Op.1-4 – Hanon

 結城家が住む13階建てのマンション『どりーむりん』は平日は朝10時から19時まで、土日・祝日は13時から19時まで楽器の演奏が許可されている。更にマンションの管理会社からは可能な限り各家庭で防音対策を施して欲しいというむねが伝えられている。


 約5年前にこのマンションへ引っ越してきた際、父・和真が練習部屋に防音材や吸音シートを貼るなどして可能な限り防音対策を施した。また、アップライトピアノには演奏可能時間外であっても練習が続けられるように消音機能を追加した。


 当初はHAYAMAの最もグレードの高いグランドピアノ・AFシリーズを購入する予定だったが、楽譜を収納する棚のスペースやその他機材のスペースが確保出来ないことから断念した。

 グレードを落とした小さめのグランドピアノも検討したが、それならばアップライトピアノでありながら最上級グレードのコンサートグランドピアノである『AFX』と同等のハンマーフェルトやトーンエスケイプを採用し、アップライトピアノでありながらグランドピアノの音質に迫るHUSシリーズにしてスペースも確保出来るようにしようということになった。

 HUSシリーズでも最もグレードの高い『HUS5』を購入し、更に消音機能を付けた為に高価格で170万円ほど費やした。それでも結城夫妻は娘が時間を気にせず楽しそうにピアノを弾いている姿を見て後悔することはなかった。また、半年に1回調律に来る福田ふくだ 由伸よしのぶにも「調律し甲斐がある」とまで言わしめる光を寧ろ誇らしく思っている。


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「光、ドア開けたままにしててよ」


 娘がピアノ部屋のドアノブに手をかけたのを見て私は呼びかけた。


「お母さんも光がピアノ弾いてるの聴きたいわ」


 娘は私の言葉を聴いて、一瞬何やら考え込んでから私の方を振り返って返答してきた。


「良いけど、ハノンとかやるだけだから作業的で飽きちゃうと思うよ? 変わり映えしないやつだし」

「それでも良いわよ。平日のお昼からピアノの音が聴こえるのって珍しいじゃない」

「変なの〜」


 そう言って娘は再びドアノブの方を向いて扉を開けた。


 キッチンからリビングは一望できるようになっている。最奥にはベランダがあり、それはキッチンから見て左側の光の部屋から右側の練習部屋までに及ぶ。私はテーブルに着いてコーヒーを飲みながら光が部屋の中へと入っていく姿を見つめる。


 扉は部屋の右端に設置され、少しスペースを空けて奥からアップライトピアノが設置されている。その反対側にはベランダが広がる。


 光は部屋に入ってアップライトピアノの正面に立つと鍵盤蓋を開けて定期的に鍵盤用クリーナーで手入れされている綺麗な88鍵盤を露出させる。その後、ピアノの足下に置いてある小さな本棚から『全訳ハノンピアノ教本』を取り出し、譜面台に乗せる。


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 ハノンピアノ教本、通称"ハノン"はフランスの作曲家であるCharles-Louis Hanon (シャルル=ルイ・ア(ハ)ノン)が1873年に出版した練習曲集で指の訓練に特化した内容となっている。

 ハノンは3部構成となっており、第1部では主にそれぞれの指を独立して動かせるようになることを目的としている。第2部では音が少し複雑となり、更に音階練習が行われる。音階は全調。半音階やアルペジオも含まれる。第3部では『最高のテクニックを得るための練習』として単音の同音連打、3度やオクターブでの連打や音階、3度のトリル、分散オクターブの音階などが行われる。


 光は帰宅時間や学校の課題、予習などに割かれる時間を考慮してハノンの練習曲全てをみっちり練習する時間はないと判断し、第1部と第2部は1回通す程度、第3部を重点的に練習する。特に光は3度での演奏に課題が残るためそれを中心に練習を行う。


 ハノンは16分音符がひたすら並べられており、それを弾き続けることを要求される。そのため目的意識を持って取り組まなければ只の作業となってしまい、ハノンを練習する必要性が損なわれる。

 光は華奢な身体と同様に指も細く、非力である。そのためハノンの反復練習を通じて鍵盤の押し方や力の入れ具合と抜き方、鍵盤の位置の感覚、そして鍵盤に対する余裕を生み出そうと努めている。そしてそれらは音の粒を揃えることへと繋がる。


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 娘は背無し椅子に座ると冷えた指を少しだけ温めた後に「ドミファソラソファミ……」とお馴染みのフレーズが始まる。まだ指が本調子でないことを考慮してか、いつもよりテンポを遅めて弾いている。

 いつもならば教本の指示通り、1番が終わった後に止まることなく2番へと進むところを光は1番を弾き終わると1度演奏を止めて1音目であるCの音を一定の間隔でゆっくりと全ての指で何回も押し込む。


「いつもと感覚違う?」


 私はテーブルから光に尋ねた。


「うん、指冷たい」


 光は私の方を見ないままに答える。光は小さい頃から自分の身体の感覚に関して敏感な子であった。少しでも違和感が生じたら自分の中での感覚との差異を埋める作業を行う。この鍵盤1つ1つをゆっくりと全ての指で押し込むある種の儀式は特に冬になるとよく見られる光景である。


 この話を聞いて野球経験者である夫は前に「ピッチャーみたいやね」と少し笑いながら話していた。彼曰く、ピッチャーはその日の調子によってリリースポイントの位置がずれるという。一流の投手になるほどブルペン投球や試合中にこの差異を修正しながら試合に臨むらしい。野球をよく分かっていない光は首をかしげていたが、何となく理解しているようだった。


 見ている者からすると全くもって楽しみを見出せないこの単純作業を光は20分ほど続けた後、再びハノンへと向き合った。


「(変わるな……)」


 私は心の内で次に光がピアノに触れる瞬間、音が劇的に変わると確信した。


––––ド……


 最初の1音目から先ほどとは明らかに音の輝きに違いが生じていることが聴いて取れた。そしてテンポも打って変わって速く一定に進む。

 光はピアノを弾いている間、じっと鍵盤を滑る自分の指を見つめている。これは運指に間違いはないのか、鍵盤の押し込み方の安定性や指に無駄な力が入っていないかを確認している。


 光本人は「作業的で飽きる」という言葉は本心から出た言葉に間違いないだろうが、ここまで音に変化が生じると素人ながら面白いと思わざるを得ない。今日は昼過ぎに帰宅したことでいつも以上に入念にハノンに取り組むその姿を見ながら我が娘に感心してしまう。


 光はそのまま第3部の超絶技巧を身に付けるための練習へと移った。



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