「D」「A」1ー1

 甘い石鹸の匂いがした。


 石鹸はスラムでは消費物とは思えない貴重品で、とてもじゃないが毎日使える代物じゃない。母はそれを朝晩と無駄に使うから大変だった。


 愛していたのだなと思う。いつでも会えるよう、迎えがきたときのために。

 あのとき思わなかったことを、今になってそう思うようになったの何故だろう。

 

 目を開けると、高く広い天井窓が見えた。

 窓を埋め尽くすような星々が輝いている。死後の世界にしては綺麗すぎると思った。同時に自分は死ななかったのだと自覚した。身体に包まれる布団の温かさとともに、身体の傷が思い出したかのように痛みだしたからだ。


「よかった。大丈夫?」


 そう声を掛けられて、目だけを向ける。

 ベッド脇には心配そうなまなざしを送ってくるアイシア・クリュフの姿があった。

 どうしてか、彼女が近くにいることに驚かなかった。写真ではなく実物を前にして、自分とは似ていないなと思うほどに落ち着いていたくらいだ。

 良い香りの出所は王女さまからだったか。私は動こうとするも負った傷がそれを許さず、信じられないほどの激痛が頭の芯を揺らした。


「動いちゃだめ。重傷なんだから」


「……試合は」


「クムラ大佐の号令で止められたわ。ユーラス大尉の勝利で」


 アイシアはお姫様とは思えない、険しい顔で言った。

 あれをユーラスの勝ちとするのは観ている者からすれば気持ちよくはないかもしれないが、結局は私が勝ちを逃したのが原因だ。私自身は不満のない結果だった。命を拾っただけでも運が良い。


 そこで「姫」と彼女を呼ぶ声がした。ドレスとメイド服を足して二で割ったような服装の女だった。ピンと背筋を張った姿勢に厳格な眼光は、兵士とは異なる長年の経験を表しているように見えた。おそらくは宮中女官だろう。


「医者を呼びます。姫は自室にお戻りを。もうすぐ勲章授与式が控えていますので」


 周りを見る余裕が生まれた私は、ようやくここが病室ではないことに気がついた。おそらくは王族が使用する専用個室である。勲章授与はインペリアル・パールスが行われた次の日に行われるから、私は丸一日眠っていたということになるのか。


「ケイリー、ダリアと二人で話がしたいわ。席を外して」


「いけません。あなたがいまここにいることすら、国王の命令に背いているのですよ」


「話をするだけ。五分でいいから」


「姫、聞き分けを」


 そのとき、アイシアは無言でケイリーを見つめた。単なる少女の凄みならば経験豊かな女官が遅れをとるはずがない。だがそれは向けられていない私ですら、畏怖の念を抱く眼だった。


 下がれ。


 込められた威圧はまさに国王の威厳。

 シリスの言った通りだと思った。王国始まって以来の才女は伊達ではない。見た目は年相応の少女だというのに、これが生まれ持った王の素質というやつか。

 ケイリーは躊躇ったものの、一礼して部屋を後にした。その顔は憂鬱さを滲ませていたが、どこか嬉しそうにも見えた。

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