第11話ローマのパン屋さん(5)

プルプラ・スピーツォイ・セーモの三人は、リンコと再開をしたことで毎日の暮らしに明るさを取り戻した。3人は古代ローマに転生してから、示し合わせたかのように故郷ヴィヴィパーラのことを話さなかったが、リンコが現れたことでときどき昔話をするようになった。


リンコの言葉は地球の人間たちには理解されることはない。ただニャーニャーといった”鳴き声”にしか聞こえないのだ。3人の天使たちはそのことを知っていて、周囲に人間がいるときにはリンコに対しての態度を変えた。


リンコはパン屋の主人デキムスの寵愛を受けた。むしろ3人の天使たちよりも可愛がられ大切にされた。ローマではパン屋だけではなく多くの飲食店・市場・穀物倉庫、その他の有機物を扱う場所でネズミが悪さをしたし、あるときには伝染病の媒体となって市民の平和を脅かすことがあった。ネズミは不幸の源であり、それを退治してくれるリンコが重宝されるのは当然だった。


リンコのネズミを狩る技術は地球産のどの猫よりも優れていた。その噂はローマ市に広く知れ渡り、デキムスはときどき自慢気にリンコを街に連れて行って知り合いに見せびらかして悦に浸っていた。行く先々で歓迎を受けて食べ物をもらったりしたので、リンコの方もまんざらでもないようだった。


3週間もするとリンコはパン屋の近隣のネズミをほとんど駆除し、ローマ市のネズミは絶滅に近い状態になっていた。最近ではすることもなくパン屋の敷地内をぶらつき悠々自適の毎日を送っていた。リンコがもっぱら好きな場所は、やはり3人の天使と優しい女たちがいるパンこね場だった。


その日もパンこね場では、いつものように3人の天使たちが女たちに溺愛されながらお遊戯のような仕事を言いつけられていた。天使たちは雑用係であり、またその雑用も本来必要のない仕事だったが、それでも女たちの心を癒やすことには役立っていた。そこにリンコが加わり、パンこね場はより明るい職場になっていた。


───パンこね場のドアのない出入り口にドスドスと人が近づく音が聞こえる。あの足音は間違いなくデキムスのものだった。



「おはよう!みんな元気そうだね!」


いつものデキムスの挨拶だ。3人の天使たちは「おはようございます!」と元気な返答をしたが、女たちは視線をこねているパン生地から外さずに適当に返答した。


「今日は人手が足りなくてね、その子達の中から1人こっちに回してもらいたいんだが…」


デキムスがそう言うと女たちは大きな災難にでも遭ったかのように大げさに落胆の声を上げて抵抗したが、セーモが「僕行きます!」と言ったので、今度は我が子を戦場に送る母親のようにセーモを心配し、次々とセーモを抱き寄せてキスをした。


デキムスはその一連の流れを白けたような顔で見ている。


一通りの儀式が終わるとデキムスがセーモを連れてパンこね場から出ていった。



デキムスが中庭に続く廊下を歩きながらセーモに言う。


「今日は流行風邪で3人ほど若い男たちが休んでいてな、人手が足りないんだ。今日は小麦屋のポッピリアが来るんだが小麦の重さを測るのを見張っていてほしいんだ」


「見張る?」


セーモが不思議そうに聞き返す。


「ああそうだ見張るんだ。”誤魔化さない”ようにな。ポッピリウスはニコニコして愛想はいいが油断のならん奴だ。目を離すと納める小麦を誤魔化しちまうんだ。小麦が正しく納められているか見張っておいてくれ」


セーモはデキムスの説明を聞いてもやはり理解できなかったが、とりあえずは「はい」とだけ答えて中庭まで歩いた。


中庭に行くとすでに小麦屋のポッピリウスが馬車の幌を外しているところだった。デキムスが近づいて挨拶を交わし、楽しそうに談笑している。その話の内容はおもに流行り病のことで、”小麦”のことには一切触れることはなかった。


その様子を見ていたセーモは不思議な気持ちになった。さっきまでデキムスはポッピリウスを信用していないようなことを言っていたのに、今目の前では親友のように接している…


「今日はこの子が仕入れの担当だ。セーモだ。知っているだろ?」


「ああ、可愛い3人組の1人だね。よろしくな、セーモ。小麦の量を間違えないように確認しておいてくれよ」


ポッピリウスはいつもの愛嬌のある言い方でセーモに挨拶をし、自分の馬車から降ろした大型の竿秤で小麦の袋を測り始めた。


「ここに袋の数を数えて記していくんだよ。竿秤が平行になるのをちゃんと確かめてな」


デキムスがそう言うとセーモに二つ折りの書字版と尖筆を手渡し「じゃあしっかりとやるんだよ」とその場を立ち去った。


ポッピリウスは、プルプラやスピーツォイは元気かとか、生活にはの慣れたかとか、猫のリンコは元気かとか絶え間なくセーモに質問をしながら小麦袋を竿秤にかけていった。セーモは竿秤の天秤棒が平行になったときに書字版に尖筆で袋の数を付けていく。

ポッピリウスは小柄だがずんぐりとした体型でとても力が強く軽々とスピーディーに小麦袋を計測しては、移動車のついた台座の上に山積みにしていった。


30分もすると台座は小麦袋でいっぱいになり、ちょっとした小山が出来上がっていた。ちょうど小麦袋の計測が終わった頃にデキムスが中庭に現れた。


「そろそろ終わったかい?ちゃんと契約分の小麦はあったかな?とセーモが持っている書字版を覗き込んだ」


しばらく書字版に視線を落とし小麦袋の数を確認すると、安心した様子でフーッとため息をつく。


「全部で120袋で間違いないな…」


セーモがすぐに「はい」と返事をする。



「では、1袋30リブラ(約9.9kg)だから合計で3600リブラ(約1200kg)になるな」


デキムスがそう言いながら手に持っていた革袋から代金を出そうとし、ポッピリウスが深く相槌をうち馬車に戻って帰り支度をしようとしたとき、セーモが口を開いた。


「違いますよ、デキムスさん…120袋ですが全部で3240リブラ(約1065kg)しかありませんよ」


セーモのその言葉にポッピリウスは硬直して動きを止め、デキムスは目を見開いて険しい表情を作った。


「なに?どういうことだセーモ。120袋あるっていったじゃないか?なら全部で3600リブラだ。あ、計算ができないのか?ほんとうにだめだなお前は…」


デキムスはそう言うとがっかりして肩を落とす。


ポッピリウスはソワソワした様子でデキムスとセーモに声を裏返らせて言った。


「い、いや、計算できる子なんてそうそういませんや。勉強して覚えていかないとね。ちょっとずつ覚えていけばいいさ」


ポッピリウスの様子を見ていたデキムスだったが、どこか不審に感じて小麦袋が置かれた台座に向かって黙って歩み寄った。そして小麦袋を1つ掴んで竿秤にひっかけ、改めて重さを計測した。

 計測した後にデキムスは首をかしげて小麦袋を両手で抱える。


そしてまた上下に揺さぶり重さを確認してまた首をかしげる。


それからデキムスはおもむろに中庭の壁に向かって歩き、そこに置いてあるパン屋の天秤ばかりを持って戻り、同じ袋を計測し始めた。


ポッピリウスは額には汗をにじませ青ざめている。


デキムスは注意深く天秤棒で計測し、一度首を横に大きく振り、天秤棒を地面のドサッと落として立ち上がった。


「おい、ポッピリウス。これはどういうことだ。1袋30リブラあるはずなのに27リブラしかないじゃないか!?」


デキムスの声は太く批判的で、これまで聞いたことがないような怒りの感情が含まれている。ポッピリウスは後ずさりしながら「あっ、あっ…」と言葉を詰まらせ、その緊迫した雰囲気にセーモも身体が硬直して動けなくなった。


「おーい!みんな来てくれ!男たちはみんなこっちに来るんだ!」


デキムスが戦場の司令官の口調で中庭中に響く声で号令をかけると、建物からぞろぞろと男たちが姿を表す。その異様な雰囲気を察知して、パンこね女や店番をしていた女たちも様子を見に来た。


「この小麦の山をもう一度全部測り直すからみんな手伝うんだ!」


プリニウスが陣頭指揮をとって、みんなにパン屋中の竿秤を持ってこさせた。


男たちは一度建物の中に戻ってそれぞれの手に竿秤を持って戻り、小麦袋の計測を始める。男たちは無言で作業し、そして次々に声を発する。


「27リブラです!」

「27リブラしかありませんよ!」

「30リブラ入ってません!」


その様子を見ていたポッピリウスは観念したのか、うなだれた首を両手で支えている。


デキムスは1人の男に言付けをし、パン屋の外に走らせた。しばらくするとトガ(高級衣服)を着た役人と剣で武装した従者が5人やって来てポッピリウスを拘束して連行してパン屋から出ていった。



物々しい雰囲気にセーモは涙を浮かべてどうすることもできずに立っていた。

 自分が何気なく発した指摘が想像以上に大変なことになってしまったからだ。

 

 デキムスが恐れに縮こまっているセーモに向かって言った。


「よくやったぞ、セーモ!どうやってあのインチキを見破ったんだ?前から怪しいと思っていたが、証拠をつかむことができなかったんだよ」


セーモが涙を拭きながら小麦袋が積まれた台座を指さして答える。


「だってあれどうみても3240リブラしかないよ…」


セーモのその答えをデキムスは理解することができずに、呆けた顔をしている。


 しばらくしてもう一度聞き直した。


「あの小麦袋の山を見て重さが分かるっていうのか?セーモ?」


「分かるよ、だってどうみても3240リブラだもん…」


デキムスは身を見開き側にいたプリニウスと顔を合わせてる。それから中庭に繋いである馬を指さして尋ねた。


「じゃあ、この赤毛の馬の重さは分かるか?」


「939リブラ(325kg)…」


 セーモはためらいもなく即座にそう答えた。


デキムスは馬の健康維持のために体重を測定していたので、その質問の答えを知っていた。そしてセーモはまたも正解したのだった。


デキムスは自分がその重さを知っている、中庭にあるものを次々と指さしてセーモに質問を繰り返す。


水桶・レンガ・石臼・馬車の車輪・塩袋…そしてデキムス自身の体重。


セーモはそのすべてを瞬時に答え、何食わぬ顔をしている。


 デキムスは一昨日測った自分の体重を当てられたときにそのジャガイモみたいな顔を高揚させて大騒ぎを始めた。



「こりゃ凄いぞ!みんな聞いてくれ!ここにいるセーモは物の重さを見ただけで当ててしまうんだ!天才だぞこりゃあ~」


大げさに騒ぐデキムスに反して、セーモはいったいなにを褒められているのか理解できずに突っ立っている。


その騒動を聞きつけてパンこね場からプルプラ・スピーツォイも飛び出してきた。


プルプラとスピーツォイはセーモに駆け寄って「どうしたの?」と聞いたが、まったく状況が理解できていないセーモは説明することもできずにもじもじしている。


「よし!今日からセーモは仕入れ番を担当してもらう!こいつは凄いぞ!」


デキムスはそう叫びながらセーモを抱きしめて大喜びした。セーモは驚いたがデキムスの勢いに反応もできずになす術ない様子だ。


プルプラとスピーツォイはセーモよりもさらに理解していないが、とにかくデキムスは嬉しそうだし、セーモが褒められていることは分かったので、悪い気分ではなかった。


2人は訳もわからないままデキムスに釣られて笑い、拍手をしてセーモを称えた。






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