六話 色は匂えど

 ひづめの音、車輪が回る音が近付いて来る。

 同時に、周囲が白いもやに包まれる。


 そのもやは、石鹸を思わせる香りを放っていた。


 白い闇の中――華都はるとは、瞬きを繰り返す。

 傍らに立っていた方丈凛々子りりこの姿が見えなくなったからだ。

 だが、黄泉比良よみひら荘の壁や外階段は見えている。


 手を伸ばすと、手のひらは壁を掴んだ。

 だが、何か違和感がある。

 体を壁側に傾けると、壁にのめり込んでしまいそうだ。


 この感覚は、霊道レイドウを通る時にも似ている。

 自分の中を、風が通り抜けるような――

 自分が透明人間になったような感覚に。


 

 ――ひづめと車輪の音が止まった。



「……桜橋さん、行きましょう」

 舟洞しゅうどう彩葉いろはは、静かに歩き出す。

 

 華都はるとは、緊張と畏怖に駆られつつ返事した。

「はいっ。同行させていただきます」



 静々と階段を下りる彼女に付いて行き、地に降りた時に振り返ってみた。

 すると――黄泉比良よみひら荘はもやに隠れ、まったく見えなくなっていた。


 そう――自分は、死者からの頼み事を引き受けたのだ。

 行く先は、『異界』だろう。


 不安に駆られつつも、バーカーのポケットに手を突っ込む。

 そこには、黄泉比良よみひら荘と自室の写真が入っている。


 風景写真は、霊道を移動するターゲットとして使えると教わった。

 だから、依頼を受けた後に写真を撮り、コンビニで印刷したのだ。



 そして数メートルほど歩いた時――忽然と馬車が現れた。

 

「あれ……?」

 思わず呟き、じーっと全体を見渡す。


 赤毛の馬が牽いているが――馬車というよりも、人力車に近い。

 編笠で顔を隠した車夫が御者台に座っており、後ろに二人が座れる座席がある。

 車輪は四つで、前方の二つは小さい。

 日除けのほろも付いていて、座席の頭上を覆っている。



(……これは……)

 華都はるとは焦った。

 見たこともない乗り物だが、どうやって乗れば良いのか分からない。

 正確には、自分が先に乗るのか否かが。

 座席の下には三段のステップが付いているが、どうしたものか――。


 『レディーファースト』と言うが、同行する女性は和装だ。

 自分が先に乗って手を差し伸べるのか、女性を先に乗せるべきか。

 


「旦那さん、早く乗って下さい」

 車夫がさり気なく助け船を出し、華都はるとは胸を撫で下ろす。

 やはり、男が先に乗るのか正解らしい。


 華都はるとは慎重にステップを登り、車内で腰を落とし、舟洞彩葉いろはに手を差し出した。


「ありがとうございます」

 舟洞彩葉いろはは愛らしい笑みを浮かべ、華都はるとの手を支えに、ゆっくりステップを登って座席に着く。

 座席には毛布が置いてあり、それを舟洞彩葉いろはの膝に掛けてやる。

 すると、彼女は遠慮がちに言った。


「桜橋さん。広げたら、二人の膝に掛けられますよ」

「いえ、僕は平気です」


 華都はるとは笑顔で答え、片手でガッツポーズをした。

 舟洞彩葉いろははふわりと微笑んで頷き――そして馬車は動き出した。



 馬車は、何処とも知れぬもやに包まれた道を行く。

 二人は暫し、無言を貫いていた。

 

 華都はるととしては、何を話せば良いのか分からない。

 古風な外見の小柄な女性はとても儚く、言葉を誤れば消えそうな風情だ。


(そういや、『療養所』に行くんだっけ)

 思い出し、訊ねてみることにした。


「舟洞さん。あの……方丈さんからは、療養所に行くと聞きましたが……」

「はい。私は、そこの看病人として働いております」


「……そうでしたか」

 華都はるとは答えたが、『看病人』とは初めて耳にする言葉だ。

 看護師のことだと思われたが――舟洞彩葉いろはは、切々と語り出した。

 

「父には、お勤めを反対されていますの。けれど、病人のお世話は私の天職ですわ。お食事の世話をして、子供に本を読み聞かせ、ご老人のお話相手をしていると、心が慰められます」


「舟洞さんは、本当に優しい方なんですね」

「いえ……そうでもしていなければ……耐えられないのです……」

 

 顔を隠すようにうつむき、袖で口を押える。

「あなた様のお名前を聞き……つい、心が乱れました。私には、婚約者いいなずけがおります。櫻井浩二郎さまという方です……」


 締め付けられるような、か細い声が揺れる。

 しかし、ほとばしる熱情は華都はるとの心を痺れるほどに焦がした。



  ――続く。

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