第一章 鈴玉、青雲の志を立てる②


     二


 それから長い服喪期間を終えた頃、鈴玉は運よく女官の召募が行われることを知った。女官として入宮するには、心身に対して行われる考査に合格せねばならない。

 嘉靖宮に赴く準備のため、彼女はよそ行きの服を出し、身にまとってみた。

 服自体は、入宮のため呉氏から贈られた反物を仕立てたものである。えりの飾りは端切れをつなぎ合わせて作ったもので、縫い目こそ荒いが色遣いの感覚が良く、もえ色のじゆに重ねたとき色の帯には濃い桃色の飾りひもが映えた。加えて、紐の結び目のずらし方、衿の立ち具合といった着こなしにも細心の注意を払っているので、いかにもあか抜けた印象を与える。

 ──これならきちんと見えて、女官候補の誰にも負けないでしょうよ。

 鈴玉は身支度の仕上がり具合に満足の吐息を漏らしたが、ふと顔を曇らせた。後宮に入ってしまえばお仕着せの女官の服で一生を過ごすのだから、このような装いの楽しみとも縁が切れてしまうのだ。彼女は首を横に振ってその事実を頭から追い出した。

 ともあれ、鈴玉は志で胸を膨らませ、嘉靖宮の最北に位置するげんもんから、他の少女たちとともに後宮に足を踏み入れた。

 入宮のための審査において、学問の初歩を問う筆記の考試はさして難しくもなかったが、腰に巻いた薄布一枚で身体を調べられるのは屈辱だったし、口頭の試問で意地の悪そうな老かんがんと女官から、実家での貧しい生活を根掘り葉掘り聞かれたのもやりきれなかった。

 特に、生殖機能をうしない宮中で王や後宮の女性たちに仕える「宦官」という存在は、鈴玉が初めて接するもので、暗い顔つきや男とも思えぬ高い声はともかく、その言動からにじみ出る陰険さは、宦官に関する嫌な噂を裏付けるようで先が思いやられた。

 こうした屈辱的な審査にへきえきはしたものの、後日、まさかの合格の知らせに鈴玉は有頂天となった。それとは反対に鄭駿は浮かぬ顔を隠そうともしなかったが、入宮の当日、精一杯美しく装った娘を自宅の門前で見送るときは、やさしく娘の肩に手を置いた。

「私のせいでそなたが苦労を強いられるとは……ない父を許してほしい」

 鈴玉は父のまなしに涙がこぼれそうになったが、それを取り繕うためにつんとした表情になった。

「あら、これは私自身が選んだ道よ。ご自分を責める必要なんてないでしょ、お父さま」

「だったら良いが。そなたは人に仕える身となるが、学問を忘れず、周囲を思いやり、何事も公明正大に振る舞いなさい。それは困難な道だが、尊い。まずは後宮での生活に慣れ、健やかに暮らすことを心掛けて、な……」


 そして再び嘉靖宮の玄武門をくぐり、女官の服を着て見習いの印である浅黄色の紐を帯の上につけた鈴玉は、人生の成功を疑わず意気揚々としていた。彼女は百人ばかりいる女官見習いの一人として、後宮のしきたりや職務を学ぶことになっている。

 ──早く慣れて、一人前の女官にならなきゃ。

 鈴玉たち見習いを主に教導するのは、しんていしゆくという女官だった。歳の頃は三十前、口元にいつも微笑をたたえた穏やかな人で、見習いたちに接する時も、決してせつかんを加えたり、声を荒げたりすることはなかった。小役人の家の出身だが、自らの努力で女官の位階を順調に上がり、教え方も的確で情理を尽くしたものだったので、見習いたちからは好感をもたれていた。

 彼女のもとで、女官見習いたちはその適性を測るために、行儀作法や調理、縫物といった、さまざまなけいをこなす。鈴玉も一生懸命取り組んではいたものの、少々行き届かないところがあって失敗が続いた。また、その気の強さも災いして、同輩たちに「がさつな令嬢だこと」「没落貴族のくせに生意気だ」と、聞えよがしに陰口を叩かれる始末だった。

 おまけに、ある日の修練で沈女官に入宮の目的をかれ、胸を張って「家門再興」と答えた鈴玉は、皆に冷笑されたのである。

 ──なぜ志を口にして、鼻で笑われるの?

 ある昼下がり、見習い女官たちがいっせいに顔をうつむけて縫物の稽古をするなか、鈴玉は眉根をぎゅっと寄せながら針を動かしていた。

 ──何よ。私が没落貴族だと思って馬鹿にして。

 実は、午前中に行われた料理をささげ持つ稽古で、鈴玉は派手に盆をひっくり返して同輩の女官に汁物を引っかけてしまい、周囲からひんしゆくをかったばかりなのである。

 彼女は慌てて謝ったが、被害を受けた本人はまるで謝罪を無視し、他のほうゆうと「わざとやっているんでしょ」「貴族なのにあんながさつな挙措しかできないなんて」とあからさまに悪口を言ってよこした。

 同輩たちの冷たい視線を思い出して腹を立てながら、鈴玉はざくざくと縫物の運針に没頭する。

 ──そりゃ、失敗した私が悪いけど、何もあんな風に……。

「鄭女官、どうしたの? そんなふくれっ面をしていたらあなたの美点が隠れてしまうわよ。むらくもに隠される月のようにね」

 縫い目が曲がった布を沈女官にのぞき込まれ、鈴玉はさっと布を机の下に隠した。

「な、何でもありません……いたっ」

 自分の指を針でぶっすり刺してしまい、そのとんきような声に周囲からくすくす忍び笑いが漏れる。沈女官はすかさず自分のしゆきんを取り出し、鈴玉に渡した。

「いけません。血で汚れますから」

「いいのよ」

 沈女官に重ねて勧められ、鈴玉は、鈴蘭がしゆうされた手巾で指の血をぬぐった。

「指きの使い方が少し……こう。ほら、この方が楽に縫えるでしょう? それにしても、随分頑張って縫ったのね。この部分の縫い目がゆがんでいるのは惜しいけど」

 沈女官は褒めつつも弟子の指貫きを正しくはめ直し、自ら縫う手本も示してくれる。彼女の前では鈴玉もおとなしくなり、気品のある横顔をちらりと盗み見るのだった。

 ──お父さまは後宮を魑魅魍魎の巣窟だと仰っていたけど、違うじゃない。この方のように素敵な、尊敬すべき方もいらっしゃるし……。

 夕方に修練が終わり、見習いたちがほっとした表情で解散するなか、鈴玉はあることを相談するため、沈女官の仕事部屋に赴いた。この時間であれば、彼女はまだ勤務しているはずだった。

 鈴玉が扉の前で来訪を告げようとしたそのとき、なかから甲高い声が聞こえてきた。

「そなた、私の眼を欺くのか! 主上の覚えをかさに着て、他人を馬鹿にしおって」

「それは誤解です、あなたさまを欺くなど考えも及ばぬことです。それにおそれ多きことながら、主上と私はどのような関わりもございません。どうかお信じくださいませ」

 相手の激高を受け止める低く静かな声は、沈女官のものであった。

「ええい、もうよい! 後宮にとんだ女狐がいたものよ」

 足音も荒く出てきたのは、よう女官とその取り巻き女官たちだった。楊は長老格の女官で、枯れ木のようなそうとは裏腹に、その顔には尊大さと頑迷さとが刻まれており、特に年若い女官たちは彼女を恐れていた。楊たちは鈴玉に気が付き、にらみつけてくる。

「ふん、女狐の次には仔鼠か。さては盗み聞きでもしておったのか?」

 楊女官は忌々しげに言い捨てる。

 ──仔鼠ですって?

 不当なもの言いにぜんとする鈴玉だったが、相手が相手だけに反論もできず沈黙するしかなかった。楊女官たちの姿が消えるのを待って扉をたたくと、一瞬遅れて応じる声が聞こえる。部屋に入った鈴玉は、椅子に深く腰掛けた沈女官を見た。

 夕陽に照らされていることを差し引いても、彼女の顔色の悪さは覆うべくもなく、全身から疲労がにじみ出ているかのようだった。

 ──間が悪かったかしら。

 来たことを後悔しつつ、鈴玉は机の前に遠慮がちに立った。

「どうしたの? 鄭女官」

「お邪魔でなければ、質問があるのですが」

「答えを求める人に邪魔というのはないわ。どうぞ言ってごらんなさい」

 沈女官は笑顔を見せたが、鈴玉の眼には無理をしているように見えた。

「あの……女官の仕事はさまざまですが、私に向いているものはありますか? 沈女官さまは『私に美点がある』とおつしやいましたが、それはどのようなものだとお考えですか?」

「ふふ。あなたは表面では強がっているけど、心の中は揺れているのね」

 図星を指された鈴玉はうつむき、口の中でもごもごつぶやく。

「真面目にやっているつもりでも、上手うまくいかないことが多くて……将来、どうなるのか不安で。それに、見習いの皆にも私は煙たく思われているみたいで」

「そうねえ」

 沈女官は首を少し傾けた。

「まず『上手くいかないことが多い』というのは、女官となったばかりの段階では当然なこと。将来に一番不安を覚える時期でしょう。あなたが何に向いているかは、私にもまだわからない。すでに表に現れている能力かもしれないし、まだ内に眠っている、もしくは誰にも気づかれていない才能かもしれない」

「……内に眠っている?」

「いま苦手なことも得意になるかもしれないし、そもそも『すぐに上手くいく』ことが早道とは限らない。まず選択肢と可能性を広げておきなさい。『自分にはこれしかない』と思わずにね。私も教導役として、皆には身分や過去に関係なく実力を発揮して欲しいので、等しく最初の選択肢や機会を与えるつもりよ。志と勇気をもって自ら後宮の門を叩き、異なる世界に飛び込んだあなたなら、きっと進むべき道をいだすことが出来る。真っ直ぐ前に進もうとするところ、それこそがあなたの美点なのだから」

「真っ直ぐ前に進むところ……」

 明るくなった鈴玉の表情を前に、沈女官にもようやくいつもの朗らかさが戻ってきた。

「次に、『煙たく思われている』というのは、彼女たちはあなた自身を煙たく思っているのかもしれないし、貴族という存在を煙たく思っているのかもしれない」

「貴族を、ですか?」

「貴族と言っても貧富や地位は千差万別だけど、他の身分の者は貴族を一からげに煙たい存在と思っている。あなたの前で言うのも気が引けるけど、残念ながら貴族の中には、特権を笠に着て権勢を振るい、人々を苦しめる者も多い。だから、ここぞとばかりにあなたを攻撃し、りゆういんを下げたい者もいるでしょう。もちろん、それは良いことではないけど」

 鈴玉は鼻にしわを寄せた。

「私は横暴な貴族ではないつもりです。身分をひけらかした覚えもありません。でも、周囲はそう受け取ってくれないみたいで……」

「ええ。それで最初の話に戻るけど、あなたも彼女たちも、生まれは選べなくても、生き方を選ぶことはできるわ。たとえば、私の父は一生を文字通りの小役人で過ごし、出世とは無縁の人だった。それは周囲が当然だと見なすようなわいの授受を一切しなかったから。私はそんな父が誇りで、自分もそうありたいと願っている」

「沈女官さま……」

 鈴玉は、沈女官が家族のことを持ち出してまで諭してくれた事実に胸が温かくなった。

「あなたは答えを今すぐ見つける必要はないわ。このまま何事もしんに取り組んで能力を磨き、成果を挙げれば、やがて周囲も一目置くようになる。『貴族のくせに』とは誰も言わなくなる」

「本当にそんな日が来るでしょうか……」

 鈴玉は自信なく呟いた。敬愛する女官の前では、つい強気のよろいを脱いで、心の奥底に潜む弱さをあらわにしてしまう。沈女官はきっぱりした口調で言った。

「もし誰かがあなたを不当におとしめるのであれば、それは私が許しておかないから安心なさい。でも逆もまたしかり、あなたも他人を尊重することが必要よ。これで納得できた?」

 鈴玉はぴょこりと頭を下げた。

「はい。話を聞いてくださって、ありがとうございました」

 ──そうね。沈女官さまのお言葉を頼りに、頑張ってみよう。

 元気になった鈴玉に沈女官もうれしげだったが、ふいにその顔が曇った。

「たとえ困難な状況に陥っても、その真っすぐさがどうかあなた自身を助けますように……」

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