第二章 恋をしてしまいました

五話 始まりの夜

 本日の華都はるとの夕食は、鍋ラーメンだった。

 カット野菜を袋ごとレンジでチン。

 片手鍋に沸かした湯に、乾麺を投入。

 味噌味スープを溶かし、野菜と具材セット(チャーシュー・煮玉子・メンマ)を入れて完成である。


 ドンブリには移さず、鍋ごとテーブルに運ぶ。

 低反発座布団に腰を降ろし、「いただきます」と言ってから箸を付ける。


 冷蔵庫には、大家の方丈凛々子りりこから貰ったおにぎり二個がある。

 鮭と梅入りの海苔巻きおにぎりで、それは夜食に回すことにした。

 

 朝にも、二号室の古河氏からハムエッグをお裾分けして貰っている。

 何となく――乱れた生活は出来ないな、と思う。


 ラーメン完食後には、デザート代わりの濃縮オレンジジュースを飲んだ。

 食器を片付け、明日の授業の予習をする。

 大学は、北大の地球惑星科学科を目指している。

 

 数学1の教科書を開き……ふと、思った。

 自分には、流されやすい部分があるようだ。


 情にほだされて、変な事件に首を突っ込んでしまったが――大変な間違いをしでかした気がする。


 女子トイレに転移したのは事実だ。

 自分には、超常の能力があるのは確かだろう。

 しかし――大家の甘言に、死者からの依頼を承諾した。


 それは、危険では無いのか?――

 興奮も冷めて気分も落ち着くと、自分の行動の是非が見えてきたが――



(……ここは住みやすいしな……)

 勉強部屋にも使っている寝室を一瞥し、フッと首を傾ける。

 家賃も安くて、静かで、夜の勉強もはかどる。


 

 だが――気になることがある。

 引き受けた案件に協力してくれると言う、隣の三号室の住人のことだ。

 

 隣から、物音が聞こえたことがない。

 表札も出ていない。

 玄関横の大窓のベージュ色のカーテンも閉じたままだ。


 ちょっと、玄関を出て覗いて見ようか――

 明かりが付いていれば分かる――

 そう思ったが、それも失礼な気がする。


(そんなことより、勉強に集中だ!)


 華都はるとは約束の時間までに、数学と英語の予習に集中することにした。

 大家との約束の時間は、午後十時だ。



 

 そして、午後九時五十分。

 温かいビターココアで一息つく。

 頭と肩に溜まった活性酸素が薄れたような気がした。


 残さず飲み干し、カップを洗い、パーカーに袖を通し、外に出た。

 共用部分の廊下に立ち、景色を眺めると、数十万人が住む街とは思えないほどに静かだ。


 アパート周辺は空き地で、十メートル以上先の家々の灯りも間隔が空いている。

 マンションの灯りも見えるが、それ以外の高層建築は近辺にはない。

 

 

「……夜はわびしいよね」

「ふぇっ!?」


 突然の声掛けに、変な声が出た。

 いつの間にか、方丈凛々子りりこが隣に立っていた。

 臙脂えんじ色のワンピースに、初対面の時に着ていた怪獣模様の半纏はんてんを重ねている。


「……ビックリさせないでくださいよ」

「ごめん。でも、時間ピッタリだね。女を待たせない男は信用できる!」


 方丈凛々子りりこは、艶やかに微笑んだ。

 お世辞かも知れないが、誉められるのは悪くない気分だ。


 すると――三号室の玄関ドアが開いた。

 出て来たのは、小学生のように小柄な――しかし、世にもたおやかな女性だった。


 玄関灯の下でも、真昼の太陽の下で見たように、その姿は鮮明に映る。

 

 前髪をゆるく纏め上げて櫛で留め、後ろ髪は三つ編みにして背に垂らしている。

 紫地に白の小花模様の着物に、青い羽織。

 白い足袋に、濃い紫の鼻緒の草履。

 細い腕には、紺色の風呂敷包みを抱えている。


 二十歳を越えていると思うが、涼やかに輝く瞳は少女のように愛らしい。

 それでいて、憂いに満ちた雰囲気が滲み出ている。

 月下に輝く白水仙のようだ、と華都はるとは――柄にもなく思った。

 


「三号室の舟洞しゅうどう彩葉いろはさん。療養所で、看病人をしている」

 方丈凛々子りりこは、立ち尽くす華都はるとに顔を寄せる。


「舟洞さん。彼が四号室の住人だ。療養所に、知り合いがいるらしい」

「へ?」


「……おばんです」

 戸惑う華都はるとに、『舟洞彩葉いろは』と紹介された女性は会釈した。

「ご紹介に預かりました『舟洞彩葉いろは』と申します」


 至極丁寧にお辞儀され、華都はるとも慌てて頭を下げた。

「桜橋華都はるとです。よろしくお願いしますっ」


「……さくら……」

 舟洞彩葉いろはは呟いた。

 華都はるとには、風呂敷包みを持つ手に力がこもったように見えた。


「あ……いえ、何でもありません」

 舟洞彩葉いろはは、恥ずかしそうにこうべを垂れる。

「……凛々子りりこさまから伺っております。お探しの長野綾子さまは、療養所で過ごされていらっしゃいます。ご案内いたしましょう……」



 すると――どこからともなく、ひづめと車輪の音が聞こえて来た。


「迎えの乗り合い馬車だ。行って来い!」

 方丈凛々子りりこは、華都はるとの肩を叩いた。


 見ると――その表情からは、笑顔は消えている。

 強く真剣な眼差しは、引き受けた案件の重さを物語っている。

 

 遊びではない――

 これは魂の救済だ――

 君は選ばれし者だ――


 彼女の意志と励ましは、華都はるとは、心を引き締めた。

 自分の中の何かが、背を押す。


 それは『勇気』だ、と誰かが答えた気がした。


「……行って来ます!」

 

 華都はるとは唇を一直線に結び、力強く応じた。

 


 ―― 続く。

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