3 孤独な少女に妖精は微笑む

 そよそよ、そよそよ

 吹き通す風に、私はふと目を覚ます。最初に飛び込んできたのは、白い木漏れ日。意識が上向くにつれて、感覚器官が周囲の様子を拾っていく。

 気が付くと、私は草むらに寝ころんでいた。

 身体を起こすと、辺りはただ広い草原、遮蔽物は傍らに立つ一本の木のみ。青々とした新緑の生い茂る小高い丘を、風が颯爽と滑り、私の長い髪をパラパラと遊ばせる。


 どこだろう、ここは。直前まで私は、公園のベンチで仮眠を取っていたはずなのに……。

 見渡しても、私の記憶を掠めるものはない。見覚えのない景色が続く。私が眠っていたはずのベンチはおろか、砂場も、生垣も、あの公園を想起させるものは、何一つ――いや一つだけあった。

 私の傍らに立つ一本の木、日よけ代わりにちょうど良いそれは、もしかすると、公園の隣家のフェンスからはみ出ていた木ではないだろうか。幹から枝にかけての分かれ方が、あの木に似ているような気がする。とは言うものの、木に詳しいわけではないので、はっきりとした結論をつけることはできないのだが。


 ――ああこれ、夢か。

 これは現実ではないのだと、やけに冷静な頭が理解した。現実の私は今、あの古びたベンチで気持ちよく眠っているのだろう。

 生物の先生が言っていた。夢とは、脳の働きの一つなのだと。眠っている間、脳は覚醒時に雑多にファイリングされた記憶の整理作業に勤しんでいて、夢というものは、整理作業中の記憶が大脳のスクリーンに投影された、いわばドキュメンタリー映像のようなものであるらしい。ただしそのドキュメンタリー映像が、本人が実際に体験したこととは限らない。読んだ漫画の記憶や、観た映画の記憶、人から聞いた話の記憶など、間接的に見聞きしたものも等しく「記憶」として処理されるので、夢は時にとんちんかんなものになるらしい。

 夢は、記憶のドキュメンタリーだけではない。個人の抑圧された願望や、覚醒時に強く思っていた事柄が、象徴的な夢をもたらすこともあるらしい。だから宿題の提出期限に追われている時なんかは、夢でも何かに追いかけられたりする。そういう夢を見た時の対処法は、さっさと宿題を済ませることだと、先生は笑って言っていた。


 眼前に広がるどこまでも続く草原は、私の記憶にはない風景だ。ということは、この夢は、私の抑圧された願望が映し出されたもの、ということになる。

 風が吹き通す草原……何ものにも縛られることのない自由な場所。ここで私は何をしたって良い。このまま二度寝を決め込んでも良いし(夢の中で眠るとは如何なことか)、走り回っても、大声を上げても、この丘を転がって草塗れになったって良い。それを咎める他人は、誰もいない。

 なんて素敵な提案だろう。人目も憚らず、子供のようにはしゃげるなんて。

 すう、と深呼吸をすると、陽気が肺を満たし、「よし、やってやろう」という気になる。

 いざ丘を転がろう――そう思って木陰から飛び出した時のこと。


「――君」

 後方から、涼やかな男の声が聞こえてきた。

 自分以外に誰もいないと思っていたので、私はひどく驚いて、草食動物のように飛び上がった。

 振り返った先にいたのは、陶器のように白い肌をした、若く美しい男だった。

 まず目を惹いた金色の髪は、絹のように艶やかで、太陽を受けたそれは風にうねってはキラキラと輝いている。緩くウェーブした髪の隙間から覗く黒目がちの瞳は、目尻が垂れており、人の良さそうな印象を受ける。

 まるでハリウッド映画の俳優みたいだなぁ、なんて浮ついた頭で思いながら、私はその男性の輝く容姿に釘付けになっていた。

「こんな所でどうしたの、迷子?」

「あ……」

 かっと顔が熱くなる。

 彼の纏う「大人の男の雰囲気」は私には強すぎた。普段私の周りにいる男といえば、クラスの男子や、バイト先の店長や店員、そして父親くらいのもの。そのいずれも、私に憧れを抱かせるような存在とは程遠い。男の色気というものに初めて触れて、私はどぎまぎとしてしまう。

「行き場所が分からないなら、私の屋敷においで。君が帰り道を思い出すまで、お茶くらいなら出せるよ」

 私の名誉のために言い訳をさせてほしいのだが、普段の私であれば断っていた。いくら優しそうな人といえど、見知らぬ大人の男に着いていくなんて。だがこれが夢であるという事実と、胸の高鳴りが、私の常識を揺らがせたのだ。

 結局私は逡巡の末、「はい……」なんてらしくもなくしおらしく頷いて、男の後を着いていったのだった。



 彼に連れられた先は、それは大きなお屋敷だった。先ほどいた丘からこんな建物は見えなかったはず。文字通り、それは突然目の前に現れたかのようだった。

 しかしこれは夢。ならば洋館が突然地面から生えてきたって、おかしくもなんともない。

「中を案内しよう」

 洋館の中は、外観とたがわず絢爛豪華な装いだった。

 天井にぶら下がるたくさんのシャンデリアが、ダイヤモンドのように輝いている。真っ白な柱と壁には、意匠をこらした模様が描かれおり、壁に掛かる絵画もいかにも高価そうだ。時おりすれ違う、鎧をまとった上品な騎士や、落ち着いた出で立ちの使用人が、こちらに恭しく頭を垂れた。


「貴方は、ここに住んでるんですか?」

「その通り。この宮殿は私が建てたもの。私はこの国――この妖精の国の王様なんだ」

「妖精の王様?」

 私は堪えきれず、噴き出した。だって「妖精」だなんて、あんまりにもメルヘンで、あんまりにも脈絡がない。それを大真面目に「妖精の国の王様」だなんて言い放つものだから、笑いに耐える暇すらなかった。

 ひとしきり笑って、ふと眼前の男に目を向けると、彼――妖精の王様の顔が、見る見るうちに不機嫌そうになっていくのが分かって、私は慌てて咳ばらいをして誤魔化した。

 唇を強く噛み、漏れ出そうになる笑いをどうにか堪えて、私はどうにかして神妙そうな顔を作る。


 ――これは夢。なら妖精が出てきたっておかしくないじゃない。

 だからといって、これじゃあまるで子供の見る夢だ。美しい妖精の王様と出会って、お屋敷に招かれお茶をして……子供だましのおとぎ話にも程がある。このままこの幼稚な夢が続けば、私は彼のお妃様にでもなるのだろうか?


 ――……夢?

 夢は記憶、または抑圧された願望。妖精と出会った記憶などないので、ならばこれは、私の抑圧された願望ということになる。

 自由な草原と、童心を束ねた稚拙なメルヘン。恥ずかしくなってしまうほど、幼い夢。――ああそうだ、認めるしかない、それらは私が何より求めていたものだ。そして、私がとうの昔に置き去っていったものだ。


 一体、いつから私は「夢」を持たなくなったのだろう。ここで言う夢とは、眠りによるものではなく、未来に対して展開される、「将来の夢」と呼ばれるものだ。

 小さな頃、保育園に通っていた時分は、「アニメのキャラクターになりたい」だとか、「ケーキ屋さんになりたい」だなんて夢を持っていた気がする。しかし今の私にそのような夢はない。アニメのキャラクターにはなれないのは当たり前だし。ケーキ屋さんになるには専門学校に行ってお菓子作りを学ばなくてはならないし、加えて経営だって勉強しなければならない、何より美味しい菓子を作ることができなければ食いっぱぐれてしまう。事業が成功するかどうかは博打のようなものだ。

 ほら、すぐにこうだ。「こうしたい」という思いつきがあっても、心の中に巣食った現実主義者が「どうせ失敗するからやめておけ」と首を横に振る。

 それを繰り返すうちに、やがて、なりたいものがなくなっていった。今はただ、なりたいものもなく、夢もなく、とにかく「現状から自由になりたい」という一心で日々を生きている。向かいたい場所はなく、ただ逃げるための生存を繰り返す日々。

 私はまだ中学生だというのに、私の人生がこのまま同じように続いていくなら、それは、あまりに寂しくはないだろうか。

 焦がれるほどの夢を持ちたい。心に棲む現実主義者に「それでもやってみたい」と張り手をかまして黙らせられるほど、強烈な夢を。どうしたら私は、あの頃抱いた夢を、取り戻せるだろうか。もしもあの頃に……心に偏屈者が巣食う前に戻ることができたら……。

「……」

 私は、先ほど自分が妖精を笑ったことを、ひどく申し訳なく思った。

「君、名前は?」

「横川レイ。あなたの名前は?」

 私の問いかけに、今度は妖精が笑う番だった。

「私は王だ。名前なんてない」

「名前が無いの? 変ですよ、それ」

「変じゃないさ。王様は国に一人しかいないのだから、この国で『王』と呼べば、それは私のことだ。わざわざ名前を呼ぶ必要なんかない。だから名前なんていらないんだよ」

「屁理屈だけど、一理あるわね」

 確かにそうだ。彼の言い振りは一々尊大だが、夢だと分かっているからこそ、それがむしろ愉快で可愛らしく思えた。どうせ、夢から覚めると同時に消えてしまう登場人物なのだ、何を言われたところで、気にすることはない。


「レイか。ラケルが由来だね?」

「ラケル? なにそれ」

「そんなことも知らないの? ラケルはヤコブの妻で、レイチェルとも言う。レイチェルの愛称はレイだ」

「へえ」

 ヤコブという名前はどこかで聞いたことがあるけれど、どんな人物かは知らない。おそらく、聖書に出て来る人物だということは分かるのだが……。

 指にラケルの綴りを(正確な綴りは分からなかったので大まかに)書いてみると、確かに、レイチェルになりそうだった。しかし私の名前が「レイチェル」を由来にしているとは思えない。私の父親はクリスチャンではないし、実母がクリスチャンだったと伝え聞いた記憶もない。

 ギシリと音がして顔を上げると、対面に座った男が、ソファに深く腰掛けるところだった。こちらに寄越す目は、寛大な王様のように優しい。

「レイ。私には、君が何かに悩んでいるように見える。良ければ君の悩み、私に分けてみないか? 私は王様だ、きっと力になれるよ」


 夢が――私の抑圧された願望が、そう言った。

 夢ごときに一体何ができるのか、覚めれば全て消えてしまうというのに。貴方に出来ることは何もない、と言い返そうとして、私はふと思い直す。

 「夢ごとき」だからこそ、出来ることがあるのではないか。どうせ夢であるからこそ、いくら悩みを打ち明けたって、現実には何の影響もない。人の口に戸は立てられないと言うが、夢の住人であれば、いくらでも堅固な戸を立てられる。なにせ、覚醒とともに跡形もなく消え去ってしまう口だ。後に残るのは、「誰かに打ち明けた」という私の達成感のみ。

 自分の心が軽くなるなら、それも良い気がした。

「実は……」


 私は、目の前の張りぼてに、身の上を話して聞かせた。私の置かれた環境や不満、その全てを。

 おとぎ話の王様は、時おり相槌を打ちながら、静かに私の話を聞いていた。

「そうか……それは辛かったね、レイ」

 すっかり話し終えると、張りぼては、ただ穏やかにそう言った。

 簡単な労いの言葉でしかないはずなのに、それだけで、つんと鼻の奥が痛くなる。目頭が湿る前に、思いっきり鼻をすすり、出てきそうになる涙を引っ込めた。

 それは私が本当に求めていたものだった。私はただ人に認められたかったのだ、私の苦しみを。この苦しみを、苦しいと感じることが、決して間違いでないということを。ただそれだけだった。

 瞳を湿らせる私に、妖精は目尻をやわらげて優しい声音をかけた。

「レイ、君が望むなら好きなだけここに居て良いよ。君の義母や、君の父、君の友人たちは、君を厭わしく思っているようだけど、私は君を歓迎する。ここには君を悲しませるものなど何一つ無い。もし君が居てくれたら、私はとても私は嬉しい。彼らだってそうだ」

 男が指をさした先で、立派な騎士や、綺麗なメイドが恭しくお辞儀をする。彼らの目は一様に慈愛を湛えており、私の心の柔らかい部分を包み込むようだった。


「私たちが君の帰る場所になろう。君が望むなら、私達は無条件に君を受け入れるよ」

 彼の言葉を聞いているうちに、頭が、霞でもかかったようにぼんやりとしてくる。お酒を飲んだことはないけれど、飲めばこんな感じなのだろう。まるで酒気にでもあてられたように、酩酊に似た幸福感が満ちる。

 夢はいずれ終わるもの。だがもし彼の申し出を受け入れたら、私はもう少しこの夢の中にいられるのだろう。不思議だが、この時の私にはそんな確信があった。

「私は……」

 彼の誘いに頷こうとした、その時のこと。

 『心配だよ』――そう言って、情けなく眉を下げた少年の姿が、思い浮かんだ。

 まるで私を引き留めるかのような、突然のフラッシュバックに、私は正気に戻る。


 ――何を、馬鹿なことを考えているんだろう、私。

 頭にかかっていた靄が、スゥと晴れていく。

 夢に追い縋って、一体どうするというのか。しっかりしろ。夢は私を守ってはくれない。その場しのぎの、無責任な救いでしかない。幻想の王様にすがったところで、現実の私は、何も救われないのだから。

「いえ、もう帰ります」

 きっぱりとそう言うと、妖精は少し驚いて様子で目を瞬かせ、やがて残念そうに肩を竦めた。

「そう、じゃあ気を付けてお帰り。もしまた辛くなったら、いつでもおいで。私は君の味方だ。いつだって歓迎しよう。今度はとっておきのお菓子を振る舞うよ」

 王様は、うっそりするほど美しい笑みを浮かべて、ひらひらと手を振る。そのシーンを境に、私の視界は真っ暗に狭まっていった。



 ピピピピピッ


 スマートフォンのアラームが鳴り、私ははっと目を覚ました。

 がばりと起き上がると、キーンと耳鳴りが響き、心臓がいやに騒いでいた。

 いつもは夢の内容など起きた瞬間には忘れ去っていて、「何か夢を見ていたかも」という曖昧な実感だけが残るというのに。今回は、夢の内容をはっきりと覚えている。

 あの甘ったるい声が、余韻のように耳に残っている。またいつでも来て良い、と言った男の声が。

 どうやらあの夢の世界に、未練があるらしい。無条件に自分を受け入れてくれる、あの妖精たちに。情けないことに、私の中には後悔が残っている。もし夢に留まる選択をしたら、夢から覚めずに済んだのではないかと、ついつい残念に思ってしまうのだ。それを未練と言わず、何と呼ぼう。


 サワサワ

 葉擦れの音がして頭上を見上げると、夕暮れで真っ黒になった木が、のっぺりと私を見下ろしていた。まるで上から私を覗き込むように。

 ――何だろう。少し、気持ち悪い。

 そう思ってしまうのは、きっと夕陽が木陰を濃くしてしまっているせいだ。私は時計を見て、さっさと身体を起こす。

 さあ、もうバイトに行かないと。荷物を持って、私は公園を後にする。

 ポツリと立つ黒い木が、じっと、その背を見送っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る