第一章 鈴玉、青雲の志を立てる①

     一


 それは、ちょうど秋風にぴりりと冷たいものが混じり始めた雲の多い朝、当時まだ十四歳だった喪服姿のてい鈴玉は、母親のひつぎを前にし、足を踏ん張り立っていた。

 木目は割れて合わせ目に隙間ができ、ふたも満足に閉められぬ柩の中に母は横たわっている。祭壇にはわずかばかりの供え物が置かれているばかりだった。

 その前に肩を落としてうずくまる父親の鄭駿しゆんとは対照的に、一人娘の鈴玉は両のこぶしを固く握りしめ、柩をにらみつけている。

「これ、鈴玉や。いつまでも突っ立っていないで、早く母親に拝礼しなさい」

 父の弱々しい𠮟責も耳に入らぬかのように、鈴玉は低い声を振り絞った。

「……でも、娘としてお母さまに顔向けができず、拝礼するのもためらわれます」

 彼女が着ているのは親等の近い者が着る目の粗い麻の喪服、そのごわついた衿がうなじに当たって痛かった。

 再三促され、鈴玉はやっとのことで故人に拝礼すると、今朝がた摘んできたしゆうめいぎくの束を祭壇から取って、そっと柩に納めた。死者はあり合わせの衣を死に装束代わりに着せられていたが、れんな花は乏しすぎる副葬品を補い、自分とよく似た面差しの母親をさりげなく引き立てて彩った。

 ──許して、お母さま。いまの私にはこれが精一杯。うちにお金がないばかりに、お母さまが病気になっても、お医者さまを呼ぶことさえできなくて。

 彼女はあふれる涙を喪服のそでぬぐい、父親に向き直った。鄭家は開国の功臣を祖先とする名門貴族だったが徐々に没落していき、父もまた名ばかりの、微々たるろくむ最下級の官僚で、家は寒門という言葉さえもおこがましい貧窮のうちにあったのである。

「知らなかったわ、貧しいってこれほど惨めで悲しいものだとは」

「鈴玉や、本当にすまない……私がないばかりに、そなたにまでつらい思いをさせて。私は鄭家がここまで没落する前のことも覚えているが、そなたは貧しい生活しか知らないのだから」

「そうね、家令が最後に残ったなけなしの財産を持ち逃げするまでは、我が家も少しはましだったみたいね。……でも私には何もない、貧しさの記憶以外は。お父さまがもっと気丈でいらしたら、我が家門の没落も食い止められたかもしれないのに」

 言い放ってから鈴玉は、思い直したかのように首を横に振った。

「いいえ。今のは言い過ぎね、ごめんなさい。お父さまを責めたところで、お母さまが帰ってくるわけではなし。それに、お父さまは学問こそお出来になっても、世渡りの芸当なんて無理なこともわかっている」

 たとえ学問の弟子を取っても謝礼さえ受け取らず、手にした食料も困窮した者に恵んでしまうお人しで優しい父を相手に、愚痴や非難を聞かせたところで仕方がない。それに、鈴玉は時にはいらちながらも、そんな父を大切に思っていたのである。

 ──ああ、こんな風ではなく、人としてもっと尊厳のある生活を送りたいのに。お父さまに頼らず私が何とかしなきゃ。鄭家を再興させるのよ。でも、一体どうすれば?

 鈴玉が知恵を絞っているその傍らで、父親は疲れからか、妻のきゆうぜんで眠り込んでしまっている。

「……そうだわ」

 やがて彼女は大きくうなずくと、喪服のままそっと家を抜け出した。

 都の中心を南北に貫く朱雀すざくたいがいという大道に出て、北の方角を指して歩くと見えてきたのは、「麟徳府」と書されたへんがくを掲げる大門である。この、都を治める府庁の門前で彼女は立ち止まった。すぐにやりを持つ門番にすいされたが、かまわず声を張り上げる。

「お願いにございます! 私は貴族にして開国の功臣のまつえいである鄭駿の娘です。どうかお取次ぎを」

「おい、ここをどこだと心得る! 麟徳府の役所であるぞ。余人がやたらに入っていい場所ではない!」

 騒ぎを聞きつけたのであろう、門の脇の扉が開いて下級役人が顔を出したので、鈴玉はその前に飛んでいってひざまずき、両手を胸の前で合わせた。

「私を官人にしてください。我が鄭家は寒門で、貧しさゆえに母は病を得て泉下の人となりました。学問だけが取り柄で世渡りの下手な父に代わって、私が働きたいのですが……。健康ですし仕事もできます、どうか官人としてお取立てのほどを!」

 喪服姿の少女の懇願に役人はぽかんとしたが、数拍おいて顔が赤黒くなった。

「馬鹿もの! 女が男の代わりになどなれるか! ましてや官人などと。それに、たとえそなたが男でも、親の喪中であれば官職につくことはできぬ。貴族であるという言を信じて今回は目こぼししてやるが、二度と現れるな! 帰って真面目に服喪せい!」

 けんもほろろな扱いで追い立てられ、さすがに気が強い鈴玉も背中を丸めてとぼとぼ帰路についた。熱のない陽光が、自分の惨めな姿を容赦なく照らしている。

 ──女が男の代わりになどなれるか! ましてや官人などと……。

「…………」

 先ほどの下級役人のめんを思い出し、さん色の唇をむ。

 貴族の中でも、「女子の才無きは便すなわれ徳なり」を旨として、女子に文字すら覚えさせぬ者は珍しくないが、父の鄭駿は鈴玉に学問の初歩を手ほどきし、尊重してくれた。なので、麟徳府の役所で受けたような仕打ちは初めてで、彼女にはひどくこたえた。

 ──男だったら……。なぜ私は、女になんて生まれてきたんだろう。

 運河の橋から水面を見下ろすと、まゆじりを下げた情けない表情の少女が映っており、鈴玉は顔をそむけた。おまけに、訳ありげな麻の喪服姿は嫌でも目立つ。往来の人々の刺すような視線を感じて、この世から消えてしまいたくなった。

 そこへ──。

「あら、鄭のお嬢さんでは?」

 かけられた声の方角を振り返ると、ふっくらした体つきで、にびいろの襦に露草色の帯をしめた女性の姿が目に入った。鈴玉の知人で、絹織物商人の奥方の氏である。

 実は亡き母が針仕事でわずかな稼ぎを得ているのを見て、鈴玉も家計の足しにしようと子守に出ていたことがあったが、その雇い主が呉氏というわけだった。

 働き始めた当初、鈴玉には仮にも貴族でありながら人に雇われることに対し、じくたる思いがあった。だが、意外にも仕事が長続きしたのは、ひとえに奥方の呉氏が鈴玉に優しかったからで、子守の合間に工房から届いた色鮮やかな反物を広げ、織物や服についてあれこれ教えてくれたり、菓子を包んでくれたりしたものである。

「こんなところでどうなさったの? 確かお母さまが亡くなられたと伺ったけれど」

「奥方さま……」

 鈴玉は恩人の姿を目にした途端、感情が心のうつわからあふれてしまい、しゃくりあげながら亡き母のこと、そして今しがた麟徳府の役所で起きたことを話した。呉氏は役所でのてんまつを聞いて朗らかな笑い声を挙げたが、相手が泣きべそ顔でしかも喪中であることを思い出したのだろう、「失礼」と小声で付け加えた。

「麟徳府のお役所で厳しい扱いを受けたのですね。でも、お父上に苦労させたくないと思う孝心から出たものゆえ、お役人も追い払いこそすれ、あなたを罰したりはしなかったのでしょう。それに、女が官位をもって身を立てることはできますよ」

「本当に? どうやって……」

 思いもかけない言葉に、鈴玉は涙でれた目をぱちくりさせた。

「ええ。お嬢さん、差し出がましいようだけれども──嘉靖宮の後宮に入るというのはいかが?」

「後宮、ですか?」

 呉氏はふくよかな顔をさらに丸くさせて頷いた。

「そう、入宮して女官になるの。必ずしも簡単ではないでしょうが、しっかり者のあなたなら立身出世できて、家門を復興させることもかなうでしょう」

「でも、私につとまるかしら」

 無謀なところがある鈴玉だが、「後宮」という未知の世界にはおじづいた。

「大丈夫。見込みは十分あると思いますよ。それにあなたの美しさをもってすれば、もしかしたら主上のお目にとまってちようあいを受け、側室に取り立てられることもあり得るわ」

 自分のようぼうを褒められて、鈴玉は面はゆい表情となった。

「それに、お父上はご立派な学者さまでも、生計を立てるのはお得意ではないご様子。だから喪が明けたら、女官の召募が行われる時にあなたが応じてみれば?」

 鈴玉のひとみに希望の光がともった。

 ──本当ね。あるじゃない、家門を再興させる手段が。

 主上だの寵愛だのという言葉は彼女にはぴんと来なかったが、女子の立身の道として、「女官」の一語は鮮烈な響きをもって聞こえた。それまでの気落ちはどこへやら、飛び跳ねるような足取りで帰宅すると、心配顔の父親が待ち構えていた。

「どこに行っていた? 近所を捜しても見つからないから……」

 娘から麟徳府の役所での出来事を聞かされた鄭駿は、半ばぼうぜんとしながらも、とがめなく帰されたことにあんしたようだった。

「いつもそなたの直情径行、猪突猛進を戒めているのに、よりによってお上をさわがせるとは言語道断。よく捕縛されなかったものだ……」

 だが鈴玉には、父親の𠮟責は耳に入っていなかった。

「何事も、まずは扉をたたいてみないことには、中に入れてもらえるかどうかもわからないでしょ。まあ、やっぱりお役人にはなれないとわかって悔しかったけど、でももう平気よ、お父さま。別の方法が見つかったの。私が必ず家門を再興させてみせるから」

 きっぱり宣言した彼女は、自信ありげに小鼻をうごめかせた。

「確か、私がお母さまに服喪する期間は足かけ三年ですよね、お父さま」

「あ、ああ。実質的には二年と少し……しかし、何を考えておる?」

「私、決めました。お母さまの喪が明けたら嘉靖宮に入ります。後宮の女官になるの」

 娘の決心に対し、父親は口をあんぐりさせた。

「女官って、鈴玉……跳ねっ返りのお前に女官勤めができるものか。いくら明君と賢妃のおわす王宮といっても、やはりもうりようそうくつには変わりない。追従に恐ろしいわな、陰謀に腹の探り合い、こくに拷問……お前が生きていけるとはとうてい思えん」

 鄭駿の仰天ぶりに、鈴玉はぷっとふき出した。

「お父さまのそのおつしやりよう、ずらずら並べ立てて、まるで市場の野菜売りの店先みたい。心配しすぎよ、額のしわが元にもどらなくなってしまうわ」

「誰のせいでそうなったと? それに親の心配をまぜ返すとは、何と不届きな……」

「だって、お父さまのお話は筋が通っていませんもの。王さまと王妃さまが本当に賢い御方であるならば、なぜ後宮は魑魅魍魎がばつしているの?」

 澄ました表情の娘を前に父親はまゆを寄せ、ため息をついた。

「それは恐れ多くも主上へのそしりになるゆえ、口を慎みなさい。そもそも、そなたには権力というものが、王宮の人間たちがどのようなものか、わかっていないのだ」

 鈴玉の顔には「納得いかない」と書いてあったが、父親は首を横に振るばかりだった。

「いかんいかん、いかに私が非力な親でも、娘がみすみす死地に赴くのを看過できない。お前がもし入宮しても、一月後には死体で出宮することになりかねん」

「でもこのまま手をこまねいていたら、我が家門は破滅の一途を辿たどるしかない。そうでしょう? お父さま。お願い、入宮を許して。きっと上手うまくやってみせるから」

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