第一章 4

 かつては客間であった母の仕事部屋は、現在は居間でもある。敷物の上に真鍮の盆をふたつ並べて、ティセは毎晩母とふたりで夕食をとる。部屋の主はあくまで足踏みミシン、新しい布地や糸を汚さぬよう、日々の食事は片隅で行われる。盆の横に置いたランプの灯りに寄り添うようにして、母娘はぽつぽつと会話をしつつ静かに食事をした。献立は毎日ほぼ変わらない。白米と豆や野菜の煮込み、漬け物、乳酪ヨーグルト、たまに肉料理、この村ではどこの家でも同じような内容だ。

 食べながら、外国人がいたと告げると、それについては母も知っていた。夕方、近くの商店へ行った際に聞いたという。おそらく、村中の多くのひとが知っているだろう。つまらない噂話が半日で広がるような村なのだ、めずらしい外国人の目撃談など、一瞬で村を駆けめぐる。そして、いまふたりがしているふうに夕食のおかずになる。明日は休日だが、明後日登校すれば、教室のなかはリュイの噂で持ちきりに違いない。

 けれど、実際に話しかけてみた同級生はいないだろうとティセは思う。少なくとも中等部にはいないはずだ。自分ですらあれほど萎縮し気後れしたのだ、彼らの好奇心と勇気が、動揺や警戒心を打ち負かすはずはない。ナギのような分別のまだ足りない子供なら別だとしても。

 ふたりきりで話をした、と口にすると、母は白米とおかずを混ぜる指の動きを止めて、途端に眉をひそめた。若干声を尖らせて、ティセをたしなめる。

「やめてよティセ、外国の人に無闇に話しかけるなんてとんでもない、危ないわ」

「でも、同じくらいの歳の子だったよ」

「でも駄目よ、あなた女の子なんだから、もうやめてね」

 心からうんざりした。構わず溜め息をもらすと、急に腹が満ちた気がした。母はまだ食事を続けているけれど、待つ気も失せてしまった。ごちそうさま、とつぶやいて、自分の盆を台所へさっさと下げる。食後の茶を沸かしもせずに、ティセは自室へ引き上げた。



 しばらくたったあと、裏庭の井戸の前で洗いものをした。夕食の後片付けだけはティセの仕事と決まっている。足首ほどの高さの木の腰かけに座り、竈の灰と水をかけつつ粗い布地で皿を洗う。日中の日差しに温められた瓶の水は心地よい冷たさだ。まだ月が顔を出さないため、裏庭はとても暗い。それでも、毎晩のことだから目を瞑っていても後片付けはできる。

 最後の鍋に取りかかっていると、背後からよく知った声がかかり、ティセをどきりとさせた。

「ティセ!」

 なにも返さず固まっていた。やきもきとした声がもういちど呼ぶ。

「ティセ! こら! おまえさん、こっちを向かんか!」

 ティセは観念した。

「……校長、家庭訪問なんて反則だろ。しかもこんな夜中にさ」

 諦念の溜め息をついて立ち上がる。数日前からティセを探し回っていたという校長は、痺れを切らせて家庭訪問という手段に出たらしい。暴挙だ、とティセは唇を噛みつつも、当てつけがましくふんぞり返る。校長はティセの頭を小突くと、

「なにが反則なもんか。校長室に来いと聞いただろう、何故来ない!?」

 ふてたティセは横を向き、

「来いと言っていたのは聞いたよ。だけど、俺は行くなんて言ってない!」

 やれやれ遣り切れない、と校長も溜め息をついた。とにかく、ここで話はできない。すべて母に聞こえてしまう。ティセは校長を近くまで連れ出すことにした。気持ちを汲んだ校長は、快く提案を受け入れる。

「片付けが終わるまで待っとるぞ」

「いいよ、もうほとんど終わったから」


 家の前の通りを少し歩いて、小川のそばにある小さな祠の前まで来た。星明かりの下で、二者面談が始まる。ティセは校長の顔を見もせずに、

「で、今日はなに?」

 故意に伸びをしながら、どうでもよさそうに尋ねた。退屈でたまらない、というふうに。今日は……と言ったのは、二者面談は初めてではないからだ。どころか、月に一度は校長室へ呼ばれている。けれど、二年前までは週に一度だった。二年前の、あの事件までは。

「校友会なら行かないからね」

 先に釘を刺したつもりだったが、少し的が外れていたらしい。校長は口髭のある丸い顔ににやりと笑みを浮かべ、

「わしはそんなこたぁ言っとらん。ラフィヤカには、おまえさんがこれ以上孤立しないようそばにいてやってくれと言っただけだ。……もっとも――――」

 校長は、ほっほっほ、と高い声を上げて笑ったあと、

「おまえさんが晴れ着を着て踊る気があるというのなら、ぜひ行けと言うがなぁ」

 神経を逆撫でする悪い冗談にカッとして、思わず唾を吐いた。校長は余裕綽々に「これこれ」と行儀の悪さをたしめなる。ティセはいらだちのこもった声で、

「じゃあなんなのさ!」

 眉をしわめて校長を睨む。すると、校長はにわかに真面目になって、

「おまえ、二年生に進級してから何度授業をさぼっとる?」

 顔つきも口調も真面目なのに、皺の刻まれた目尻だけは優しく微笑っていた。そんな校長を前にして、ティセはさらにふて腐れる。

「……覚えてない」

「一年生のころは宿題はさぼっても授業はさぼらんかったな」

「…………」

 ティセは視線を外し、気持ち唇を引いたまま意味もなく祠を見つめた。暫し、沈黙が流れる。涼やかな小川のせせらぎが闇に響いていた。やがて、校長は普段よりいっそう温かみのある声で、ティセに呼びかけた。

「ティセや……」

「授業に出たからなんだっていうんだよ!!」

 突如火が点いたように、ティセは両腕を振り下ろし蹶然と反論を始めた。

「勉強したからどうなるっていうんだよ!? 勉強したらこの村がなにか変わるの? 退屈が消し飛ぶの? ここから出て行けるの? どこか別の町に行って違う人生歩めんの? できないんだよ、そんなこと!! 卒業したってジャールに通いで働きに出るくらいが関の山だ。カイヤやプナクだったらいいよ、あいつらだったら、金さえあればどこだって行けるだろう? 許されるんだろう? だけど、俺じゃ駄目なんだ! 無理なんだよ、そうだろう!?」

 校長の目を凝視して、ティセは吠えた。その目尻の優しさに反発と切なさを感じながら、声を荒らげ吠えまくった。自身、言っていることがすべて正しいとは思っていない。けれど、少なくとも本音ではあった、そしてティセにとっては真実だった。ひと息にぶちまけてしまうと火は急に衰えて、あとは一転黙りこくる。なんだかどっと疲れていた。

 反論を正面から受け止めた校長は、すぐには言葉を返さずに、押し黙ったティセを慈しむように見つめていた。その眼差しは目尻の優しさ以上に、反発と切なさをティセへもたらせる。そんな目で俺を見ないでよ、心のなかで叫んだ。

 校長はおもむろにその場へしゃがみ込むと、腰に下げた革の小袋から煙管を取り出した。そして、男の伝統衣装である、上衣に重ねた胴着の衣嚢から煙草の葉の包みを出して、のんびりと葉を詰め始めた。もう帰りたいのに、と思うけれど、まだ話があるようだ。校長を無視して帰れるほどまで、ティセはひねくれていなかった。マッチを擦って吸い口から息を吸う、ほどなくして、さも旨そうに煙を吐いた。

「あのなぁ、ティセ。確かにおまえさんがこの村を出て行くことは、カイヤたちよりはずっと難しいだろう。おまえの母さんのこともあるし、村のひとの目もあるなぁ。だが、絶対に不可能ではない」

 ティセは低く、吐き捨てるように、

「無理だよ」

「そんなことはない。いまのおまえだから不可能に思うだけだ」

「…………」

「勉強したからどうなんだということは、この際問題じゃない。いや、もちろん勉強は素晴らしい、したほうがいいに決まっとる。だけど、おまえさんの場合はそれ以前の問題だ。なにか変わるのか、といま言ったが、変えるのはおまえ自身だ。おまえが周りのすべてを変えるんだ。ふて腐れて授業をさぼっとるようじゃ誰もおまえを認めない。それじゃあなにも変わらない。母さんの意識や、周りの評価を変えるのはおまえ自身だ。おまえさんの力量しだいなんだぞ」

 反論の余地のないまったくの正論だ。そんな話をされても意に染まず、不満は募るばかり、ティセは下を向いてただ聞いているしかなかった。


 諭し終えると、校長はゆっくりと煙管を口にして大きく煙を吐いてから、それとなぁ……と続けた。

「先日、カイヤが懲りもせず校長室にやって来おった。ったく、困ったもんだ」

 口ぶりから、またなにか悪さをしたのかとティセは思った。二年ほど前まで、週に一度の呼び出しをくらっていたのはティセだけではない。ティセを筆頭に、カイヤ、プナク、ラッカズ、スストの四名は校長室のお得意様だった。週に一度の説教は五人にとって授業の一環のようなものだった。いまだに彼らは、たまになにか悪さをして校長室へ呼び出されているそうだ。ティセの呼び出しは月に一度になったが、彼らとは別口で、内容もいまは説教ではない。

「またなんかやらかしたの?」

 無頓着な口調で尋ねたティセを見上げて、校長は白髪の交ざった口髭を押し上げるようにして笑った。

「おまえについての相談だった」

「……っ!」

 思いもよらない答えに胸の奥を突かれて、ティセは立ちすくんだ。不機嫌に歪んでいたその顔が、心の一等やわらかいところを突かれて素に戻る。罪悪感、やるせなさ、謝意や愛しさが込み上げて、こぼれそうなほど表情に表れてしまった。不意を打たれて、にわかに神妙になったティセの顔を見上げ、校長はしてやったり、とほくそ笑む。こんな顔を見せてしまったら、もう生意気な態度ではいられない、校長は本当にひとが悪い、ティセは決まりの悪さに目を細めた。そんなティセが可愛くてしかたがない、という目をしながら校長は続ける。

「心配しとるのはカイヤだけじゃないぞ。ほかの三人も同様、やつは代表でわしんとこに来たんだ。やつは、おまえさんがそのうち自殺でもしちまうんじゃないかって、本気で言っとったぞ」

「自殺!? なに言ってんだ! 死んだらおしまいじゃないか!」

 驚いて大声を上げると、校長もうなずいた。

「心配し過ぎだと言っといた。おまえさんはそんなことはしない。ひとの死の痛みを、ひとより余計に知っとるんだから……」

 校長の目に寂しさが過ぎる、ティセの亡き父は、校長の教え子だった。

 四人の友人の顔がありありと浮かんだ。どうしようもない想いで一杯になる。熱いものが鼻の奥まで込み上げた。もう長いこと故意に遠ざけているのに、あいつらは……ティセは奥歯を噛みしめて涙を堪える。

「しかしな、なんだっておまえさん、やつらを避けとるんだ? 呆れるほど仲良かったじゃないか」

「…………」

「むろん、ラフィヤカは良い子だし、あの子も本当におまえさんを慕っとる。あの子と仲良くするのはいいが、いままでの友達から離れることはないだろう。それにこう言ってはなんだが……あの子とはあまり話が合わんだろ、ティセ。わしはどうしてもそれが解せん」

 疑問はもっともだった。彼らを避けなければならない特別な理由など見当たらないのだし、自分でもよく分からなかった。なんとなく分かるのは、二年前のあの事件がきっかけだということだけだ。自分ですら分からずに、心が命じるまま彼らから遠ざかった。

 そして言うとおり、ラフィヤカといてもたいして楽しくはない。いかにも少女らしいその話題は、ティセに何の興味も抱かせない。ティセの素っ気ない態度に文句を言いながら、それでもラフィヤカは充分すぎるほど慕ってくれる。ラフィヤカの優しさに、ティセはただ甘えているのだった。


 満月に近い月が東の空へ顔を出した。大きく、橙色に染まり、春の夜を照らし始める。ぬくもりのあるその色が、ティセの目に、疲れた心に、染みわたる。心持ちをしおらしくさせて、ティセはゆっくりと口を開いた。

「……俺、どうしていいのか、もう分かんないんだよ」

 真率に気持ちを語り出すと、校長は煙管を叩いて火を落とし、靴の裏でもみ消した。立ち上がり、同じ目の高さになって、ティセの話に耳を傾ける。

「最初は分かっていたような気がする。だけど、もう分かんなくなっちゃった、なにから手を付けたらいいのかさ。母さんが困り果ててるのも、あいつらが傷ついてるのも……村のひとが不良だって呼んでるのも、知ってるんだよ」

「授業をさぼるのが自分のためにならないこともな」

 素直にうなずいた。友人にさえ本音を語れなくなったティセが、校長の前でだけ、こんなふうに素直になれることがあった。亡き父をよく知っていて、自分の気持ちを誰よりも理解してくれる校長を、祖父のように思っている。校長はあまりにもあたたかい、ティセは校長を心から敬愛していた。

「もう――――いやになっちゃった」

 夜空を仰いで、大きく溜め息をついた。校長も無言で空を眺めている。今日も空には満天の星。心を少しだけ穏やかにさせたティセの耳に、小川のせせらぎがより清かに聞こえる。せせらぎを伴奏に、星々は軽やかに瞬く。満天の星が瞬くさまは、まるで夜空が、夜の精霊たちが、くすくすと笑いささめいているかに見える。はるか北方に連なる神々の山の頂きが、月明かりを受けて冴え渡る。美しい春の夜、この村の風景に吐き気をもよおすティセも、いまは素直にそう感じた。

 この降り出しそうな星々の下で、あの少年はもう寝ているだろうか。ティセはふと、リュイを思い出す。星の下、風のなか、沙羅の大木に見守られながら、不思議なの笛を襟もとに忍ばせて、眠っているだろうか。


 …………あいつと行けたら、なにがあるだろう。


 頭のなかでなにげなくつぶやいた。そのとき――――ティセのなかに「種」が生まれた。米粒ほどの小さな種だ。突然生まれた小さな種は、けれど確実な存在感をもって、ティセに大きな違和感を抱かせた。にわかに全身が硬直する。種は生まれた途端、ティセのなかに素早く着床し、次の瞬間にはもう、根を張り出した。内に秘めた想い――――希望や欲求、好奇心、探求心、憧憬、夢、さらには不満、憤り、絶望、逃避願望……――その他あらゆる想いを種はぐんぐん吸い上げて、まじろぐ間もなく成長し、全身に根を張り尽くす。発芽する。いきなり背中を撫でられたように、ティセはぞっとし肌を粟立たせた。

 駄目だ! 駄目だ、やめろ……――――!!

 心はそう叫んでいた。この種からなにが生まれるか、生まれてしまうのか、ティセはすでに気づいている。そして、生まれた想いに抗えないことも、知っている。全力で否定し、摘み取ろうともがいてはみるけれど、種はすさまじい熱を放ち、とても手が付けられない。つま先から髪の先まで成長し続け、ティセを支配する。足元から頭頂へ、痺れが駆け抜けていく。変わらず空を仰いでいたが、見開いたその目はもう、星々の瞬きを映してはいなかった。涼やかな小川のせせらぎも、耳には届かない。完全に囚われた。ティセはすでに、虜だった。

 火傷しそうに熱いものを抱き、ティセの瞳は高熱で寝込んだときのようにぼんやりとしていた。空低く輝く月を見遣る。いましがたぬくもりを感じた橙色が、生まれた想いと昂ぶりに呼応して、ひとを惑わす魔物の色に見えた。なかば呆然として、つぶやいた。

「……俺が家出でもしたら、みんな、どれくらい心配するかなぁ……」

 月に目を向けるティセの横顔を見ながら、校長は呆れ顔で微笑う。

「どうしようもないから逃げるのか? 母さんをひとり置いて? あほう、おまえにはそんなことはできやせん」

 校長はもういちど夜空を見上げて言った。

「わしは知っとるぞ。おまえさんが本当は、呆れるほど優しくて、莫迦がつくほど正直で、糞がつくくらい真面目なことを、な」

 そして、ティセの額を人差し指で弾いた。ティセは浮かされた瞳を見られないように、痛いよ、と目を瞑る。



 自宅へ戻ると、母はランプの灯りに貼りつくふうになって手縫い作業をしていた。身をこごめ手元を見つめる母の姿は、普段より小さくか弱く見える。なるべく目を合わせないよう、仕事部屋の入り口からもう寝るとだけ告げた。

「おやすみなさい、母さんもそろそろ寝るわ」

 いつもどおりの母の笑顔を目の端にとめて、ティセは言いようのない思いが込み上げた。薄暗い部屋にどっしりと構える足踏みミシン、明日の休日にも、母は変わらずミシンを踏み続けるつもりだろう。ただひとりの娘のために。


 自室で毛布にくるまった。いろいろなことが雨上がりの小川の流れのような速さで思い出され、過ぎていく。初等部のころの楽しい思い出、父の死、あの事件……。たくさんの顔がつぎつぎと浮かぶ。自分に向けられたぬくもりを顧みる。ラフィヤカの気遣い、カイヤたちの友情、ナギの兄事、校長の慈愛……。それから、小さな笛と不思議な音色、沙羅樹の下の異国の少年。旅という言葉。父の見た夢――――。

 心がざわめいている。嵐の森のように轟音を立てている。いまだかつてないほどに興奮している。とてつもなく興味深く、とてつもなく残酷なリュイの話を聞いて、今晩は眠れないほど滅入るのだ、そう思っていたのに、ティセはいま動悸を激しくさせていた。心臓は壊れそうに早鐘を打ち、手も足も震えていた。全身の血が滾り、目の前がぐるぐると回り出す。あまりの昂ぶりに本当に気を失いかけ、慌てて枕元の水差しの水を飲んだ。直接口をつけて一気に飲み干せば、今度は内臓を突き上げるような不安に襲われて、呼吸困難に陥った。……落ち着け、落ち着け……母さんに気づかれてしまう……毛布を被って、必死に息を吸った。


 母が自室へ戻った音が聞こえてから一時間ほどたった。きっともう夢のなかだ。頃合いを見計らい、ティセはソロソロと布団から抜け出した。四つん這いになり、部屋の隅まで這っていき、ブリキの道具入れを静かに開ける。少しも音を立てずに中身を右手で探り、目当てのものを探し当てる。金属の冷たい感触を手のひらに感じた。それを握り締めたまま、つぎは窓辺へ這っていく。

 中空に上がった月は白く輝き、小さな窓から敷物の上を四角く照らしている。ティセは差し込む月明かりのなかに、そっと右手のものを照らす。銀色の、使い古した方位磁石。父の遺した方位磁石だ。清冽な月の光を受けて、銀色が冴え冴えと輝いた。

 ……父さん……

 声にならない声で呼ぶ。万感の想いを込めて、方位磁石をじっと見つめた。

 校長は言った。呆れるほど優しくて、莫迦がつくほど正直で、糞がつくくらい真面目だと。優しいかどうかは分からない、けれど、正直で真面目なのはある意味自覚していた。胸の奥に湧き上がるさまざな思い、感情を、ティセは曖昧に流してしまうことができない。自分を欺けない、誤魔化せない。こうして内に籠もって孤立したのも、正直さと真面目さのせいかもしれないと思えた。

 校長は言った。おまえにはそんなことはできやせん、と。確かにできなかった。くり返す日常をやり過ごすのがどんなに苦痛でも、この村の景色に反吐が出てさえも、ナルジャの道の行く先を胸一杯の憧憬を込めて見つめても。母をひとり置いて出て行くなど、できるわけがなかった。


 ――――だけど、校長。今日だけは……今日だけは違うんだ。


 生まれた想いに頭の芯を痺れさせたまま、口のなかで呼びかけた。今日だけは違う、そう、今日だけは。何故なら、ティセはもうリュイに出会ってしまった。沙羅樹の下の、不思議なの笛を鳴らす、暗緑の瞳をした旅人に、もう出会ってしまっていた。

 静けさに包まれた夜の窓辺で、刃のごとく冴え渡る月の光と夜気に肌を引き締める。心を澄ます。揺るぎないひと筋の直線が、心のなかに引かれていく。ティセはまなじりを決して、方位磁石を握り締める。




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