じゅぶないるヒーローズ!

水無月ふに男

第1話 “物語”のはじまり


 ここではない、どこか遠く。突き抜けるほど高い天井は真っ暗で、一寸先も見えない。そんな室内に、誰かがじっと立っている。

 その“誰か”はか細く、震える声でそっと、呟いた。


「助けて……お願い……!」


 声の震えは増々大きくなる。少年のようでもあり少女のようでもあるその甲高い声は、しかし声に似つかぬ大人びた声質で、激情を表していく。


「お願いだから……忘れないでっ!」


 “誰か”はその場にしゃがみ込み膝を抱えた。そして暫くの後、小刻みに肩を震わせ、嗚咽を漏らす。

 ここではない、どこか遠く。突き抜けるほど高くも真っ暗な天井に、ただただ悲痛に泣く声が響いた。

 それを聞いている者は、一人も居なかった。



 さて、それからしばらくの時が経ち。ある日の昼下がり、また別のどこかで、今度は三人の男が話し合っていた。下卑た笑みに粗野な服。不敵に笑う男とそれに従う二人の男は、村外れにある巨大な建物を見据え、大それた野望を抱えているようだった。


「ハッハッハ……ライオよ、今回の目標は分かっているな?」

「へい、そいつぁオーブってヤツでやんす」

「その通り! そしてそれはあの聖堂院にある! ダンデよ、そうだな?」

「そのはずでさぁ。なんせあそこにゃ感情の鐘があるってんだから」

「うむ! では行くぞ!」


 どうもこの男たちは“オーブ”と呼ばれるものを狙う盗賊であるらしい。彼らはこの日、神官の出払っている時間帯を狙い、白昼堂々と聖堂院なる建物に侵入したのであった。

 見た目に沿わず計画的な犯行に及んでいる彼らを見ている者は、まだ、一人も居なかった。


「……世界の調和を司るオーブ……すべて、このオダマキ様のものだ! フッフッフ……ハッハッハッハッハ!」


 男の高笑いは、彼らにとっては幸いにも、誰にも気付かれなかった。

 彼らは知らない。彼らの全く存ぜぬ所で世界の危機とも言える事件が起き、そしてそこに彼らがズカズカと踏み入ろうとしていることを。

 世界を揺るがしうる歴史の切れ端に手を掛けていることを、彼らはついぞ知ることは無かった。



☆☆



 彼が覚えている母の手は、とても温かかった。それにも似た暖かな日差しと、頬を撫でるという形容がぴったりな柔らかな風によって、彼――少年、イブキは微睡みから浮かび上がっていく。

 本名を岩代伊吹という彼は、快活ではあるがごく一般の少年である。声変わりを目前に迎える高めの声に、親から受け継いだ緩やかな目尻を携え、可愛らしいと言われることはあっても格好いいとは言い難い、しかしその性格によって誰からも好かれる少年であった。

 ただ一つ、母親を亡くしているという以外は、正義に憧れ、身体を動かすことが好きな、本当にごく普通の少年である。


 そんな凡庸とも言えそうな少年のイブキは、しかし今ばかりはひたすらに非日常的な光景に身を置いていた。

 パステルカラーの空に、青々と茂った木々。風に揺れる草花は地球上のどの植生とも異なる。そんな牧歌的でもあるメルヘンチックな景色の中に、ごく現代的なTシャツとジーンズを身に着け、イブキは横になっていた。


 間もなくイブキが目覚めようかという所で、そんな彼を見つけ、一人の少女が駆けつけた。亜麻色の髪に大きなリボンを湛え、溢れんばかりにくりりと嵌め込まれた琥珀色の瞳が特徴的な、イブキと同年代ほどの少女であった。

 彼女は倒れているイブキを心配し、側にしゃがみ込んで肩を揺らし、声を掛けた。


「起きて……起きてください!」


 その声によってイブキの意識は完全に覚醒する。ゆっくりと瞼を開き、自身を覗き込む少女の顔とやけに明るい空の色をぼんやりと見ながら、イブキは上体を起こした。


「あっ、起きた! よかったぁ」

「ん……誰?」


 安堵の声を漏らす少女に鈍く返事を返しながら、イブキは辺りを見渡した。現代日本の都会、所謂コンクリートジャングルに生まれ育った彼にとって、視界に広がる自然豊かな草原は非常に真新しく、珍しい。

 そうしてイブキがキョロキョロと視線を動かすのを見て、少女は膝を払って立ち、それからイブキに向かって手を差し出す。未だに状況を把握できていないイブキだったが、その差し出された手の意図は何とか汲み取り、戸惑いつつもその手を取って立ち上がった。すると少女と目が合い、その花が咲いたような笑みにほんの少しだけ胸が高鳴る。

 少女はイブキの手を取ったまま、自己紹介を始めた。


「わたしはリラといいます! 勇者さまのお名前は?」

「オレはイブキ……えっ、勇者?」

「はい!」


 少々はにかみながらイブキは名乗るのだが、すぐに面を食らって聞き返す。イブキはヒーローに憧れはしているものの、決して自分が勇者などだとは思っていない。しかしリラと名乗った少女はイブキを勇者と信じて疑わないようであった。イブキは途端に困惑する。

 そうして彼が何も言えなくなってから、リラも小首を傾げた。


「……あれ、勇者さまですよね? だって普通の人はこんなところで倒れてないですし……」

「そうかな……そうなの?」

「はい。たぶん……」


 二人が困ったように顔を見合わせる。しばし気まずい空気が流れ、イブキは襟首を掻き、リラは両手の人差し指を絡めた。


「えっと……世界が大切なものを失くした時、異世界から勇者さまがやってきて、わたしたちを救ってくれる、っていう言い伝えがあってですね……」

「何それ、カッコいい」


 おずおずとリラが会話を続ける。するとイブキはそれにさらりと乗じた。生来彼は会話が苦手な質ではない。そしてリラの方も、幸いなことに他人との交流が苦ではない質であった。

 正しく子供同士がすぐに交友を結ぶように、彼らの会話は急速に盛り上がり、打ち解けていく。


「でしょう!? 村の人はぜーんぜん信じてくれないんですけど、わたしたちの聖堂院に伝わってるお話なんです」

「すげー!」

「それに大巫女さまの予言でも、近々異世界からの来客が現れるーって言われてるんですよ!」

「へぇー! ……えっ、じゃあオレ、勇者なの!?」

「たぶんそうです!」


 実のところ、イブキにとってリラの言葉には分からないものも多かった。しかしそれでも、彼は持ち前の純真な好奇心と探究心でもって初対面の少女との対話を成し得たのであった。

 そしてその会話の中で、リラの想像通り、イブキにも勇者としての自覚が――


「オレが、勇者……! ……んー」

「どうしたんですか?」

「いや、現実味がないっていうか……いせかい? っていうのもイマイチピンときてないし……」


 ――湧かない。何せイブキはごく普通の少年ではあるが、平均的と言うには少々精神が成熟してしまっている。アニメや漫画としての異世界、ヒーローは大層好みではあるが、やはり自分がそれであると言われて素直に受け止められるほど夢見がちではなかったのだ。

 自分にとっての異世界、勇者というものを考え込むイブキ。黙り込んでしまった彼を見て困惑するリラ。気の抜けた鳥の囀りが響き、辺りには再び気まずい空気が流れる。

 完全に停滞してしまった会話をどうにか続けるべく、リラはそっと声を掛けた。


「えっと……とりあえず、聖堂院にいきません? 原っぱにいても何にもありませんし……」

「せーどーいん……?」


 イブキの脳内には “聖堂院”という言葉が見当たらない。字を考えながら聞き返すと、リラはにっこりと笑って再びイブキの手を取った。


「はい、わたしのおうちです! 本もいっぱいありますし、何より大巫女のサントリナさまは凄く物知りです! もしかしたら何か分かるかもしれません!」

「よく分かんないけど……んじゃあ行ってみようかな」


 リラの力強い説得に、イブキは理解が及ばないながらも頷く。このままでは何も進展しないという予感があったのが一番の理由ではあったのだが、それと同時に、目の前の少女の柔らかな笑みに絆された、というのも少しある。もっともイブキ自身にその自覚はなかったのだが。

 二人は手を繋いだまま、リラの先導で聖堂院へと駆け出したのだった。

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