六話 夢と目標
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。またのご来店、お待ちしております」
——気がつけば、空は夕焼けに染まっていた。
蓮も急用が出来て帰って、店にいたお客さん達も次第にいなくなっていく。
そうして、店内には、俺とマスターとミーシャだけが残った。
「祐也君は、テスト勉強大丈夫なのかい?」
洗い物を終えたマスターは、カウンターから出てきて、未だテーブル席に座っている俺の対の位置に腰をかけた。
「大丈夫……かどうかは分かりませんけど、少なくとも赤点は回避できると思います」
「今のうちにたくさん勉強をしておいたほうがいいよ。大人になってからじゃほとんど出来ないし、道はたくさんあったほうがいい」
道……というのは、きっと進路のことを言っているのだろう。
勉強をすれば、偏差値の高い大学なんかにも行きやすくなる。
選択肢が増えるから、その後の人生を選びやすくなるのだ。
「そうですね。自分も後悔しないように、出来るだけしたいとは考えてますが……俄然やる気が起きないんですよね」
なんて言ったって、朝まで死のうかと考えていたほどだ。
この先の未来なんて興味ない。
結局俺は、適当な大学に行って、適当に仕事を見つけて、なんとなく生きて、そして死ぬ。
芹崎さんと一緒に……というのも頭をよぎったが、俺なんかが芹崎さんの隣にいられるわけない。
さっきのセリフだって、マスターには悪いが、あれは建前だ。
もちろん後悔はしたくないが、勉強しておけばよかったなんて思いも、後悔も、いつかは消える。
そんな一時的な思いをしないために今を苦しむのは嫌だ。
俺は、今を楽に生きていけたらそれでよかった。
「……少し訂正する。無理に勉強をしろとは、私は思わない」
「それは、何故ですか?」
急に考えを改めたマスターに、俺は首を傾げる。
「——祐也君は、夢ってあるかい?」
「夢……ですか。今は、ないですね。夢も、目標も、まだ何も決まっていないです」
「そうか……夢や目標はあったほうがいいよ。それが生きがいになるから」
「じゃあどうすれば、夢や目標をつくることが出来ますか?」
俺は生まれてこの方、一度も夢や目標を持ったことがなかった。
作りかたが分からないし……そもそも持とうと思ったこともなかったから。
「いろんな人と関わるんだ」
「いろんな人と、関わる……?」
言っている言葉の意味が理解できずに、俺はマスターの言葉を
「夢や目標っていうものは、何も大学や職業だけにとどまるものではない。こんな人生を送りたい。こんな人と結婚をして、こんな家庭を持ちたい。こんな人と一緒にいたい。いろんなやりたいことが、夢や目標になることだってあるんだ」
マスターはそこまで話すと、一拍を空けて、再度話し始める。
「そして人と関わることが、そのやりたいを生み出してくれるんだよ。いろんな人と関わって、いろんな人を見て、感じて、視野を広げるんだ。そうすれば、自ずと自分のやりたいことが見えてくる」
マスターは穏やかな表情で、丁寧に俺に話してくれる。
……が、申し訳ないことに、俺にはマスターの言っていることがあまり分からなかった。
「マスターは……そうやって自分の夢や目標を見つけたんですか?」
これ以上聞いても俺には理解できないことに気づいたので、俺は最後にマスターに尋ねた。
「そうだね。少なくとも私は、そうやって夢や目標を見つけた。でも、もしかすれば、これは祐也君には合わないやり方かもしれない。まだ時間はあるから、ゆっくりと、自分のやり方で夢や目標を見つけるといいよ」
「……ありがとうございます」
マスターの言っていることは分からなかったが、マスターの俺に対する思いは、なんとなく伝わってきた。
マスターは、きっと俺に後悔をしてほしくないのだ。
マスターは優しいから、後悔して、俺が苦しんでいる顔を見たくないのだろう。
だったら、俺は俺が後悔しないようにやるしかない。
でも、流石に堅苦しい話が続きすぎて、ちょっと疲れたな……。
「……なんだか、空気が重くなってしまったな。祐也君はまだここにいるかい?」
苦笑いを浮かべたマスターは、すぐに表情を戻して俺に尋ねた。
「そうですね。もう少しだけ、ここにいてもいいですか?」
「私はいつまでいてくれても構わないよ。だけど、あまり遅くならないうちに帰りなさい」
「分かりました」
「——カフェラテでいいかい? それとも、他のやつがいいかい?」
話が途切れて、俺がテーブルに上がってきたミーシャを愛でていると、マスターがいきなり俺に質問を投げてきた。
見ると、マスターはカウンターの中ですでにカフェラテを淹れようとしてくれていた。
「あぁ、もう大丈夫ですよ。そんなにしないで帰るので」
「……いや、一杯貰っていってくれ。おじさんのつまらない話を聞いてくれたお礼だ。もちろん、お代もいらない」
「……ありがとうございます。じゃあ、カフェラテを一杯貰ってもいいですか?」
「かしこまりました」
俺が尋ねると、マスターは笑顔でカフェラテを淹れ始めた。
あんなマスターを見たのは、初めてだった。
普段ならあの言葉でマスターは引くはずなのに、今回は食い下がってきた。
その驚きは、思わず言葉が出てこなかったほどだ。
なんでなのだろうか?
俺は頭に疑問符を浮かべるが、ふと毛づくろいをしているミーシャを見ると、そんな疑問もどうでもよくなってしまうのだった。
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