第14話 二人は紐解かれる

「座って」

 落ち着いた玄関より通された広い居間には、大きなテレビと向かい合わせに置かれたソファ、その間には木目を生かした意匠の机が置かれてあった。

 見慣れてるわけでは無いが、結構良家の調度品であると伺える。ウチのような量販店の机と大違いだ。

 俺は言われた通り座ろうとして、どこに座っていいか躊躇する。とりあえず一番目立たなさそうな三人掛けのソファの端っこに座る。

 うおっ、深い…

「コーヒーはミルク入れる? 砂糖は?」

「あ、あの、頼まれものを持ってきただけなので」

 なんとなく、居心地が悪い。

 何なら一刻も早く帰りたい。

 ものすごく悪い事をしている気がしてならない。

「ふふっ。じゃあ、両方用意しとくね」

 美鈴さんは手際よく用意してくれる。……だが、その道具は見たことが無い。

 アルコールランプのようなもので、縦に並んだ二つのガラス容器の下の部分を熱している。

 そこまで用意した美鈴さんは、戸棚から二組のコーヒーカップをささっと取り出して、ランプの近くに置くとこちらへとやってきた。

「ごめんね、少し散らかってるけど」

 それを言われて、俺はやっと周囲を観察できないほど緊張していることに気が付いた。

「え、あ、そんなことないんじゃないですか」

 というより、美鈴さんからしたら他人の家なのでは?

「ううん。まだまだ片づけないといけない本とかがまとめられてなくって」

 あ、そういえばここから美鈴さんの家にいくつか本を持ちだしているって話だったっけ。

「まだ運び出してないんですね、全部」

「まあね。特に妹の分は全部出さないと、邪魔で仕方がないし」

「妹さん、嫌いなんですか?」

 言葉の運びで聞いて、後悔した。

「嫌い。あの子は私の大切なものを平気で持ち出して、壊すまで返さない」

 突然、美鈴さんの声が低くなる。恨み、というだけでは足りない何かがたくさん混ざりこんだ、重い声。

 はあ、と深いため息の後、美鈴さんは続けた。

「無理やり離婚して、無理やり親権とって愛栖ちゃんを連れてきたくせに、自分は子育てせずに仕事先で男漁り。家にもほとんど帰らない。なんで結婚したんだ、なんで生んだんだ、ってうちの親と大喧嘩。ついに二年前に蒸発。今に至るわ」

 え、想像の遙か先の話になってきた。

「でも、おかげで和樹さんは前に進めるようになった。あの子が残したものの処分を任せてもらえたし、やっと踏ん切りも付いてくれたし」

「踏ん切り、ですか? 元奥さんの荷物の整理、とか?」

「それは副次的な踏ん切り。……簡単に言うと、和樹さんは昔、私の彼氏だったの」

 背筋がぞわっとする。

 え、俺こんな話聞いていいのか?

「顔、怖くなってるよ」

「あ、すいません!」

 取り繕おうとしたが、上手く笑えない。いや、笑う所でもないと思う。

「やさしいのね、愛栖ちゃんのお気に入りは」

「友達、です」

 からかわないでください、と言おうとして言葉が出なかった。

 彼女の両親とその家族で、こんなにドロドロした話が展開されているなんて。

「あ、でも愛栖ちゃんは私がお父さんの元カノとは知らないから、言っちゃだめよ」

 心臓が飛び出そうになる。

「な、何でおれにそんな話を?」

 話題を変えようにも、俺には美鈴さんとの接点が無さ過ぎて、会話の変えようがない。

「この間の続き、かな。愛栖ちゃんのお気に入りには、ちゃんと知っておいてほしいな、って」

「それ、シャレになってないです」

 アルコールランプがセットされていた容器からゴポゴポと音が出始める。それを聞いた美鈴さんは立ち上がって道具の調整を始めた。恐らくコーヒーと思われる黒い粒がガラス容器の中をぐるぐると踊っている。

「親権が和樹さんになってこっちで暮らすようになってから、愛栖ちゃんは少し暗くなったって聞いてたの。けど、ある日を境にちょっとずつ明るくなってきたって、和樹さんから聞くことができて本当に嬉しかった」

 空気が抜ける大きな音が響くと同時に、ふわりと嗅いだことのないコーヒーの香りが部屋に広がる。思わず視線がそちらへ向いた。

「あら。サイフォンは初めて見た? 和樹さんの趣味なの。私も覚えちゃった。最近はインスタントが多いから、道具なかなか手に入らないのよね」

「サイフォン?」

「コーヒーを淹れる道具のこと。好きなんだ。火を入れるのも、豆を挽くのも、こうしてカップに注ぐ瞬間も」

 美鈴さんはカップの容量を把握しているのか、澱みなく二つのカップに注いでいく。

 そのまま両手に一つずつカップを持って、こちらへ戻ってくる。

「昔、喫茶店でアルバイトしてたこともあってね。慣れたものよ」

 俺の前にカップを置き、自分は座ってそのまま一口飲む。ブラックか…… 俺はマネできない。俺は一緒に置かれたシュガースティックに手を伸ばすと、美鈴さんに声をかけられた。

「一口、そのままで飲んでごらん」

 え、と一瞬考えたが、ここは一つと飲んでみることに。

 手を伸ばし、口につける。と、飲む前に気が付いたことがある。

 普段は嗅ぐことのない、香ばしいコーヒーの香りがカップから立ち昇っていた。

 市販の缶コーヒーやインスタントでは嗅いだことのない、濃厚でシャープ、突き刺さるような苦みのある香り。

「いい匂いでしょ。豆から作るとそうなるの」

 俺はそのまま一口、舌に這わせるように口へと流し込む。

「んっ」

 今度は、口の中からその香りが広がる。そのせいか、苦い、という味よりも香りが勝って微妙な渋さを感じる。濃い日本茶を飲んでいる気分だ。

「お、いしい?」

「ふふふ、まだ早かったかな? 私が和樹さんに出会った時とおんなじ顔をしてる」

 先ほどと違う、とても柔らかな笑顔。

 俺にはその顔が、加奈ちゃんが櫂を見ているときと同じ雰囲気を感じた。

「私ね、結婚するの」

 急にコーヒーの味がしなくなる。

「旦那になる人は、今の仕事をきりのいいところで退職して、喫茶店をするって約束してくれた」

 すごく、嫌な予感がする。

「その人には娘がいるけど、結構もう何度も会ってて、それなりになついてくれているの」

 背中から汗が噴き出る。

 俺はコーヒーに注いだままになってた視線を、美鈴さんにゆっくり、ゆっくりと移す。

 その顔は、ニンマリとしたあの笑顔だ。

「びっくりした?」

「な、何の冗談なんですか、そりゃびっくりしますよ」

「本当の話よ?」

 笑顔を崩さずに言い切る。

 いつの間にかほとんどなくなっていたコーヒーを飲みほした美鈴さんは、空になったカップを机において話を続けた。

「私ね、すっごく後悔してるの」

 カップの取っ手を指に引っ掛けて、くるくる回す。

「和樹さんを妹に取られて。コーヒーの淹れ方すら満足に覚えられなくて。ああいていれば、こうしていれば。それでも、今こうして、やっと自分に素直になれて。手に入れたかったものに手を伸ばせるようになったの」

 俺はブラックのままもうひと口含む。今度は匂いが残ったままなので苦みだけが口に広がる。

「君は、今何かを後悔しそうになってる?」

「後悔、ですかね」

 なんとなく、進路のことを思いだした。

「後悔と言うより、自分が何になりたいか、少し迷ってますね」

「それは、私が聞いてもいい話?」

「……そのセリフは、少し前の俺のセリフです」

「これはこれは。失礼しました」

 俺は息を整える。

「小さい頃の体験で、最近までは声優になりたいと思ってました。高校を卒業したらそっちの専門学校や養成所に入って、そういう仕事をするんだ、って」

「ふむふむ」

「それが、つい最近になってふわっと『何か違うかもしれない』って思うようになって」

「なんで、最近になってそう思うようになった?」

 ……そう思うようになったきっかけ?

「最近、君の周りで何か変化があったんでしょ? 高校に入ってから違和感を感じたんじゃなくて、入ってから少しして思うようになったんなら、そう感じたきっかけがあるんじゃあないかしら」

 そう言われて、俺は入学してからの生活を思い返す。

 だが、それに至るイベントなどあれしかない。

「友人同士が、付き合い始めたくらい、ですね」

 好き、という物を強烈に意識し始めた時、だろう。

「じゃあ、君の声優になりたいというきっかけは、誰かを好きになったから、じゃない?」

 俺は気を紛らわせようと、そこそこぬるくなったコーヒーを一気に飲み干す。

「でも、それはかなり昔で。幼稚園とかそんな昔の話だし」

 否定しようとする俺の目を、美鈴さんはまっすぐ射貫く。

「人はね、誰かを好きになると、変われるの」

 心臓が、どくんと跳ねる。

「できなかったことができるようになるし、嫌いなものが好きになる。嫌なことが嫌じゃなくなって、よかったことが受け入れられなくなる。そんな奇跡の始まりを、『恋』って言うんだよ」

 どくん、どくんと胸が躍る。

 優しい言葉なのに、まるで和太鼓のバチで心臓を力いっぱい叩かれているような気さえする。

「幼い頃の思い出が、身近な人の恋に触発されて、思い出して、くすぶっていた思いが鮮明になった、とかね」

「つまり、俺も恋がしたいな、って思うようになったってことですか」

 ふと、逃げるように言葉を選ぶ。

 認めるのが怖いとかではない。間違っていたら困るからだ。そうであってほしいが、自分だけの独りよがりを相手に押し付けないために。

 だが、美鈴さんはその言葉を良しとしなかった。

「ダメだぞ。まずは自分が自分を認めてあげないと」

 生唾が喉をかきむしる。

 コーヒーを飲んだばかりだというのに喉が渇く。

「自分を無条件に信じてくれるのは、自分だけ。そこに嘘をつくから、苦しいし、辛い。それが取り返しのつかない状態まで放っておくのを『後悔』っていうの」

「後悔……」

「素直になれ、っていうのは難しいよ? 今の環境が大きく変わってしまう。関係が変わってしまう。でも、こう考えてほしいの」

 また美鈴さんが俺の目を覗き見る。脳の奥まで掻き回されているような感覚になる。

「君が望む未来を手に入れるためには、今必要なことは何だろう? それは、放っておいても手に入りうるものなのかな?」

「それは……」

 わからない。

 俺が将来何になり、どうしたいかがわからない。

 俺は申し訳なさげに視線を外し、机とにらめっこする。

 このままでいいのか、という漠然とした問いに自分自身が答えられず、将来の自分を思い描くことができなくなったという不安に、再度打ちのめされそうになる。

 答えを口にすることができないまま数分。

 どこかでドアの開く音がした。

「あら」

 そのまま足音が近づき、階段を下り、この部屋の隣まで来ると……

「伯母さん、いる? ……え、保くん!?」

 振り返ると、眼鏡をしていないパジャマ姿の愛栖ちゃんが、ドア越しに厚手の部屋着を羽織って立っていた。

「あ! ごめーん! 買い物に行くところだった!」

 突然美鈴さんが立ち上がり、そそくさとバッグを持って外へと向かう。

「へ?」

 買い物なら俺が……

「愛栖ちゃん、ちょっと保くんと待ってて。すぐ買ってくるから!」

 何物も寄せ付けぬ迫力で居間を抜けていく美鈴さんを、俺たちはただ茫然と眺めるしかなかった。

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