Book 1 – 第1巻

Op.1-1 – She

「えっ?」


 正門を出て右に曲がって真っ直ぐ歩き始めたところで幼馴染みの広瀬ひろせ 明里あかりに声をかけられた結城ゆうき ひかりは透き通るような声で聞き返した。


「文化祭のクラス合唱!」

「あー」


 光はバツが悪そうに曖昧な答えを返す。それと同時に大きくパッチリとした目を少し細めて正面から吹く冷たい風を鬱陶しそうにしながら顔をしかめる。

 

 光と明里が通う福岡県鶴見つるみ高校では毎年3月中旬に2日間に渡って文化祭が開催される。

 1年生は各クラスで教室展示、2年生はクラス合唱、3年生は全体合唱が行われ、他にも部活動のパフォーマンスや特別参加団体のパフォーマンスとしてオーディションを受かったバンドの演奏などが行われる。


 開催まで約1ヶ月を迎えた今日、後期期末考査の最終科目を午前に済ませた後にクラス委員長である佐々木ささき まことと副委員長である明里を中心としてクラス合唱に関する話し合いが行われた。議題は歌う曲、指揮者、伴奏者、そしてパートリーダーだ。


「光、何で伴奏者に立候補しなかったと?」


 明里は風で乱れた光のショートボブを手ぐしで優しく直しながら尋ねる。


「……」


 答えようとしない光に対して明里は少し溜め息をつき、光の髪から手を離して今度は自分の髪へと手を運ぶ。そのまま一つ結びにしてあるゴムをほどくと彼女のミディアムヘアーは解放された喜びを表すかのように肩一面に広がる。長時間縛られていた髪は少しバサついているものの艶やかで毎日丁寧に手入れされていることが窺える。


「私が指揮やれば光が立候補してくれると思ったんやけどね〜」

西野にしの君が手挙げたから良いやん」


 明里がクラス全員に向けて伴奏者の立候補を募ったところ、数分の沈黙の後に西野にしの 浩太こうたがゆっくりと手を挙げた。他に立候補者が現れなかったことでそのまま西野がピアノ伴奏を務めることで決定した。


「光がやった方が絶対えるやん? 見た目的にも演奏的にも」

「そんなことないよ。西野君上手だし。それにほら、男子でピアノ弾ける人そんなおらんからえるよ」

「そうかいな……」


 明里は明らかに含みを持たせた返事をする。


 理由は2つある。

 1つは単純に光の見た目だ。クラスで目立つことを嫌う光だがそれを許さない程の容姿を持つ。白い肌にぱっちりとした大きな二重の目。その長いまつ毛は手を加える必要がない程に整っている。目立たないようにしていることが逆に周囲の彼女への興味を引き立ててさえいる。


 明里はクラスメイトの中で噂話が大好きな一部生徒たちが稀に光について話をしているのを耳にしている。『モデルにスカウトされたらしい』だとか『とんでもないお金持ちの娘らしい』だとか根も葉もない内容で呆れるものばかりだが、それは光への高い関心を示している。その度に明里は彼らに対して軽い優越感に浸る。何故なら光のことをこの学校で一番に知っているのは紛れもなく自分であるからだ。 


––––そしてもう1つ


「指揮が私で西野が伴奏って組み合わせ中学の時にもあったやん?」

「うん。名コンビ再びやね」

「そういうの良いったい。西野、毎回テンポがバリ速くなるんよ」


 光は赤信号の前に立ち止まりチラッと明里の表情を見てすぐに正面を向き直り、冷えた手を数回こすった後に4回、一定の間隔で息を吹きかける。


「緊張するんやない? まぁ、しょうがないやん。それにほら、中学の頃より上手になっとるかも知れんよ?」

「……だと良いんやけど」


 明里はこれ以上何を言っても無駄だと悟り、言葉を切った。


 2人は信号が青になったのを確認して横断歩道を渡り始める。鶴見高校の正面を通るこの大きな通りは『甲鶴通り』と呼ばれ、2人はこの大通りに沿って徒歩で登下校している。


 時間は正午前。恐らくは昼休憩であろうスーツを着たサラリーマンたちが数名、牛めしチェーンである松木屋に入店していくのを見かける。また、大学生らしき若い集団がその先にあるラーメン店『八蘭』に入っていく。

 

 その八蘭の前を横切る『中井なかい商店街』の前で2人は信号待ちの為に立ち止まる。


「あ、光、なっちゃん万十食べる?」

「んー、帰ったらすぐお昼ご飯だろうからいいや」

「オーケー」


 全国各地にある多くの商店街がシャッター通りと揶揄されるほど活気がなくシャッターが下りた店舗が目立つ中、中井商店街は非常に活気立っている。中井商店街には雑貨屋、家電店、衣料店、医薬品店、居酒屋などの店が並び、大体のものはこの商店街で買い揃えることが出来る。加えてこの中井と呼ばれる街は住宅街かつ学生街である為に幅広い年齢層が利用することもこの商店街の特徴の一つである。

 

 中井商店街の最奥にある『なっちゃん万十』は地元の住民から愛されているたい焼きのような焼き饅頭である。学生たちは下校時によくおやつとしてこの『なっちゃん万十』を買い食いしている。光と明里の2人もその例外でなくたまに下校時や休みの日に寄っている。


 2人は中井商店街を横断し、そのまま真っ直ぐに突き進む。レンタルビデオ店である『TAMAYA』を通り過ぎて左へ曲がると、それまで並んでいた様々な娯楽店やスーパー、家電店、飲食店の数が減っていき、徐々に住宅街へと変化する。そのまましばらく歩いていると13階建てで周りのマンションより少しだけ大きな茶色いマンションが現れる。いわゆる"億ション"と呼ばれるような超高級マンションではないものの上品なデザインで、ここの住人は生活にそれほど苦労していないだろうと思わせられる。


 光と明里はそれぞれこのマンションの13階と12階で生活している。2人はエントランスに入り、光が部屋番号を入力しようとしたのを明里が手で制し、鍵を取り出して解錠する。

 そのままオートロックの扉を越えてエレベーターに乗り、それぞれの階数を押して目的階まで到着を待つ。


 エレベーターが12階で静かに停止し、直ぐに扉が開く。


「じゃあね」

 

 明里が光に笑顔を向けながら別れを告げる。


「うん」


 光もそれに応じながら軽く手を振り、明里を見送った。


 その後、再びエレベーターの扉が閉まり、動き出す。程なくして13階に着き、また静かに扉が開く。光はそのままエレベーターを降りて左に真っ直ぐ進む。「1307」と書かれた扉の前で立ち止まり、インターホンを鳴らす。しばらくしてから部屋の扉が開かれる。


「ただいま」

「はーい、お帰り。寒かったでしょ?」


 光の母であるまいが娘の学生鞄を受け取りながら玄関へ早く入るように促した。


 

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