十話 想いは褪せない
引き戸を開けると、そこは六畳の和室だった。
真っ先に目に飛び込んだのは、段飾りのひな人形である。
最上段に、男雛と女雛。
男雛は紫色に金色の刺繍が施された袍を着て、女雛は朱色と濃い紅色の衣を重ねている。
一対の人形は金屏風の前に座し、ほがらかに微笑んでいる。
その下の段の三人官女は、紅袴に朱色と白の袿。
五人囃子の童たちは、朱と紺の水干。
陽気そうな随身と生真面目そうな随身は、緑色の狩衣。
下の二段には、女雛の入内の御道具や牛車。
金屏風、桜と橘の樹、
何とも雅やかな飾りだ。
「……ご覧になって」
段飾りの向かいの小さな
白いセーター、茶色のスカート、白いソックスを履いた女性で、ショートカットには、白髪が混じっている。
「お邪魔します」
室内には、ひな人形と
「ごめんなさいね。何のおもてなしも出来なくて」
「いえ……お会いできて良かったです」
こうも立派なひな飾りを見るのは、初めてだ。
長野さんが初めて見た時のままに、まったく色褪せずに
「お付き合いを始めて、二か月後に頂いたのよ。彼は優しくて、はにかみ屋さんで、私の手も握らなかった。頂いた時は、この人と結婚するんだなって思ったの」
「……はい」
神妙に答え、顔を伏せる。
長野さんの恋が叶わなかったことは解かっている。
「いいの。そんな申し訳なさそうな顔をしないで」
長野さんは、無邪気に微笑む。
「私の両親は、結婚に大反対したの。相手の実家は金持ちだし、相手の親に反対されるに決まってる。そうしたら傷付くのはお前だ、って」
長野さんは、そっと瞼を閉じる。
「両親に反対されたことを話したら、彼は何も言わずに頷いた。それ以来、彼とは会わなかったわ。彼は大手の広告代理店に勤めていたの。あなたも、その代理店を知っている筈よ。私は無知だから、その代理店が有名だと知らなかった」
「そうでしたか……」
「私は、誰とも結婚しなかった。両親も亡くなり、パート勤めをして、通勤途中の事故で世を去ったの。お若い貴方から見たら、つまらない人生よね」
「いえ、そんなことありません……」
不覚にも、涙が溢れてきたから。
目の前のひな人形は、何と美しくて鮮やかなんだろう、と思う。
持ち主の真心のままに輝いている。
「あの……上野さんの願いを叶えるために、僕はここに来たんです」
顔を上げ、ポケットから新聞の切り抜きを出して
長野さんは熱い息を吐き、立ち上がって窓の前に立つ。
「……ここから、彼の家が見えるの」
彼女に従い、窓から外を眺めると――二階建ての立派な家が在った。
門の内側には植え込みとカーポートがある。
が、窓の外は夜だ。
玄関灯が灯り、ベランダの内側も明るい。
「私は、ずっと彼の家を眺めていたの。彼が出勤し、帰宅し、家族と出掛け、植木の手入れをして、お孫さんに囲まれて……」
「その方が亡くなられた時も、ご覧になっていたんですね……」
「彼の体が運ばれて、親類の皆さんが集まって……そして、お骨になって帰って来たのも……」
「……辛いことを話させてしまいました。申し訳ありません」
自分の思慮の浅さを悔い、深々と頭を下げる。
けれど、確信したことがある。
目の前の家の情景は、リアルタイムのものだ。
この病棟は現実とは異なる流れの中に在るが、外の家は現実世界に在る。
「私自身の執着ゆえに、ここからは出られない……声も掛けられない。私と彼は、あの世でも一緒にはなれないのかも知れない。けれど、ひな人形のお礼を伝えたくて、一度のチャンスを使ったの。この新聞記事を出したの……」
長野さんは切々と訴え、新聞記事を手に取った。
顔には、齢を重ねた人からではの美しさを讃えている。
「任せてください! お行儀悪いですが、窓を借ります!」
――方丈
ならば、彼の魂も自宅にいる筈だ。
すると――窓と家の門の間に、半透明の光のブリッジが見えた。
緩やかな弧を描く光は、雲間から注ぐ日射しにも似て神秘的に輝いている。
「開けますよ!」
窓枠を右に押し、全開にする。
光が室内に満ち、白一色に染まる。
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