第一章 袖振り合うも今生の縁

一話 ハムエッグを作り過ぎたので

 四月七日の午前六時。

 桜橋さくらばし 華都はるとは、起床した。

 今日は高校の入学式だが、さして緊張もしていない。

 出席する家族はいないし、気を使う必要もない。

 普通に登校し、下校るだけだ。


 

 彼は布団から起き上がり、六畳の和室を見渡す。

 勉強机と椅子・カラーボックス・ローチェスト・制服を吊るしたハンガー。

 独り暮らしには、充分な家具だ。



 起き上がり、隣のリビングに移動する。

 食器棚、冷蔵庫、電子レンジ、トースター、電気ポット。

 これらは、家電量販店で購入した『新生活セット』一式だ。

 秋には、ストーブを購入せねばならないだろう。



(やっぱ、ハロゲンヒーターも必要だな)

 華都はるとはブルッと震えた。

 四月の早朝は、まだ肌寒い。

 ケチらずに、購入しよう――。

 

 そう考えつつ、電気ポットで湯を沸かす。

 六枚切りの食パン二枚をトースターに入れ、カップスープを開封する。

 今日の朝食だ。

 卵とハムの買い置きはあるが、やはり朝に調理するのは面倒くさい。

 

(ま、明日からはちゃんと作るよ……)

 華都はるとはトースターのスイッチを回した。


 

 その時――玄関チャイムが鳴った。

 こんな時間に、誰が訪ねてくるのだろう?

 管理人は朝寝坊らしいし、隣人たちとも今のところ交流はない。

 隣人たちの表札すら見ていない。


 インターホンに出るべきか否か。

 数秒の逡巡の後、華都はるとはキッチン壁際のインターホンを押して答えた。


「何か御用ですか?」

『おはようございます。二号室の古河ふるかわと申します』


「はい……何か?」

 華都はるとは、口を曲げて考える。

 夜中に騒いだとか、二号室の住人からクレームを受けるようなことはしていない筈だが――


『……突然ですが、ハムエッグを作り過ぎたので食べていただけませんか?』

「は?」


 二号室住人を名乗る男性の答えに、目をパチクリさせる。

 ハムエッグを作り過ぎた、とは?


『すみません。冷めてしまうので失礼します』


 そう言うなり、玄関ドアが開いた。

 鍵は掛けていた筈だが――

 

「なっ……」

 唖然として、相手を押し止めるように手を振り回した。

 住人の許しなく入室するのは、不法侵入ではないのか?


 けれど男性は、まるで我が家の如く靴を脱いで押し入って来た。

 長身で、若くて、肩に触れる髪はサラサラで、モデル雑誌から抜け出たような美貌の持ち主である。

 白ワイシャツに灰色のカーディガン、厚手の茶色のズボンと云うコーデも清潔感に溢れている。


 彼は左手にはトレイを持ち、それを新聞で覆っていた。

「おはよう。いや、初めましてかな。二号室の古河きょうです。ハムエッグは食べられるよね?」


 男性は微笑み、ローテーブルにトレイを置いた。

 止める隙も、応える暇もない。


 そして男性は、開けっ放しの襖の奥を見つめ――目を細めた。

桜南さくらみなみ校の制服だね。僕は男子の一期生だったんだよ。ダサいと有名な青ジャージも同じデザインかな?」


「え?」

 華都はるとは、ふっと警戒心を解いた。

 先週の事前登校で学校指定のジャージは受け取った。

 明るい青地に太い白ラインが入っていて、誰かが「芸人がテレビで着てるやつ」と言っていた。



「あの……本当に先輩なんですか?」

「半年で退学したけれどね。事故で大怪我をして、完治の見込みが薄いと診断されたから。でも、今はこうして自活してる」

「……そうでしたか」


 ペコリと頭を下げ、笑み返した。

 他人に合わせるのは苦手だが、この男性の醸す雰囲気は独特だった。

 すごく穏やかで、ついつい心がほぐれてしまう。



「トーストが焼けてるみたいだよ。ああ、皿とトレイは僕の部屋の前に下げて置いてくれ。不在の時間が長いからね」

 

 そう言うと、男性は退室した。

 華都はるとは、テーブルに置かれたトレイをボケーッと眺める。


 『憧れの先輩』なる言い回しがあるが、そんな人に巡り会った気分だ。

 人間離れしていて、透明感がある。

 そう、肉感がないとでも言えば良いのだろうか。

 まるで――草花の香りが人の形を取って現れた、ような感じだ。


 

 少しばかり上がった体温に戸惑いつつ、トレイの新聞を外す。

 その下の大皿のラップを外すと、バターの香りが立ち昇った。

 

 塩こしょうを打った二個の半熟玉子、扇形に広がった三枚のハム、俵型のニンジンのソテー、トマトの輪切りとブロッコリーのサラダ。

 ブロッコリーの横には、搾り出したマヨネーズが添えられている。

 それらが、申し分なく綺麗に盛られていた。

 

「すごっ……」

 繊細な盛り付けに、華都はるとは感嘆した。

 しかし、これを『作り過ぎた』とは解せない。

 


「……ん?」

 ふと、トレイを覆っていた新聞紙が目に入る。

 その紙面は、奇妙だった。

 裏表とも、まともに印刷がされていない。

 ただ一つ、左端の数センチ四方だけに文字が並んでいる。

 

 

 ――ある人に会わせて下さい。

 ――若い頃、交際していた人です。

 ――先日、その人が亡くなりました。

 ――その人にお礼を言いたいのです。

 ――ひな人形を贈っていただいたお礼を。



「これって……?」

 華都はるとは、その不思議なメッセージを注視した。

 焼けたパンのことも、ポットの湯のことも忘れて。



 ―― 続く。

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