平手を食らわせたのである。

「…………!」

 場の空気は凍り、皆の視線は彼女に集まった。鈴玉は身を震わせながら頰を押さえたが、楊女官はそちらには目もくれず、机に置いたむちを手に取った。

「では、本日の稽古を始める」

 鈴玉は怒りと屈辱感を抱いたが、それよりも敬愛する沈女官のことはどうにも納得が行かなかった。

 ──調べて、何とか事実を突き止められないかしら?

 といっても、見習いたちは何も知らないし、何か知っていそうな先輩女官たちは、そもそも鈴玉のことを鼻であしらって相手にもしてくれない。

「ねえ鈴玉、聞いて回るまでもないわよ」

 成果が得られない鈴玉を見るにみかねたのか、物陰でそっとそでを引いたのは、せつめいげつというつぶらなひとみを持つ同輩だった。彼女はその温顔通りの穏やかな性格で、鈴玉にも親切に接し、見習いの中でも優秀な成績を収めている。

「沈女官さまの件は、しつが原因よ」

「嫉妬? 沈女官さまに何があったの? お願いだから知っているなら教えて、明月」

 鈴玉は必死の形相で、明月の両腕をつかんで揺さぶった。

「痛いわ鈴玉、落ちついて。沈女官さまは有能だし温和で気品があり、人望も厚い。しかも、不正を憎みぜんとなさっている。そのようなお方が、このたび主上の聖恩を受けるのではないかと噂になっていたものだから……」

「主上の聖恩を受ける」とは、すなわち「主上と枕を共にする」ことを意味する。

 鈴玉は仕事部屋の前で立ち聞きした、楊女官と沈女官のやり取りを思い出した。

「で、実際に主上から聖恩を受けたの? それとも噂だけ?」

「あくまで噂よ、聖恩うんぬんは。でも、それに嫉妬した、あるいは脅威を抱いた人たちがいたのね。実際にちようあいを受けお子を産めば、側室に取り立てられるでしょうし。それで沈女官さまは言いがかりも同然な罪に問われ、いきなり後宮を追放されたんですって」

「いきなり追放? 言いがかり? 一体どんな……」

 鈴玉の驚きに対し、明月はためらう素振りを見せた。

「沈女官さまは先日の夜の見回りで、一か所戸締りをお忘れになったんですって。それをとがめられて」

「そんなことで追放なの?」

 鈴玉は思わず大声をあげてしまった。

「しっ。確かに戸締りの落ち度は処罰の対象だけど、それだけを理由にした追放は解せない、とささやかれている。実際はままあるそうよ、締め忘れや点検忘れが。でも、沈女官さまを排除したい者たちには絶好の機会よね。規則を盾にただ一度の過ちを……」

 鈴玉のすさまじい表情に気が付き、明月は慌てて言葉を継ぐ。

「沈女官さまは本当にお気の毒だわ。あなたはあの方に懐いていたので、知らせてあげなきゃと。私は兄もかんがんとして働いている関係で、色々教えてくれる知人がいるの」

 鈴玉はのどもとに苦いものがこみあげてくるのを感じた。父の言う後宮の恐ろしさをかい見てしまったおののき。尊敬する人に降りかかった理不尽な災難への憤り。

 ──もう一度、沈女官さまにお会いしたい。もっと色々教わりたかったのに。

 彼女は沈女官の上品な挙措、自分を励ましてくれた微笑みを思い出してたまらなくなり、懐からあの手巾を取り出して眺めた。こうなったいまは、しゆうの鈴蘭が心細げに咲いているように見える。明月はそんな彼女を気づかわしげに見つめ、肩に手を置いた。

「ねえ鈴玉、わかったでしょ? 二度と楊女官さまや他の方々の前で、この話を蒸し返さないでね? おとなしくしていて。でないと、あなたにまで累が及びかねないから」

「……わかったわ」

 本心からではない。自分を心配してくれる明月の真情をんだのでそう答えてはおいたが、悲しみは一歩退き、代わりに自分から大切なものを奪ったやからへの反抗心がむくむくと湧いてくる。

 彼女は手巾をぎゅっと握りしめ、明月と別れて早足で回廊を歩いた。ふと、視界の隅に何かが横切り、あっと思ったときには体の半分がぐっしょりとれていた。

「あら、失礼」

 回廊の曲がり角から、二人の先輩女官が姿を現した。彼女たちが手に持っているものは水の滴るおけ。故意に水をかけられたと見て取った鈴玉は、きっとして相手をにらんだ。

「なぜそんなことをなさるんですか? 私が何かしたとでも?」

 先輩女官の片割れは、にやりと笑って桶を振った。

「あなた、あの小役人の娘、ええと、沈何とかが大好きだったんだって? あなたはお貴族の身分だそうだけど、小役人の娘を尊敬するくらいにはさばけているのね」

 鈴玉はかろうじて理性を総動員して、相手に摑み掛かろうとする自分を抑えた。相手が先輩女官でなければ、そうしていただろう。その代わり、一礼するや猛然と走り出す。涙をあふれさせながら人気のない回廊を駆け抜けていったが、ついに段差につまずき、勢いよく転んでしまった。

「……っう、えっ」

 抑えようと思ってもえつが口からこぼれ出てとまらず、擦りむいて血がにじむ手のひらよりもなお、自分の心が痛かった。

 ──見てなさい、こんなことでひるんだりはしないから。

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