第一章 鈴玉、青雲の志を立てる①
一
それは、ちょうど秋風にぴりりと冷たいものが混じり始めた雲の多い朝、当時まだ十四歳だった喪服姿の
木目は割れて合わせ目に隙間ができ、
その前に肩を落としてうずくまる父親の鄭
「これ、鈴玉や。いつまでも突っ立っていないで、早く母親に拝礼しなさい」
父の弱々しい𠮟責も耳に入らぬかのように、鈴玉は低い声を振り絞った。
「……でも、娘としてお母さまに顔向けができず、拝礼するのもためらわれます」
彼女が着ているのは親等の近い者が着る目の粗い麻の喪服、そのごわついた衿がうなじに当たって痛かった。
再三促され、鈴玉はやっとのことで故人に拝礼すると、今朝がた摘んできた
──許して、お母さま。いまの私にはこれが精一杯。うちにお金がないばかりに、お母さまが病気になっても、お医者さまを呼ぶことさえできなくて。
彼女は
「知らなかったわ、貧しいってこれほど惨めで悲しいものだとは」
「鈴玉や、本当にすまない……私が
「そうね、家令が最後に残ったなけなしの財産を持ち逃げするまでは、我が家も少しはましだったみたいね。……でも私には何もない、貧しさの記憶以外は。お父さまがもっと気丈でいらしたら、我が家門の没落も食い止められたかもしれないのに」
言い放ってから鈴玉は、思い直したかのように首を横に振った。
「いいえ。今のは言い過ぎね、ごめんなさい。お父さまを責めたところで、お母さまが帰ってくるわけではなし。それに、お父さまは学問こそお出来になっても、世渡りの芸当なんて無理なこともわかっている」
たとえ学問の弟子を取っても謝礼さえ受け取らず、手にした食料も困窮した者に恵んでしまうお人
──ああ、こんな風ではなく、人としてもっと尊厳のある生活を送りたいのに。お父さまに頼らず私が何とかしなきゃ。鄭家を再興させるのよ。でも、一体どうすれば?
鈴玉が知恵を絞っているその傍らで、父親は疲れからか、妻の
「……そうだわ」
やがて彼女は大きく
都の中心を南北に貫く
「お願いにございます! 私は貴族にして開国の功臣の
「おい、ここをどこだと心得る! 麟徳府の役所であるぞ。余人がやたらに入っていい場所ではない!」
騒ぎを聞きつけたのであろう、門の脇の扉が開いて下級役人が顔を出したので、鈴玉はその前に飛んでいって
「私を官人にしてください。我が鄭家は寒門で、貧しさゆえに母は病を得て泉下の人となりました。学問だけが取り柄で世渡りの下手な父に代わって、私が働きたいのですが……。健康ですし仕事もできます、どうか官人としてお取立てのほどを!」
喪服姿の少女の懇願に役人はぽかんとしたが、数拍おいて顔が赤黒くなった。
「馬鹿もの! 女が男の代わりになどなれるか! ましてや官人などと。それに、たとえそなたが男でも、親の喪中であれば官職につくことはできぬ。貴族であるという言を信じて今回は目こぼししてやるが、二度と現れるな! 帰って真面目に服喪せい!」
けんもほろろな扱いで追い立てられ、さすがに気が強い鈴玉も背中を丸めてとぼとぼ帰路についた。熱のない陽光が、自分の惨めな姿を容赦なく照らしている。
──女が男の代わりになどなれるか! ましてや官人などと……。
「…………」
先ほどの下級役人の
貴族の中でも、「女子の才無きは
──男だったら……。なぜ私は、女になんて生まれてきたんだろう。
運河の橋から水面を見下ろすと、
そこへ──。
「あら、鄭のお嬢さんでは?」
かけられた声の方角を振り返ると、ふっくらした体つきで、
実は亡き母が針仕事でわずかな稼ぎを得ているのを見て、鈴玉も家計の足しにしようと子守に出ていたことがあったが、その雇い主が呉氏というわけだった。
働き始めた当初、鈴玉には仮にも貴族でありながら人に雇われることに対し、
「こんなところでどうなさったの? 確かお母さまが亡くなられたと伺ったけれど」
「奥方さま……」
鈴玉は恩人の姿を目にした途端、感情が心の
「麟徳府のお役所で厳しい扱いを受けたのですね。でも、お父上に苦労させたくないと思う孝心から出たものゆえ、お役人も追い払いこそすれ、あなたを罰したりはしなかったのでしょう。それに、女が官位をもって身を立てることはできますよ」
「本当に? どうやって……」
思いもかけない言葉に、鈴玉は涙で
「ええ。お嬢さん、差し出がましいようだけれども──嘉靖宮の後宮に入るというのはいかが?」
「後宮、ですか?」
呉氏はふくよかな顔をさらに丸くさせて頷いた。
「そう、入宮して女官になるの。必ずしも簡単ではないでしょうが、しっかり者のあなたなら立身出世できて、家門を復興させることも
「でも、私につとまるかしら」
無謀なところがある鈴玉だが、「後宮」という未知の世界には
「大丈夫。見込みは十分あると思いますよ。それにあなたの美しさをもってすれば、もしかしたら主上のお目にとまって
自分の
「それに、お父上はご立派な学者さまでも、生計を立てるのはお得意ではないご様子。だから喪が明けたら、女官の召募が行われる時にあなたが応じてみれば?」
鈴玉の
──本当ね。あるじゃない、家門を再興させる手段が。
主上だの寵愛だのという言葉は彼女にはぴんと来なかったが、女子の立身の道として、「女官」の一語は鮮烈な響きをもって聞こえた。それまでの気落ちはどこへやら、飛び跳ねるような足取りで帰宅すると、心配顔の父親が待ち構えていた。
「どこに行っていた? 近所を捜しても見つからないから……」
娘から麟徳府の役所での出来事を聞かされた鄭駿は、半ば
「いつもそなたの直情径行、猪突猛進を戒めているのに、よりによってお上を
だが鈴玉には、父親の𠮟責は耳に入っていなかった。
「何事も、まずは扉を
きっぱり宣言した彼女は、自信ありげに小鼻をうごめかせた。
「確か、私がお母さまに服喪する期間は足かけ三年ですよね、お父さま」
「あ、ああ。実質的には二年と少し……しかし、何を考えておる?」
「私、決めました。お母さまの喪が明けたら嘉靖宮に入ります。後宮の女官になるの」
娘の決心に対し、父親は口をあんぐりさせた。
「女官って、鈴玉……跳ねっ返りのお前に女官勤めができるものか。いくら明君と賢妃のおわす王宮といっても、やはり
鄭駿の仰天ぶりに、鈴玉はぷっとふき出した。
「お父さまのその
「誰のせいでそうなったと? それに親の心配をまぜ返すとは、何と不届きな……」
「だって、お父さまのお話は筋が通っていませんもの。王さまと王妃さまが本当に賢い御方であるならば、なぜ後宮は魑魅魍魎が
澄ました表情の娘を前に父親は
「それは恐れ多くも主上への
鈴玉の顔には「納得いかない」と書いてあったが、父親は首を横に振るばかりだった。
「いかんいかん、いかに私が非力な親でも、娘がみすみす死地に赴くのを看過できない。お前がもし入宮しても、一月後には死体で出宮することになりかねん」
「でもこのまま手をこまねいていたら、我が家門は破滅の一途を
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