第2話 聖堂院と勇者
聖堂院の一室。修道女や引き取られた孤児が普段神に祈りを捧げる礼拝堂に、今は一人の女性が物憂げに佇んでいた。彼女は壁に掛けられたタペストリーを眺めてはしばし瞑目し、溜息をつく。何度もそれらを繰り返しては、時折別のことを考える素振りを見せ、しかし首を振りまた瞑目と溜息を繰り返していた。
そうしてもう何度目かも分からない溜息をついた彼女の元へ、リラとイブキがやって来るのであった。先程の草原からここまでの移動中にも会話を重ねていたのか、よりその仲は深まっているらしかった。
見るもの全てが真新しい建物の中、そして仰々しいタペストリーや刻み込まれた壁画のある礼拝堂に、イブキはきょろきょろと視線を遊ばせている。リラは女性を見止めて、早足でその下へ駆け寄った。
「サントリナさま! 勇者さまを連れてきました!」
「お帰りなさい、リラ。……その子が、予言の?」
「はい! 多分そうです!」
サントリナと呼ばれた女性が、物憂げな表情をそのままにイブキを矯めつ眇めつ見つめる。見知らぬ女性に見つめられてイブキは緊張で固まるが、サントリナはそれを気にせずしばしの間じっと彼から視線を離さなかった。
どれほどの間そうしていたか、イブキがとうとう気まずさに身動ぎをしたところで、やがてサントリナが頷いて離れて言った。
「成程。確かに、この世界の者ではないようです。改めて、ようこそ異世界へ。あなたのお名前は?」
「い、イブキ、です」
「そう。いい名前ですね」
サントリナのような妙齢の女性はイブキにとってあまり身近でない存在である。ただ、リラの口振りや本人の見た目から、彼女が位の高い人物であることはイブキにも分かった。まだ緊張で高鳴る胸をどうにか堪えて、イブキは少々吃りながらなんとか名乗ることができた。
そんな少年の初々しい様子を見て微笑ましく思い、サントリナは仄かに笑みを浮かべながらこう続ける。
「……イブキさん。私には、あなたがここへ来ることが分かっていました。……聖堂院の言い伝えのことはリラから聞いていますか?」
「ああ、えっと……異世界から勇者がやってくる、ってやつですか……?」
それが本当かどうかはイブキにはまだ分からなかったが、先程リラが興奮しながら語った伝説のことだろうと思い当たり、不安げにそう尋ねる。リラにチラリと視線を遣ると、彼女はイブキを見てうんうんと頷いていた。そしてサントリナも大きく首肯する。
「そうです。世界の危機に、勇者がやってくる、と。そして先日、あなたがやって来るらしいということが分かりました。それでリラを遣ってあなたを迎えたということなのです」
「へぇー……なるほど……?」
イブキは分かったような分からないような、理解の及んでいない様子で相槌を打つ。そんな彼を見てからサントリナは少し瞑目し、一つ頷いて、ほんの少しだけ明るくなった声で言う。
「まあ、いきなりで戸惑うでしょうね。……これからあなたが何をするにせよ、この聖堂院はあなたを支援します」
サントリナがそっとイブキの頭を撫でる。イブキは少し気恥ずかしく思いながらも、その手を払うことはせずなすがままにされていた。父親がガシガシとする撫で方とは大きく違う。母親がまだいたらこんな風に撫でてくれただろうか。そんなことをぼんやりと思う。
それからサントリナは数歩下がり、また物憂げな顔になってリラに声を掛けた。
「……リラ、私は少し外に出ます。彼を案内してあげなさい」
「はい! それでは失礼します! 行きましょう、勇者さま!」
イブキはまだ少しぼんやりとしていたが、リラに手を引かれて共に退室する。リラに話しかけられてからは普段通りの彼に戻ってまた談笑を始めた。
そんな彼らを見送った後、サントリナはしばし目を閉じ、それから少し困ったような顔をして、今度は溜息をつかずにのんびりと部屋を後にするのだった。
☆☆
イブキはリラに連れられ、聖堂院の中を歩き回っていた。鈍色をした煉瓦造りの壁には至るところに絵画や彫刻があり、そのいずれもが神話や伝説の一場面を描いているらしい。リラがその一つ一つを軽く紹介するのを聞いて、イブキはいよいよここが異世界なのだと実感し始めた。
しかしその荘厳な建物の随所に人々の営みが見え隠れしている。落書きを無理やり消した跡。子供らの背比べであろういくつかの横線。窓台に置かれた小さな花瓶と、その側に落ちている小さな花弁。イブキにとっては正に夢の中のような光景なのに、イブキにとっても懐かしいような要素がある。不思議な感覚であった。
「へー……ここがリラの家なの?」
「はい。……あれー……皆いないなぁ……いつもは大巫女さま以外に他の巫女もいるはずなんですけど」
イブキに返答しながらリラは辺りを見回す。しかし彼女の言う通り、本来は修道女が孤児に教えを説き、孤児たちは自由に駆け回っているはずの部屋には誰もいなかった。窓から覗く中庭にも、厨房や食堂にも、確かに居るはずの人々がいない。
実のところ、これは何故か急激に減っていた食料を補充するためにその場にいた者総出で買い出しに行っていたからなのだが、そんなことを知る由もないイブキにとってはどうも不気味に思え、意識を切り替えるようにリラに話しかけるのだった。
「その、大巫女さま? って、さっきの人だよね? サントリナさんだっけ?」
「はい! サントリナさまはわたしたち見習い巫女の先生みたいな……凄い人です! 親代わりでもあります!」
「凄い人かぁ」
凄い人、という大味な表現に、何故かイブキはしっくりきてしまった。確かに先程見た不思議な女性は、凄そうだった。何がどう凄いのかは彼には分からないのだが、とにかく凄くて偉い人なんだろう、とは思った。
「……ところでさ、その巫女って何?」
そこでふっと沸いたイブキの純粋な質問に、リラは咄嗟に答えられず口ごもった。返って来ない返事にイブキが首を傾げる。
リラはどう説明するか悩んで、子供らしい拙い語彙で少しずつ語った。
「えーっと……巫女は巫女です。そういう……お仕事? お医者さん、お花屋さん、先生、みたいな感じの……職業、かな? お祈りしたりお祓いしたりする人……ですかね?」
「ふぅん……?」
曖昧なな返事をするイブキ。教えてもらったはいいが、考えてみても分からなかった。気にしないことにした方がいいかも、とこれまた曖昧に笑う。そんな彼を見てリラが補足して説明した。
「巫女は凄いんですよ! 例えば、この聖堂院の扉は特別で、わたしたち巫女じゃないと開かなかったり……あと、病気を治しちゃったり! 大巫女さまなんか凄いですよ、未来を予言したりもできるんです!」
「へぇ」
それを聞いて心底感心したようにイブキが相槌を打った。やはり凄い人は凄いんだな、などと考え、ほんの少し憂鬱な考えが過ぎったのを頭を振って打ち払い、それから自分の手を見つめて閉じ開きする。そんな彼の様子を不可解に思ったリラが首を傾げる。
「……うぅん」
「どうしたんですか?」
「いや、今更だけどさ。リラが巫女なら、オレも本当に勇者なのかなって」
「多分そうだと思いますけど……」
リラがそう答えると、イブキはにっかりと笑って興奮したように言う。
「それってさ……すっげぇカッコいいよな!」
「え?」
「へへ……オレさ、昔っからヒーローに憧れてたんだ!」
リラはイブキが何かを誤魔化しているような気がしたのだが、しかしあからさまに明るい顔をしている彼にそれを聞くのは少々躊躇われた。だから、そうではなくあくまで彼の言葉だけに反応することにしたのだった。
「そうなんですね! そういえば聖堂院にもそんな男の子が――ひゃっ」
突如、物を落としたような、あるいは勢い良く開いたドアが壁に跳ね返るような音が鳴った。リラは声を上げて、イブキは肩を跳ねさせて驚く。
彼らが音の出処を探って視線を彷徨わせていると、そこへ男性のものらしい声も聞こえてきた。二人は口元を抑えて耳をそばだてる。
「こ、こら! 誰かに気付かれたらどうするんだ!」
「す、すいやせん……でもオヤブンも声大きいでやんすよ!」
「あ、ああ……すまん……」
「ボス、後ろつっかえてるんで前詰めてくだせぇ」
「おお、すまんな。さあ、作戦開始だ!」
三人の男性らしい会話の声が聞こえなくなり、辺りは静かになる。反比例するように、ドキドキとうるさい音がイブキには聞こえ始める。
イブキとリラは顔を見合わせ、どちらも鼓動を早めながら過剰な小声で話し合った。
「今のって、誰の声?」
「わ、分かりません……ここに大人の男の人はいないから……ど、泥棒かも」
「ドロボー……!」
「ど、どうしましょう!? 大巫女さまもセンパイたちもいないのに……」
頼れる者も見当たらず、住居に賊が入り込んでいるという恐怖。リラは何かの琴線に触れたように突如恐怖に飲まれ、足が竦んだ。動転し声も足も震え、とうとうその場にへたり込んでしまう。目頭が熱くなり、視界が滲んでくる。
そんな彼女を前にして、イブキの中で何かの感情が湧き上がった。
それが何なのかは彼には判然としなかったが、それでも彼は意を決したように、あるいは目の前の少女を安心させるように、極めて調子よく言う。
「大丈夫! オレに任せて」
「で、でも」
「オレが何とかしてみせるよ。なんたってオレ、勇者だからさ!」
「勇者さま……はい! ありがとうございますっ!」
それは恐らく蛮勇であったし、無謀であった。しかし確かに義憤であり、正義であり、友愛でもあった。
イブキが手を差し伸べ、リラがその手を取り立ち上がる。さっきとは逆だな、とイブキは笑う。リラも勢い良く一礼しバランスを崩してイブキに支えられつつ笑う。
「えへへ……じゃあ行きましょう! こっちです!」
「うん!」
二人は賊のいるらしい方向へと駆ける。
リラの涙はすっかり乾いたらしい。イブキにはそれが、ただただ嬉しかった。
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