「私の」
有城もと
本文
あれから半年が過ぎ、飾り気の無い無地の封筒を見つめながら、私は織江の言葉を思い返していた。
「あのね、仁美。私ね、私が死んだら、全員取り憑いて殺すの。絶対に。そのための勉強も、たくさんしたから。ずっと覚えておいて。それから、お手紙、ちゃんと読んでね」
そういった翌日に、織江は死んだ。もっと好きな本の話をしたかったのに。もっと一緒に絵を描きたかったのに。それなのに、織江は桜舞う春の校庭に向かって、飛び降りた。
織江がいじめられ始めたのは些細な事だった。物静かで絵が好きだった彼女は、ある日クラスメイトに似顔絵を描いて欲しいと頼まれた。栄子、美樹、千佳の三人だった。彼女たちはクラスの中でも声が大きく、有り体に言って、一軍の子達だった。
自分の好きなことが認めてもらえたと頑張った彼女が描いた絵は、素晴らしかった。湖面に浮かび、渦を巻くように配置した花弁。並ぶ三人は抽象的だが熱量のある描き口で、命を感じる美しい歪さだった。私は素直に感動したが、その絵は彼女たちが求めていたものと、方向性が違っていたようだった。
次の日、乱暴に引きちぎられた画用紙が、彼女の机を飾っていた。それが、始まりだった。
ある日は、移動教室の間に織江の持ち物が全て教室から消えていた。栄子が持ち去り、学校のすぐ裏で悪臭を放っている用水路に放り投げたのだった。
織江は体中を汚泥まみれにしながら一つ一つ拾い上げ、家へ持ち帰った。表情一つ、変えずに。
ある日は、織江のロッカーが女子用汚物入れの中身で溢れかえっていた。美樹が火ばさみを使って運び、休み時間の間に押し込んでいたのだ。
織江がそれらを片付ける様子は撮影されて、三人とその取り巻きに飽きるまで笑われていた。
ある日は、織江と千佳が階段の前で楽しそうに話し合っていた。お風呂はいってる? なんか臭くない? 喋れないの? オタクって楽しい? なんで生きてるの? いつ死ぬの?
いつの間にか栄子と美樹も加わり、笑いの絶えない質問責めは何故か織江が数段転げ落ちるまで続けられた。
そんな日々が半年程続いたある月曜日に、織江は死んだ。
翌週には誰も織江の話をしなくなり、唐突に出来た空席が撤去された事を合図にしてクラスは平凡な日常へと戻っていった。
殺すから。座席があったはずの場所を見つめながら、私は何度も織江の言葉を思い返した。殺すから。けれど、あいつらは死んでいないし、普通に生きている。殺すから。彼女が死んだ場所で、誰かが生きている。殺すから。
何事もなかった顔を出来るその思考回路が、どうしても私には分からなかった。
もう一度封筒を見つめ、深呼吸をしてから私はハサミを動かした。
封筒の中には四つ折りにされた紙が一枚。ざらついた分厚い手触りで、画用紙だと分かった。
「ひっ」
摘んで広げた途端、私は小さな悲鳴をあげて紙を滑り落とした。
最初の印象は、紙一面の黒塗りだった。しかしよく見れば、それは全てを異常な程濃く描いた人物画で、描かれている人物は、恐らく織江自身だった。
薄く開いた口は何かを言いたげで、虚ろな目は笑顔とも、悲しみとも取れない灰色をしていた。
耳の奥にどくりどくりと脈動を感じる。喉の奥が張り付いて、息苦しい。
私は、拾い上げた絵をじっくりと見つめてみた。そうしなければ、いけない気がしていた。
そして私は気がつき、全身を震わせた。
どうやって描いたのかは分からない。ただ、漆黒に見える線の一本一本は、見たこともない極小の文字の集まりだった。日本語には見えない。どこの言語にも思えない文字。
ぐねぐねと渦を巻く漆黒に、私の目は一度の瞬きすらも、出来なかった。
「ねえ、やばいよ絶対おかしいって」
教室はその話題でもちきりだった。ある雨の日、栄子が用水路の中で死んでいるのを生徒が見つけたのだ。不慮の事故という事になっていたが、栄子はその道を使うことがなく、ずぶ濡れの生徒が歩き去るのを見たという人物も現れ、彼女の死はあっという間に織江の呪いだと騒がれた。
ざわめきの中、私の胸が一つだけ、すっと軽くなった。怖くはない。やっと、始まっただけだったから。私は胸ポケットに畳んで仕舞った画用紙を、何度も何度も撫でていた。
美樹と千佳の死は、栄子の死が落ち着き始めた、二週間後の事だった。私が教室へ入ると、火がついた様に皆大騒ぎをしていた。人気の無いトイレの個室で、美樹が窒息死しているのが見つかったからだった。
女子トイレの中で喉を掻きむしって死んでいた美樹の気道には大量の生理用品が詰め込まれていて、その表情は抽象画のようにねじ曲がっていた。何人もの教師が廊下を駆け抜け、救急車とか警察とかそんな事を叫んでいた。
短い間に二人の死亡者が出た事で教室はパニックに陥り、生徒たちはあちこちで興奮と恐怖の声を上げていた。混ざりあった声は膨らみ続けて、部屋の中をぎゅうぎゅうに圧迫している。
私がその様子を眺めていると、私の口角は持ち上がり、私の手は口を押さえて笑いを噛み殺していた。
「やめろよ! やめてよ! ごめんなさい、ごめんなさい!」
半狂乱になった千佳は自分の机を押し倒し、叫び声を上げながら教室を飛び出していった。私の身体はその姿を見るなり立ち上がり、彼女の後を追いかけていた。これで最後なのだ、絶対に見逃すわけにはいかなかった。
そうなることが必然であるかのように、千佳はいつか織江を追い詰めた階段へと向かっていた。どこへ行くか分かっているから、走る必要は無かった。よろめきぶつかりながら走る千佳の背中を静かに追う。
「お前なんなんだよ! 見てんじゃねえよ!」
階段前の壁にもたれながら喚き散らす千佳は、青ざめた顔で両肘を抱き、啜り泣いている。
「消えろ! 消えろ! きもいんだよ死」
言葉を全て出し切れないまま、千佳は階段のてっぺんから勢いよく転がり落ちていった。
骨が砕ける鈍い音が灰色の廊下に響いたあと、真っ黒な液体がじわりと広がっていった。不自然に曲がり身体に絡みついた腕や足は、まるで渦の様だった。
やっとだ。私の手に残る感触はじんわりと暖かく、心地よかった。そして私は階段を上がり、屋上の錆びついたドアを、私の手が押し開けた。
静かな屋上の空気を私の胸一杯に吸い込む。振り返ると、私の靴はいつの間にか後ろに揃えて置かれている。
私の手が手すりを掴み、私の足が手すりを跨いで、私の目は私の足先に広がる校庭を見つめている。
私の耳が、囁く声にふうっと冷える。
そこでやっと、私は理解した。
「見てたのに」
そうか、最後は
「私の」 有城もと @arishiromoto
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