二話 玄関の先には女子トイレがありました
ハムエッグ・トースト・カップスープの朝食を済ませた
桜南高等学校は四年前から男女共学となり、
男子一期生は六クラス合わせて七十人程度だったらしいが、今では男女の割合は半々だ。
浴室の鏡に映る我が身を確認し、シャツの襟元を整える。
スタンドカラーの白シャツ、イエローベージュのブレザー、チェック柄の茶色のズボンという、ちょっと目立つ組み合わせだ。
今年度からはベージュ色のカーディガンが追加され、春や秋はブレザー代わりに着用可となった。
「ふぅ……」
最後に跳ねている頭頂の髪を撫で付け、黒いパーカーを羽織る。
自転車通学だと、ブレザーだけでは少し肌寒い。
スクールバッグを背負い、ヘルメットを被り、黒のローファーを履いて玄関ドアを勢いよく開けた。
……開けた。
そして、我が目を疑う。
「はぁ?」
目の前には、トイレがある。
正確には、洋式便器と言うやつだ。
玄関ドアの先にある筈の共用通路は、トイレの個室に化けている。
「…………」
奇異な光景に首を捻り、ふと下を眺め――隅に鎮座しているサニタリーボックスに気付いた。
あり得ぬ物体の存在に驚愕し、自分の正気を疑う。
玄関ドアとトイレのドアを間違えたのか、とさえ思った。
だが内装も、何よりドアを開けた時の便器の角度が違う。
自宅とは違い。ドアを開けたら便器が横向きに付いている。
「……どゆこと?」
一歩下がり、振り返る。
だが、そこは自宅のリビングではない。
公共施設のトイレのように、個室が十個ばかり並んでいる。
「は? は? は?」
頭が真っ白になった。
そこに、エコーの掛かった女性の声が追い打ちを掛ける。
(やべえ!)
何が何だか分からないが、ドアの外で棒立ちしているのは危険だ。
慌てて個室に戻り、鍵をかける。
同時に、足音が近くで止まった。
「はー。ずいぶん早く着いちゃったねー」
「うん。明日からは、十五分遅いバスで間に合いそう」
(げっ!)
危うく叫んでしまうところだった。
ここは、本当に女子トイレなのか。
しかも……後から喋った声は、
「割とキレイだね」
「共学になる前の年に改装したって、お姉ちゃんが言ってた」
「お姉さんがいた頃は、セーラー服だったんでしょ」
「うん。共学になった年に、お姉ちゃんは三年生」
「その年に、お兄ちゃんが入学したんだよ。男子一期生」
「剣道部、去年の全道大会で優勝したんでしょ。大将がお兄さんだったんだよね」
「え~? 誰に聞いたの?」
「名前が貼ってあったじゃん。一戸なんて名前、そう多くないし」
(やばい、本当に一戸だ!)
事前登校の時に、廊下に掲示されている部活動の大会記録を見た。
その中に『男子剣道部全道大会優勝』の文字と写真があった。
すると――ここは、桜南高校の女子トイレということになる……。
――夢に違いない。
――夢に違いない。
――悪夢に違いない。
頭の中で唱え、両手を頭の横で振ってみる。
が、何が起きる訳でもない。
これは現実だ――。
しかも、彼女たちが個室に入った音がした。
(げえっ!)
頭の中で絶叫したが、事態が変わる筈もない。
何か策は無いかと、顔を半周させる。
すると――【おとイルカ】と書かれたピンク色のイルカのシールが目に入った。
(ここここ、これだ!)
シール横のセンサーに手をかざし、水流音を発生させ、耳の穴も塞ぐ。
とにかく、変態行為だけは避けたい。
誰が見ていなくても、避けたい。
(幸運のお星さま……)
昔のSF映画を思い出し、本気で祈る。
宇宙船の中でエイリアンに追い詰められる主人公の気持ちが、今は痛いほど理解できる。
水流音を起こし、耳を塞ぎ――
これを何度も繰り返した。
やがて気配と外の音が消えた時――
(……今だ!)
決断し、開錠して肘でドアを押す。
ダッシュで、トイレから逃げ出すしかない。
――外に誰もいませんように。
――外に誰もいませんように。
が、すぐに女性の声が耳に入る。
トイレの入り口付近に、まだ女生徒がいた。
……終わった。
観念し、瞼を閉じる。
入学式当日に、退学になるのか――。
意識が遠のき、体が宙に浮き、前のめりに倒れた。
倒れた先には、固い床がある筈だ。
が――そこには、固い床はなかった。
床ではなく、程よい固さのベッドの上だった。
花のような香りに包まれ――うつ伏せの顔をそっと上げる。
すると、傍の椅子に座る女性と目が合った。
いや、ドレッサーの鏡に映る女性の瞳とかち合った。
「……大家さん!?」
傍にいるのは紛れもなく、アパートの大家の方丈 凛々子だ。
「あらら……」
方丈 凛々子はブラシを置き、茶色の巻き毛を揺らして立ち上がった。
薄紫色のロングTシャツに、モコモコ靴下を履いている。
その左右には、黒と三毛の小猫たちが座っている。
「ごめん。最初から言っときゃ良かったね」
方丈 凛々子は微笑み、立ち上がって腰に手を当て、唐突な台詞を口にした。
「この世には、人の目には視えない『
「は……?」
二匹の小猫は、「にゃん!」と合唱した。
―― 続く。
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