三号室の住人、舟洞 彩葉(女性看病人)

 ――櫻井 浩二郎さま。


 あなたさまの消息が絶えてから、もう八年が過ぎてしまいました。


 私も二十四歳になりました。


 私は看病人として、患者さまに尽くす日々を送っております。

 

 父上さまには、家に戻って結婚するように勧められております。


 けれど、断り続けております。


 貴方さまほ、きっと帰っていらっしゃる。


 そう信じております。


 患者さまのお世話をしている時だけが、哀しみを忘れられます。


 昨日は乗り合い馬車の事故で、七人が病院に運ばれて来ました。


 ひどい怪我をされていましたが、皆さまの御命をどうにか助けられました。


 私があの日、浩二郎さまの御傍におりましたら……






舟洞しゅうどうくん」


 落ち着いた声iに呼ばれ、筆を止めた。

 墨汁が紙に滲み、慌てて硯に筆を置く。


「院長さま……」

 いつの間にか、ベッドの傍らに院長が立っていた。

 濃い色の羽織袴姿である。

 灰色の髭を蓄えた姿からは、華族らしい気品が感じられる。

 父の伝手つてで、どうにか雇って貰えた病院である。

 院長の『方丈 幾冶いくや』氏は何かと気を使ってくれるが、それが心苦しい。

 


「具合はどうかね?」

「はい……胸の痛みはありません」


「……そうだね」

 院長は白一色の病室を見回し、脇の椅子に座った。


 閉まった窓の外からは、せせらぎが聞こえる。

 しかし、彼女の耳には入らない。

 若くして世を去った婚約者への恋文だけを綴り続ける。

 

 

 三つ編みを背に垂らし、若草色の羽織を肩に掛けた女性の顔色は白い。

 壁には、女性看病人が着る白いドレスが掲げられている。

 彼女の希望で、それを着て彼女は旅立った。

 しかし、未だに川を渡れずにいる。

 恋人の棺を見送ったことさえも忘れている。

 


「舟洞くん……此処に行きなさい」

 院長を称する男性は、一枚の紙を渡した。

 それは、地図であった。


「君は、そこにある長屋に住むと良い。私の娘が大家を勤めている」

「お嬢さまが……?」


「ああ……凛々子りりこと名乗っている。そこに住めば、浩二郎くんに会う機会もあろう」

まことでございますか!?」


 舟洞 彩葉いろはの顔に微かな懐疑と――それ以上の深い歓喜が浮かぶ。

 羽織の袖の中から、最愛の人の写真を出す。

 山高帽にフロックコートを纏った青年――いや、少年と言っても良い年頃だ。


「院長さま。私、そこに行きます。そこに住めばよろしいのですね!?」

「だが,住むだけでは駄目なのだ。凛々子は悩み苦しむ人々の相談を聞き、問題を解決している。それを手伝っていれば、いずれ浩二郎くんの耳にも届くだろう」


「院長さま、人を助けることは私の喜びです。ぜひ、お嬢さまのお手伝いをさせて下さいませ!」

「……頼むよ。ただし……」


 院長は微笑み、あることを告げた……

 



 彩葉は、ただちに身支度を整えた。

 髪を結い、銀のかんざしを挿す。

 紫地に白と赤の小花柄の着物に、朱色の羽織を重ねた。

 看病人の白いドレスも、忘れずに持った。

 頑張って働いている姿を、最愛の人に見て欲しかったから。



 人力車に乗り、教わった長屋を目指す。

 天気が悪く、霧が濃い。

 昼夜の区別さえ付かない。

 御者の姿も、はっきり見えない。

 カタカタと回る車輪の音だけが響く。


 だが胸を照らす希望に、彩葉の顔は明るい。

 

「昌也さま……」

 彩葉は呟いた。


「浩二郎くんは、そこでは『上野 昌也』と名乗っている。昔のことを忘れているのだよ。ただし、その名を他人に明かしてはならない。明かせば、彼とは二度と会えぬであろう。それを覚えておきなさい」


 ――院長は、確かにそう言った。

 教わった名を、何十度も呟く。

 名前の違いなど、些細なこと。

 お会いできれば、自分のことも思い出してくれるだろう。

 



「着きましたよ」

 御者が言い、人力車は止まった。

 風呂敷包みを下げ、車から降りる。

 周囲の霧は、次第に晴れてゆく。



 霧の向こうから現れたのは、奇妙な長屋である。

 二階建ての洋風建築だ。

 庶民が住むには立派で、華族が住むには質素である。



黄泉比良よもつひら荘……」

 彩葉は呟いた。

 渡された地図には、そう記されている。


 ――猫の鳴き声が聞こえた。

 彩葉は、導かれるように歩を進めた。

 

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