第11話『悪魔に魅入られた者』

「よかったね。美鈴さんが運よく箱根にいてくれて。」

 窓の外を見ると、バケツをひっくり返したような豪雨がうなりを上げていた。箱根の地からの脱出を許さないような、そんな豪雨だった。

「あぁ、そうだな。」

 俺は頷くことしかできない。姉は、美鈴はなぜ箱根にいたのか。隣に立っている男は彼氏なのか。問いただそうとしても、タイミングがイマイチ合わない。偶然か、はたまたワザとなのか。

「悠君。とりあえずお風呂行こよ。私たち、ここに来る間にも少し降られちゃってるからさ。」

「あぁ、そうだな。」

 俺が適当に相槌を打つと、彼女は風呂へと向かった。俺も風呂へ向かおうとするが、イマイチ足が動かない。今の悩み事も全て、この雨が流してくれないだろうか。そんな無責任な考えが俺を捕らえて放さない。

 幾分か時間が経ち、雨も落ち着いてきた頃。俺は宿の大浴場へと足を運ぼうとしたその時、こちら側へ向かってくる足跡と声があった。姉の声。サッと身を隠し、もう1つの声の主を探る。

「ごめんね。折角付き合ってもらったのにこんなことになっちゃって。」

「大丈夫ですよ、美鈴さん。まさか悠君が妹と一緒に箱根に来ているとは思いませんでしたけど。僕自身、美鈴さんとあまり公にデートができないのが悔しいですけどね。」

 そうか、やっぱりそうだったか。姉が一緒にここに来ていた相手は間違いなく、彩乃の兄。栗原隼人だ。しかもデートと言っていたところから察するに、やはりあの2人はそういう関係なのだろう。

 受け入れがたい事実を知ってしまった今、俺は逃げるようにその場を立ち去る。もちろん、その後の風呂の湯加減など、覚えているはずもなかった。


 部屋に戻り鍵を回すが、そこに重さは一切感じられない。彩乃が先に戻っているのだろうか。中にある障子の奥にいたのは彩乃ではなく、美鈴だった。どうやら彼女も風呂上りなようで、浴衣の下から白い肌がのぞいている。

「お邪魔しているよ、悠。お風呂はどうだった?ここの宿かなりランク高いし、気持ちよくなかったってことは無いと思うんだけど。」

「別に。特に何も感じなかったよ。」

 あんなことがあって、気持ちよく入っていられるわけないだろ。という言葉をぐっと飲みこんで、そっけなく答える。

「なんかいつもと態度違くない?怒っている?」

「別に。」

「私が隼人君と歩いていた理由が気になる?」

 美鈴はいきなり身体を詰めてくる。突然のことに、思わず体勢を崩した。尻もちをつき、背中が障子にぶつかる音が響く。彼女は俺の前に膝をつき、肩に手を置いてきた。押し倒された形になる。

「なんで、そ……」

 そこまで言って、俺は言葉を発するのをやめた。いや、正確に言えば、言葉を発することができなくなった。眼前には姉の、見惚れるくらい整った顔立ち。目こそ閉じられているが、まつ毛の1本1本まで鮮明に見える距離。少しはこの距離でも見慣れたと思った顔だが、あの日の姉の言葉と表情を思い返してしまうと、決して冷静なままではいられなかった。彼女に対しての想いが、怒りが、嫉妬が、葛藤が次々と襲ってくる。

――なぜ俺のことを好きと言ったのか。

――なぜ他の男と歩いて平然としていられるのか。

――なぜ他の男と付き合っているのに俺に告白したのか。

――なぜその男があのチャラいあいつなのか。

――スペアというのは、俺が姉の彼氏のスペアということなのか。

 そしてなんで。どうして俺はこんなにも姉のことを好きになってしまったのか。

 もう後戻りはできないほどに、彼女に心を奪われてしまっていた。

 

 数多くの……

「数多くの、処理しきれない感情が襲ってきている。って顔してる。キスしてるときの唇も震えてたよ。」

 そう言って笑った顔は、いたずらっ子のような無邪気と、悪魔のような邪気を纏っていた。きっとこの雰囲気に魅入られた者は確実に、破滅の道へと向かうのだろう。それをわかって尚、俺は彼女の顔から眼をはなすことができなかった。

 そうして俺はまた、全ての感情を追い出す代わりに、彼女の舌を受け入れたのだった。ここがどこかを、考えることもせずに……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る