第7話『私、スペアでいいから。』

 姉が立ち去った後、彩乃は気まずそうにしていた。そう見えた、の方が正しい。しかし、それもそうだろう。幼馴染の姉(この場合は彼氏の姉と言うべきだろう)との久しぶりの対面で、自分の痴態を晒したのだ。正式に挨拶もしていないこの状況では、姉の彼女に対する印象は駄々下がりになってもおかしくない。

 そして、俺も大概ではない。一時とはいえ姉に心を許した身だ。実に不誠実であり、残酷な行為を姉に晒してしまった。激しい罪悪感と自身に対する嫌悪感の感情が渦を巻き、その闇に俺を引き摺り込む。だが、俺はそこから逃れる術もなく、またその資格もなかった。

「今日は帰った方が良さそうだね。また明日、学校で。」

「じゃあ。」

 彩乃は身支度を整えると、そそくさと家を出てしまった。静寂のみがそこには残っていた。もうすっかり陽は落ち、辺りは暗闇に包まれている。電気を消し、完全に真っ暗になった部屋。そこで一人罪悪感に押し潰されそうな俺。どうすればいいかわからなかった。姉を追っても何を話せばいいのだろう。かと言って、追わないのは違う気がする。

 悩んでいると、姉が帰ってくる音がした。

「姉さん。」

 呼び止めようとしたが、声が出ない。姉はこちらをチラ見すると、すぐに自分の部屋に帰ってしまった。何も言われない方が逆に怖い。

「待って、姉さん。話しがあるから。」

 許しを乞うように、俺は姉を呼び止める。このままでは、姉と一生話すことが出来ずに離れてしまうような気がした。

 姉は振り返る様子もなく、階段を登っていく。

 「待ってよ。」

 お願いだ。一度でいいから弁明をさせてくれ。

 必死に階段を駆け上がったが、登り切った時には部屋のドアはぴたりと閉ざされていた。

「頼む。話を聞いてくれ。」

 話なんてなかった。何を話していいかも分からない。ただ……ただ縋るように姉の名前を呼び続けた。

「なんでよ……彩乃ちゃんと付き合っているなら、私に構う必要なんてないじゃん。別に謝る必要だってないじゃん。」

 ドアの向こうから返事が来る。今にも消えそうな、震え声だった。

 そして、その声に反論できるだけの十分な理由を俺は持ち合わせていなかった。

 ――いや、嘘だ。

 十分に反論できる理由を俺は持っている。

 だがそれは、認めてはいけない気持ちを認めることになってしまうことと同義。世間的に見ると最悪の選択となってしまう。彼女がいるにも関わらず、姉に恋をして浮気をする男、というレッテルが貼られてしまうのだ。

「知ってる。どうせ姉だからって敬遠してるんでしょ。実の姉だから好きにはなっちゃいけないって思ってるんでしょ。分かってる。悠は空気を読むのが本当に上手。昔からずっと……」

 どうやらうちの姉に隠し事はできないらしい。何かしようとする度に全部当てられてしまう。だから俺は、本音を言うことを決心した。

「俺は確かに、世間の目が怖い。浮気しているなんてバレたら俺だって姉さんだって終わりだ。ましてや姉さんは作家として世の中に名前が知られている。そんな人が彼女持ちの弟の浮気相手なんて言ったら売上ガタ落ちどころじゃないよ。それに……姉のことが好きな弟なんて世間から見たら異常だもん……」

 部屋の中でガタリと音がした。何をしているのか皆目見当もつかなかったが、すぐに結果はわかった。

「悠、少し歩こう。」

 扉の向こうにいた姉は小悪魔の顔をしていた。小悪魔に手を引かれるまま、俺は家を出る。その手を振り払えない俺もまた、悪魔の仲間になるのかもしれない。


「やっぱり外は冷えるねぇ……」

 いくら夏とはいえ、9月も中旬に差し掛かっている頃だ。少しの湿気を残しつつ、季節は秋を迎えようとしていた。

 姉は自分の手で器を作り、その中にはぁっ、と息を吹き込む。手を擦り合わせると、ふいに俺の手を握った。

「これならあったかい。色んな意味で……」

 俺は姉の掴んだ右手に神経を集中させる。彩乃とはまた違う、細くて華奢な指だけど俺の手の中でしっかりと存在を主張していた。

「なんか喋ってよ、悠。私ばっかりさっきから話しているじゃん。」

 今のこの状況を受け入れるのに時間がかかっていたためちゃんとは聞いていなかったが、どうやら姉はずっと最近のことを話していたようだった。

「ごめんごめん。でも何話したらいいか分からなくて……」

「まぁ、いきなり連れ出したのは私だからね。いくらなんでもワガママか。」

 そう言ってはにかむ姉。外に出てから俺たちは、一切本題には触れていない。少なくとも俺は、どのように話を切り出せばいいのか分からないのだ。

 

 しばらくの沈黙の後、姉がいよいよ口を開いた。

「それ……でさ……あの話なんだけど……」

 暗闇の中、唯一街灯で照らされた空間でお互いの足が止まる。まるで世界中のスポットライトが全て俺たちに向けられているように思えた。

「私は、悠と一緒に、いたい。これからも。この先も。姉と弟だけの関係は、嫌。」

 息を吐き、俯いてた顔を上げ、姉はさらに続けた。目が合った時に見えた瞳からは、強い決意を感じる。

「でも私から悠に強制はしない。だって、悠には彩乃ちゃんっていう彼女がいる。無理に奪い取るなんて面白くないじゃない。

だけど、悠は彩乃ちゃんと常に一緒にいるわけではない。だから私はそういう時のスペア。これなら彩乃ちゃんにもバレずに付き合えるよ。

あっ。もちろん、悠が認めてくれるまでは姉でいる。私と関係を進めたくなった時の保険だと思ってくれていい。

 でも最後には、絶対に私の事選ばせるから。」


 そう言って俺の頬にキスをした姉は、先に1人で家に帰ってしまった。その後自分がどうしたか分からないほどには、俺の頭は真っ白になっていた。

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