「D」3ー3

 ケイトスが水の入った布袋を投げて寄越してきた。

 人に投げ渡す速度ではなく、反応はできたものの衝撃は殺せず身体に当たって落ちた。落ちた布袋を拾って無意識にため息が漏れる。ケイトスはそんな私の様子を見逃さなかった。


「集中力に欠けるな。お悩みがあるなら聞いてやってもいいぞ」


 からかうような口調に、むっとしながらも私は躊躇うことなく話していた。このときの私は、自分自身の殻に閉じこもる母にまいっていたときでもあった。


「こんな稽古に、意味があるのかなって。無力感があるというか」


 ケイトスの技術を誰よりも自分のものにしている自信と実感があった。けれど自警団に身を置いて、女のくせにと陰口を言われるのは毎日のことだ。その度に負け犬の遠吠えと直接言ってやっているけれど、私も盲目というわけではない。


 力ではやはり男に劣る。

 技術でカバーしきれないと思う場面が何度かあった。これからどう生きるにしても、戦って生きることに限界はくるのではないかと漠然とした不安があったのだ。

 守れなければ死ぬだけだ。私が死ねば母を養うこともできない。あの人は私を罵りながら死ぬことになる。死ぬことよりもこれ以上嫌われるのが怖くもあったのだ。


 割と真剣にいったつもりだったけれど、ケイトスはバカにしたように大笑いしてきた。


「バッカだねぇー。そんな小さいこと考えてたわけ?」


「男にはわからない」


 そう突っぱねると、ケイトスは私と同じ布袋から水を飲んでから言った。


「ダリア、お前には才がある。もっと極めればどんな男にも負けないよ。俺が教える剣は女に向いてるからな。最初にそう教えたろ」


「でも、片手のあんたに一度も勝てる気がしない」


「お前、俺は神さまだぞ。同じレベルで語るな、おこがましい」


 どれだけの自信家だとツッコみたいが、私は顔を背けて無視を決め込んだ。

 そんな私をみて、ケイトスは呆れ混じりに言った。


「女であることが不安ならもっと技術を磨け。自分を守るためにな。あとは母親のためか。そのために稽古つけてやってるんだぜ」


「……どうしてそこまでしてくれるの」


 生き残る術があるというのは願ってもいないことだった。技術がなければ、若い女の生きる道なんて限られてくる。だからこうしてケイトスの厳しい稽古にも身を投じていた。

 けれど、彼がここまで私に時間を使う理由がわからなかった。才があるだけの好奇心だけでは説明ができないほどの時間と労力を彼は割いていたのだ。

 ケイトスは初めて気がついたというように素朴な顔をして、独り言のように呟いた。


「多分、お前が俺に似ているからだろうなぁ」


「なにそれ。気持ち悪い」


「ははっ。まぁ喜んでもらっても困るな。俺とお前は悪いところが似ちまってるんだ」


「……どんなところ?」


「世の中を憎んでるところ」


「スラムの人たちは、みんなそうでしょ」

 

 何かから追われて。逃げて。捨てられて。

 そうして流れ着くのがこのスラム街だ。私たちは誰だって、何かを憎んでいる。


「そうだな。でもお前が一番憎んでるのは自分だ。違うか?」


「……」


 ケイトスは木刀を持って、その切っ先を見つめた。


「俺は五歳のときに親に捨てられて、孤児院で育った。城下街の外れにあるところでそこそこ良くしてもらったよ。でも劣等感が消えなくてな。俺が俺じゃなかったらって、時々思っては一人で泣いたもんだ」


 共感が持てた。それは私の根底にある気持ちと合致している。

 私が生まれなければ。その気持ちが、壊れていく母を見るたびに膨れあがっていく自覚があった。


「それで……あんたはどうしたの?」


「がむしゃらに戦った、かな。よく生きてたなと思うよ。けど、自分を見失ったままの時間はなんの意味も持たないんだ。片腕が無くなって、人を巻き込んで、死なせて、ようやくそれに気がついた」

 

 自然と私の視線は肘から下のないケイトスの右腕へと移った。


「それで私に剣を教えるのは矛盾してない?」


「生きる術は必要なんだよ。俺たちみたいな奴らにはな」


 そういうと、ケイトスは地面に座っていた腰を上げて立ち上がった。


「ダリア、己を憎むなとは言わない。けど自分は見失うな。俺が教えるのは、お前を生かすための剣だからな」


「本当に必要かな、それ」


「必要になるさ。いつかきっとな」


 そう言った彼の笑顔を鮮明に覚えている。

 幾重の感情による奥行きのある顔で、これまで生きてきた彼の経験がそのまま表されているように思えた。

 

 その数年後、ケイトスは突然姿を消した。誰にも何も告げず、少なかった私物を何一つ持たないままで。


 彼の存在は街にとって大きかったが、誰も探そうとしなかった。流れ着くのも、再び流れていくのもスラムには珍しくなかったから。それがスラムで生きるということだった。

 私も彼を探そうと思わなかったけれど一抹の寂しさは募った。いまでもふとしたときに、あの人の笑顔と私の名を呼ぶ声を思い出す。

 

 いまの私を見たら、ケイトスはなんていうだろうか。


 叱られるか。笑われるか。


 叶うのなら、全てが終わったあとに答えを聞きたかった。そうすればこの世に思い残すことはなかった。けれど、それが届かない願いだということはわかっていた。


 願いは叶うよりも、一人で想うくらいでちょうどいい。


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