第18話 二人は歩み始める

 扉の向こうの部屋は陰り始めた金色の装飾が施されており、差し込む光に照らされた最後の住人を神秘的に彩っていた。

 住人は持っていた本を机に置き、窓際から部屋の中央にある長机へ向かう。

「座って」

 ちょうど俺の正面に向かうよう座ったその住人…… 愛栖ちゃんは、座るように促してくる。

 彼女の正面のパイプ椅子を指差しつつ。

 俺はゆっくりと椅子を引き、座った。きし、という金属特有の文句を椅子から賜りつつ、体重を預けた。

「ごめんね」

 愛栖ちゃんは開口一番謝罪を口にした。

「謝るのは、俺の方だから」

 俺は彼女の目を見る。

 眼鏡越しの瞳は、今は俺を見ていない。

 自分と、オレの手を交互に見ている。

 まるで何かをシミュレートしているような、そんな動き。

 何往復かした後、目をつぶって頭を振る。……彼女の、強い否定のジェスチャーだ。

「私ね、全部欲しかった。今も、昔も、この先もずっと」

 何となく、意味はわかる。

「だけど、わがままだから。あの時はそれでよかったかもしれないけど、ちゃんと考えたら、ずるいな、って思った」

 彼女は、今日はじめて俺を見た。

 少し目が腫れてる。

 口を真一文字に締めて、俺を視線で射抜くように見つめてくる。

「ちゃんと保くんの気持ちを考えないで、私の思い出を自分で利用して、逃げられないようにしちゃった」

「ずるくない。本当の事を教えてくれて、嬉しかった」

 反射的に答える。

 もちろん本心だ。

 疑惑の上の真実ではあったが、どことなく「そうであってほしい」と思い続けたのも事実だ。

「でも、保くん迷ってる」

 鼓動が今一度強く鳴る。

 違う。

 迷っていることはあっている。

 けど!

「俺が、愛栖ちゃんを好きであることに、迷いなんてないよ」

 思わず熱くなって、机の上に置き去りになっていた彼女の手を掴む。

 ……冷たい。

 そして、震えていた。

 不安、悲しみ、動揺、決意。

 様々な感情がこの小さな手の中に、いっぱいに詰まっている。

 握った手に、力がこもる。

 その冷たさがふわりとなくなるころ、震えも止まっていた。

 それを感じて、ふと俺は思い出した。

 それは、あの幼稚園の時の事だ。

 泣きじゃくる愛栖ちゃんをなんとか泣き止ませようと、俺は彼女の前で色々なアクションに挑戦する。

 変顔したり。

 おもちゃを持ってきたり。

 歌を歌ったり。

 ものまねしたり。

 そうやって向けられた、俺だけへの笑顔。

 どんなに彼女が泣いていても、その笑顔が出るだけで嬉しかった。

 他の子がいくら頑張っても泣き止まないのに、俺がやれば笑顔になった。


 そうか。

 俺は。

 君の『特別な存在』になりたかったのだ。


 心は、澄み渡った空のように晴れやかになった。

 自分のなりたかったもの。それらが一つの線になって繋がる。ただひとつ。俺が行く先、もとになったもの、全部、彼女に繋がっていたんだ。

 迷いは、晴れた。 

「俺は、笑顔の愛栖ちゃんのそばにいたい」

 きょとん、と愛栖ちゃんは俺を見る。

「愛栖ちゃんが笑顔でないときに俺が笑顔にする。ずっと笑っていて欲しいから」

 少し俺を見る目が大きくなる。……驚かれてる?

「小さいときも、今も。もちろんこれからもずっ…… と?」

 俺の話を聞いていた愛栖ちゃんの顔が、焼きたてのお饅頭みたいになっていく。夕陽のせいだけではない。真っ赤っかだ。

 それで気がついた。

 ……これ、プロポーズじゃねーか!

 俺は体中の血液が顔面に登ってくるのを感じた。

 だけど、もうあとには引けない。

 なんなら引く気なんかない!

「ずっと、傍にいるから」

 僅かな間があいた後、愛栖ちゃんは改めて俺の手を握った。

「本気に、しちゃうよ」

 俺も握り返す。むしろ、もう離す気はない。

「もちろん」

「十年待ったからには、重いかも」

 涙を浮かべ、でも満面の笑顔がこちらを照らす。

「これから先の方が長いよ、きっと」

「喧嘩したり、不機嫌になるかも」

 今度は俺が笑顔をぐいと返す。

「ああ。その度に絶対笑顔に戻す!」

「私が遠くにいっても?」

 泣き笑い顔がさらに近づく。

「今度は追いかける! もう何も出来ない子供じゃない」

 俺も負けじと身を乗り出す。もう二人の距離は鼻が当たりそうなほど間近になっていた。

 そして、どちらからともなく目を閉じる。

 ほとんど隠れた夕陽が部屋に伸ばした二つの影が少しずつ近づき、いつしか一つに重なりあっていた。


 ◆◆  ◆◆


 既に空は紺色の絨毯が敷かれ、オレンジの帳が蒸発を始めていた。

 冬だというのに身体中が熱く、今なおふつふつと血潮が昂る。

「帰ろ」

 差し出される手。

 手袋もないその小さな手は、先程まで自分の手の中にあったものだ。

 だというのに、改めて野外で差し出されたその手を握るには、まだ勇気が出ない。

「ね?」

 彼女は少し困った顔をする。

 ああ、ついさっき宣言した自分の言葉が頭に甦った。もう曇らせるのか。

 意を決して、手を繋ぐ。

 また、彼女の笑顔が戻る。

 ……櫂が悩むわけだ。

 加奈ちゃんが喜ぶわけだ。

 恋人たちが外で堂々と手を繋ぐわけだ。

 こんな素敵な笑顔を、ずっと傍におけるなんて。

「おー、お二人さん。いま帰りか?」

 不意に後ろから声がかかる。

 もちろん…… 櫂だ。

「ああ。ちょうどね」

 なるべく平静を装う。そんなのは手を見れば一瞬で吹き飛ぶであろうことなのに。

 もちろんいっしょにいた加奈ちゃんが、すすすっと愛栖ちゃんに近づく。

 耳元でぼそぼそと何かを話すと、愛栖ちゃんが空いた手で親指を立てる。

 それを見た加奈ちゃんは、思いっきり愛栖ちゃんを抱きしめた。

「保」

 それを見た櫂も、俺のところにやってきた。

「おめでとう」

 くそ、色々と言いたいことはあるんだが……

「ありがとう」

 にやける顔面の筋肉を抑えつつ、それだけを伝えた。

 櫂はにやっと笑いながら、肩をバンバン叩く。


 その日、俺たちは数日ぶりに四人で帰った。

 当たり前は、当たり前ではない。

 いろんな人のたくさんの努力で、日常は成り立ってる。

 気が付かないだけで、そんな日常を支えてくれてるたくさんの人たちがいることを、俺は再確認した。

 今日だけは、愛栖ちゃんを家まで送った。

 既に、他の二人とは別れた後だ。

「ありがとう、送ってくれて」

 玄関の柵ごしに、愛栖ちゃんが笑う。

「どういたしまして」

「明日、晴れるかな?」

「夕焼けの綺麗な日の次の日って、降るらしいよ」

「じゃあ、迎えに来て」

「え? どうして?」

「……傘、二つもいらないでしょ」

「あ」

「ふふ。冗談」

 とと、と愛栖ちゃんがこちらに近づく。

「また、明日」

 小さな声と、柔らかな感触を残して、彼女は家へと消えていった。

「……帰ろ」


 ◆ ◆  ◆ ◆


「こんばんわ」

「うん」

「うん」

「だいたいは。それでいいかなって」

「一応、そう、できたら」

「……へへ」

「そうかな? 他にもいるよ?」

「うん」

「うん、そう」

「まあ、ね」

「ま、まだ高校生だよ!?」

「そりゃ、聞くけど……」

「えー、どうだろ」

「保くんはそんなこと……」

「はいはい! わかったからおわり!」

「うん」

「……うん」

「え、そうなの?」

「うん」

「うん!」

「わぁー、そっかぁ」

「はい」

「うん」

「わかった、そうする」

「し、ま、せ、ん!」

「そりゃ、まあ…… 万が一、ね」

「それはないし、絶対違う」

「はいはい。わかってますよ、美鈴さ……」

「ううん、おかあさん」

「ふふ」

「夢、だもんね」

「わかる」

「そう!」

「じゃあさ、お願いが」

「うん」

「あ、わかった?」

「まあーねー」

「わかった」

「はい、楽しみにしてます!」

「……おやすみなさい」

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