十二話 後悔

 ——案の定、俺は授業に遅れた。

 そりゃそうだろう。

 なんせ俺が教室を出た時間が、授業が始まる一分前だったのだから。


 俺は授業の始まりを知らせるチャイムを耳にしたあと、少し時間を置いてから教室に向かった。

 引き戸を開けると、生徒たちの視線が俺に刺さる。

 驚きの視線はすぐに教室のざわつきに変わった。

 生徒の中からは、「あいつがあの芹崎さんを助けたって話だよ」とか、「あの怖い三年生の先輩に立ち向かったんだろ?」などという声が聞こえてくる。


 俺はなるべくその声を聞かないようにしながら担任に近づいていく。


「先生、すみません。あの——」


 どう言い訳しようかと考えながら教科担任の先生に話しかけると、何かを言う前に先生が口を開いた。


「荒巻君か。芹崎さんから聞いているよ、お手洗いに行ってたんだってね。早く席に戻りなさい」

「あっ……はい。ありがとうございます」


 俺は先生にそれだけ言うと、自分の席へと戻る。

 席について芹崎さんの方に視線を向けたが、彼女は真剣に先生の授業内容をノートにまとめていた。


 まさか、俺がいない間に話をつけられているとは思っていなかった。

 それも、芹崎さんが事前にしてくれていたとは。


 ただ、俺は別にトイレに言っていたわけではない。

 彼女は、そのことを分かった上でそう説明づけてくれていたのか……?


 呆気にとられていた俺だったが、すぐに我に返り、とりあえずノートにペンを走らせる。


 だが、周りの声が気になって、俺は5,6時限目の授業は集中することが出来なかった。



         ◆



「ごめん。芹崎さんを一人、教室に置いていってしまって」


 六時限目が終わった放課後。

 俺は芹崎さんに話しかけていた。


「……少し、場所を移しましょうか。祐也君、どこか話をするのに適している場所はありませんか?誰にも話を聞かれないような場所です」

「っ……!」


 そこまで言われて俺は気がつく。

 芹崎さんは、ちゃんと俺のことを分かっていてくれていたんだ。


「……一階、ゴミステーションの近くの扉から中庭に行ける。図書室にも人は来ないけど、放課後は中庭よりも人がいる可能性が高い」

「分かりました、じゃあそこに場所を移しましょう。案内をお願いしてもいいですか?」


 芹崎さんは、口元に優しい笑みを浮かべながら小首を傾げる。

 その笑みに俺は申し訳なく思いながら、「うん」と、芹崎さんから視線を逸らして返すのだった。



         ◆



「先に一つ言っておきますが、あれは別に祐也君が謝ることではありません」


 中庭につくや否や、芹崎さんは諭すようにそう言った。


「でも——」

「確かに祐也君は私を教室に置き去りにしました。ですがそれは祐也君が、このまま教室を出ていってしまったら確実に授業に遅刻をしてしまうと分かっていたから、私を授業に遅れさせないように教室に置いていって下さったんですよね?」


 そこで俺は違和感に気づく。


「……少し違うかな。確かに俺は芹崎さんを授業に遅れさせないために教室に置いていった。けど、そこが理由の本質じゃないんだ」


 そこまで言って、俺は大きく息をつく。

 これから言うことは、捉えようによっては告白まがいなものになるからだ。

 言わないという手もあるが、芹崎さんだって俺の本当の気持ちを知りたがっているはずだ。

 俺があのときどんな気持ちでいたのかを正直に話すために、俺は深呼吸をしていた。


 ある程度落ち着いたところで、俺は再度口を開く。


「……俺は人目のつかないところで落ち着きたかった。芹崎さんには……けど、俺の問題にわざわざ付き合わせることは出来ない。だから、芹崎さんを教室に置いていったんだ」

「そうだったのですか……」


「俺は別に褒められるようなことなんかしてない。確かに芹崎さんを助けたかもしれないけど、でも先輩を傷つけたのは少なからず事実としてあるんだ。芹崎さんを助けるだけなら、もっと他にやり方があった。にも関わらず俺は自分の感情にすべてを任せて、結果的に先輩を傷つけてしまった」


 今思えば後悔しかない。

 なぜ俺は、あんなところで先輩たちにたてついたのか。

 もっと自分の感情をコントロール出来ていれば、あんなことにもならなかった。


 これじゃあまるで、昔の俺みたいじゃないか。

 自分の感情にすべてを任せて、ただ拳を振るう日々。

 あのときはそうでもしないと生きていけなかったが、その行いがいいものかと問われたら俺は首を横に振るだろう。


「本当に、俺はどうして……」


 つぶやいた瞬間、何かが俺の視界を遮る。

 それと同時に、身体に柔らかく、そして温かい感触があった。


「えっ……?」


 俺はそんな素っ頓狂な声を上げてしまう。


「祐也君。さっきは、私を助けてくれてありがとうございます。祐也君のおかげで、私は嫌な思いをせずに済みました」


 、芹崎さんは優しい声音で言う。

 その声から、俺のことを思って言ってくれているのが分かった。


 ……でも。


「感謝をされる義理なんてないよ。芹崎さんを助けたのだって、俺がやりたくてやっただけだ。ただ芹崎さんが嫌がっているのを見ていられなかったから……だから、芹崎さんにお礼を言われることじゃないんだ」


 俺は芹崎さんの優しさを受け取ることは出来なかった。

 受け取る資格がないからだ。


 あのときはまだ自制が効いたからよかった。

 もし自制が効かなかったら、俺はまた他人を深く傷つけてしまうだろう。

 それは、もう何としてでも避けなければならない。

 だから、俺はこんなことで感謝されていいような人間ではないのだ。


「感謝させてください。祐也君は私を助けてくれたんです、その事実は変わりません」


 その言葉に、俺は無言を返す。

 芹崎さんに何を言われようと、俺の気持ちが変わることはなかった。


「……祐也君が何を思って、どんなことを抱えているのか、私には分かりません。でも、祐也君がしたことは褒められるべきことなんですよ」

「……っ」

「悪いのはどう考えても先輩方です。だから手首を捻られるくらい、当然の報いなんですよ」

「……それは」


 芹崎さんの言葉を受けて、心が揺らいでしまっている自分がいた。

 その通りだと思ってしまったからだ。

 悪い立場の人がそれに見合った報いを受ける。

 いわゆる、人間界の常識だ。


「祐也君は優しすぎるんですよ。先輩は、あのとき傷つけられるべき人だったんです」

「……でも」


 何かを口に出そうとするが、俺の口から出てくるのは生温い息だけだった。


「……このままいるべきなんでしょうけど、すみませんが時間なのでそろそろ帰ります」


 そう言って、芹崎さんは俺から離れる。

 その時の芹崎さんの顔は、子供を諭すような優しい笑顔に染まっていた。


「私が言いたいことは、祐也君が気に病む必要なんかないんですよってことだけです。それでは、また明日」

「あぁ……うん」


 芹崎さんは一礼すると、中庭を去っていく。


 ……また、芹崎さんに「またね」を言うことが出来なかった。


 それに、何俺は意固地になっているんだ。

 芹崎さんは俺のことを思ってあんなことを言ってくれたんだ。

 それを、どうして無碍むげにしてしまったんだ。


 どうして、彼女の優しさを拒んでしまったんだ……


 誰もいない中庭で、ただ独り後悔の念に駆られていると、いきなり出入り口の扉が開く。

 俺はそちらの方に視線を向けると、扉から現れた人物は、得意げに口角を上げながら言った。


「おい祐也、芹崎さんの後をつけるぞ」

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