第一章 3

 跳ねた心臓は、次瞬、縮まりかえった。全身が萎縮し硬直する。ティセは激しく動揺し、緊張していた。冷や汗さえ流れた。そのくせ、目を逸らすことができない。少年の肌の色が強烈な印象をティセに与えていた。それはまるで「異国」「未知」というものを叩きつけるかのごとく目に映る。目も心も奪われて、ティセは釘付けになった。

 そのうえ、突然目の前に現れた外国人に対しどう接していいか、ティセにはまったく分からなかった。この村に外国人が訪れることなど、滅多にないのだから。暫し、ティセと少年は声もかけ合わず、歩み寄りもせず、ただお互いを凝視していた。

 ティセの動揺とは対照的に、少年は警戒の色も見せず、落ち着き払った様子で草の上に座っていた。長いこと様子を見ているうちに、ようやく、ティセはわずかに落ち着きを取り戻した。すると、胸の奥、腹の奥底から次々と沸き上がるものを感じた。一瞬にして沸点に到達したそれは好奇心、激しい動揺のあと、今度は怒濤のような好奇心がティセのなかで暴れ狂う。縮まりかえっていた心臓が、煮えたぎる鍋のなかの肉塊のように躍動する。

 隣国からイリスを目指す行商人が、村へ通りかかることは稀にある。けれど、その少年はどう見ても行商人ではなかった。村に外国人が越してきたという話など聞いたことがない、あるいは隣町に越してきて、ナルジャに足を伸ばしてみただけとも考えられた。どう接していいか見当もつかないのに、話しかけてみたくてたまらない。好奇心に焚きつけられて、ティセは腹の底から熱くなる。冷や汗の代わりに、興奮で汗がにじむ。葛藤、逡巡、やがて――――意を決した。

 外国人ったって同年代じゃないか、臆する必要なんか少しもない! 自らを鼓舞した。


 いちど拳を堅く握り締めてから、力を抜いた。動揺を悟られると格好が悪い、ティセは若干胸を張り、両手を腰にあて、さりげないふうを装って少年へ近づいた。そして、笑みも浮かべず、いくぶん顎を上げ、ぶっきらぼうに挨拶をする。

「こんちは」

 少年は口角をわずかに上げて「こんにちは」と返した。あきらかに作り笑みだ。その声は、静まりかえった冷たい水のおもてのように落ち着いていた。ティセは少したじろいだ。けれど、負けない、不遜な態度で挑んでいく。

「おまえ、どこの国のひと?」

「シュウ」

「どこからここに来たの?」

「ジャールから」

「ここでなにしてんの?」

「なにも。休憩しているだけだ」

 矢継ぎ早に投げた質問に、じつに手際良く簡略に答えるので、ティセは圧倒されてしまった。おまけに次の質問が出て来ない。胸を張りつつも、気持ちは徐々にひるんでいく。なにか言わなくてはと焦るのに、唇が固まって思うように動かない。

 ティセを気後れさせるのは、少年の手際の良さだけではなかった。近寄ってみてよく分かったが、少年はひどく整った顔立ちをしていた。いちど見つめたら奪われて、目を逸らせなくなりそうなほど端整な顔立ちだ。くっきりとした二重瞼の下に収まる、暗い緑を潜ませた瞳の色を見ていると、吸い込まれそうな気がして空恐ろしくなってくる。問いかけながら、ティセはなにかとても近寄りがたいものを少年に感じたのだ。

 沈黙が流れた。涼しさを増した風が吹き、木々がざわざわと音を立てる。長く伸びた少年の黒髪が、耳ぎわで揺れた。ただそれだけなのに、どことなく優美に見えて、ティセはますます気後れしていく。ぎこちなく沈黙が続いても少年は意に介さないのか、まるで表情を変えず、身じろぎもしなかった。完全に負けている、とティセは思った。

 いいや、まだだ、まだ負けない! 親近感が湧かなくたって、たかが同年代じゃないか、どうってことない! ティセの好奇心はまだ満たされない、再度、頭のなかで気焔を揚げた。

「……うちの村になにか用なの?」

「いや、用はない。通るだけだ。もっとも、今日はここで過ごすつもりだけれど」

 と、少年はいま座っている沙羅樹の下を指した。

「ここに!?」

 驚いた声を上げると、少年はわずかに眉をしかめた。

「問題が?」

 誰もいない休耕地に過ごしても、とくに問題にはならないだろう。それより、その発言のほうがティセには問題だった。いかにも訝しげに、少年へ尋ねる。

「おまえ、どこに住んでんの? ジャールに越してきたんじゃないのか」

 少年はひと呼吸置いてから、静かに答えた。

「旅をしているんだ。今日はここへ泊まって、明日はおそらくモーダに着く」

 思いも寄らない答えに、瞬時、頭のなかがまっしろになった。そして、無意識に突拍子もない大声を上げていた。

「た……旅――――――っ!!」

 静かな休耕地に奇声がこだまする。鴉が数羽、驚いたように飛び立った。けたたましい羽音のあとに、また静寂が訪れる。

 旅という言葉がティセに火を点けた。ふたたび噴き上がる好奇心、その他、自分自身にも定かでないあらゆる想いが一瞬にして湯気になり、ティセは耳から煙を噴いた気がした。動揺や緊張、気後れさえもすべて耳から出て行った。するともう、全身が好奇心の塊と化し、少年の真向かいにひざまずき前のめりになって、強迫するように尋問を開始していた。

「たたた、旅っ!? なんで? どうして? いつから? どこに向かってるの? だいたい旅……って、おまえ、いくつだよ?」

 蹴倒す勢いで猛然と攻められた少年は、それでもひるむことなく落ち着いた様子で答える。

「先月、十五になった」

「……じ、じゅうご~!?」

 へえぇぇぇぇ、とティセは胡座を組んで座る少年の頭から足の先までを瞠目して見入った。不躾なティセを、少年はその声と同様、冷たさを感じさせるほど静かな眼差しで見つめ返す。

 見栄や虚勢すら耳から出て行った。少年の前に改めて座り直すと、ティセは無意識にも素に戻り質問を続ける。

「おまえ名前は? 俺はティセ。ティセ・ビハール」

「リュイ」

「……リュイね。で、いつから旅してんの?」

「二年ほど前からだ」

「二年も!? 学校は?」

「中等部は行っていない。初等部は修めた」

「そりゃ義務教育だからな」

 リュイはわずかに間を置いてから、

「イリアではそうでも、シュウに義務教育はない」

「そうなんだ! へええ!」

 ティセはますます興味を募らせた。知らないことを山ほど知っているだろう、このリュイという少年に。

「おまえ、ひとりなの?」

「そう」

「……ずっと?」

「そう」

 ひとしきりかけた質問に、リュイは淡々と答えた。そのあいだ表情を少しも変えず、背筋をまっすぐ伸ばしたまま、無駄な身動きひとつしなかった。興味をそそられても、親しみは湧きそうにない。それでもティセは、心の底から感動、感激していた。……十五歳が、ずっとひとりで、二年も……頭のなかで幾度も噛みしめ、打ち震えた。

「……すごいな、おまえ」

 溜め息交じりに感歎の声を上げる。けれど、その称賛に対し、感じることはなにもないとでもいうように、リュイは黙っているだけだった。


 空の高みから鳶の鳴く声が聞こえた。それでようやく思い出す。

「そうだ、おまえさっき、笛かなにか吹いていなかった?」

 ああ、と曖昧な返事をして、リュイは襟もとに巻いた薄布の内側に右手を差し入れた。なかから出てきたものは、見たことのない形をした不思議な物体だった。リュイの手のひらにすっぽりと収まる小さなものに、ティセはまじまじと見入った。

 それは横笛に似ている。硝子でできているのか透明で、細い管のなかにやはり透明な薄い板が数枚、不規則に並んでいる。全体がわずかに弧を描き、ラッパのように先端が少しだけ広がっていた。いったいこんなものが音を出すのかと、訝しく思えた。しかし、リュイははっきりと「笛だ」と言った。

「……吹いてみていい?」

 リュイは暫し黙っていたが、無言のまま右手を差し出した。とても繊細なものに見えたので、ティセは恐る恐る受け取った。手に取ってみると、意外なほど頑丈だと分かった。歌口に唇をあて、息を吹き込んでみる。けれど、音は出ない。息の抜ける、なんの手応えもない音がしただけだった。首を傾げるティセに、リュイは告げる。

「きみには吹けない」

「なんで?」

「その笛は吹き手を選ぶ」

 ひどく不可解なことを言った。

「なに言ってんだよ。そんなことあるわけないだろ」

 からかっているだけだと思い、何度も息を吹き込んだ。が、やはり笛は少しも音を出さない。

「なにかコツがあるんだろう? 教えろよ」

「なにもない。本当に吹き手を選ぶんだ」

 声音も眼差しも変わらずそのままに、リュイは真面目に答える。ティセはかえって莫迦にされているように感じた。ふざけんなよ、とムキになって歌口に息を吹き込み続けたが、何度やっても同じだった。

 リュイはその様子を冷ややかに眺めていた。やがて、おもむろに手を伸ばし、ティセの手から笛をそっと取り上げた。浅黒い手を眼前にして、ティセは少しだけどきりとした。形の整った長い指がとても印象的だ。そのまま、リュイは歌口に唇をあてると目を閉じて、ふっと息を吹き込んだ。すると、笛は一瞬だけ弓を引いた擦弦楽器のように、短くも伸びやかな音を立てた。先ほど丘の上で耳にした、あの音だった。胸の奥がはっとした。リュイは目を開けて、あっさりと告げる。

「信じなくてもいい」

 そう言われると、逆に真実味を帯びたように感じられた。

「……ねえ、もう一回吹いてみてくれない?」

 リュイはなにも言わず静かに息を吸うと、目を閉じてもういちど笛を吹いた。今度は長く、息の続く限り。ティセは一心に聞き入った。

 高い空から降りてきたような音色。雲間から差す光の梯子を思わせる。秘密めいているのに、ひとのぬくもりにも似てどこかあたたかい。天人の羽衣が宙を舞うかのごとく、音は軽やかに響き渡る。そして、辺りの空気をほのかに染め上げていく、静寂の色に。耳を傾けていると、丘の上の突風にも掻き消されなかった心の靄が、少しずつ消え去っていくのを感じた。透き通る音色はゆっくりと肌に染み込み、心を平らかにしていく。このまま笛の音に身をゆだねていれば、やがて心のしじまが訪れる――――心地よく湿った深い森に抱かれて微睡むような、しじまへと導かれる。そんな気がした。これほどまでに穏やかな気持ちになったことが、いままであっただろうか。


 笛のに陶然としながら、ティセは目を閉じて笛を鳴らし続けるリュイに見入っていた。丈の長い上衣、脚衣とも白く、浅黒い肌にとても映えていた。襟もとに巻いた薄布は、この辺りでは見かけることのない型の格子柄をしている。無造作に束ねられた、わずかに波打つ長い黒髪も目を引いた。腰には長剣、軍靴に似た長靴、なにもかもがティセを惹きつけた。

 繊細さのある目鼻立ちはやや女性的といえたが、きつく張りつめた雪融け水のように引き締まった表情や雰囲気には、男らしい気迫を多分に感じる。肌の色が思わせるのだろうか、敏捷な野生動物に通じる野性味をそこはかとなく纏っていた。ティセはほとんど呆然と見つめていた。不思議な音色の笛を鳴らし、その音が創り上げていく静寂の風景に融け込んでいるのが、奇跡のようにも感じられた。吹き手を選ぶ――――そんな不可解な話を、信じてみたくなる。

 息が切れ、リュイは笛を吹くのをやめた。少し遠い目になって、つぶやくようにまた不可解なことを言う。

「この笛はまだ完全じゃない」

 ティセの怪訝な表情を認めて、続きを語り出す。

「笛はもうひとつある。一対の笛だから。僕はもうひとつの笛を探して旅をしている」

「二年も!?」

「そう。両親の遺言だから」

 孤児なんだ、ティセは頭のなかでつぶやいた。初めて、ほんのわずかだが親近感が湧いた、自分も父を亡くしているからだ。

「見つかりそうなの?」

「さあ」

 あきらめているのか、どうでもいいのか、まるで他人事みたいに答えた。それに……と、リュイは続ける。

「吹き手として、僕は甚だ未熟だから、そういう意味でも完全じゃない」

「それは下手くそってこと?」

 率直に尋ねれば、薄く微笑って「そう」と返す。今度は作り笑みではなさそうだった。

 周りにいる同年代と比べると、リュイは非常に大人びて見えた。十五歳と言っていたが、もう少し歳上だと思っていた。細身ではあるけれど体格がいい。子供の体躯特有のひ弱さがすでにほとんど感じられない。立ち上がれば、おそらく背も高いだろう。

 しかし、大人びて見えるのは外見的な意味だけではない。冷たく感じるほど冷静な眼差し、落ち着き払った物腰、感情のこもらない簡潔な言葉遣いと声音、ティセに大きな隔たりを覚えさせるのは、むしろその所作のほうだった。ひとつしか歳が違わないとはとても思えない、ティセは生まれてこのかた、作り笑みを浮かべたことなどいちどもない。自分や周りの同年代たちが普段しているような砕けた会話をするところなど、少しも想像できなかった。孤児だという話を聞かなかったら、親近感など微塵も覚えることはなかっただろう。ひとりで二年も旅をしていると、こんなに大人になるのだろうか。

「国を出てからどうやってここまで来たの? 旅の話、聞かせろよ」

 もとどおり笛を薄布の内側に仕舞うと、リュイはいままでの旅路を掻い摘んだ。知っている町の名も、初めて聞く町の名もあった。学校にある世界地図や、父の遺した古い地図を眺めるのが大好きなティセは、周りの誰よりも地理に詳しい。が、当然ながら、リュイはティセの知らない町や村をたくさん知っていた。それも知識としてではなく、体験として知っているのだ。知らない町の名を聞くだけで胸が高鳴った。想像すると、はち切れそうになった。そして、気が遠くなるほど、うらやましいと思った。……行きたい、俺も行ってみたい、この村のすべてを捨てて、出て行きたい! はち切れそうな胸の奥でティセは大声を上げる。


 想いは熱を帯びたつぶやきとなって唇から漏れた。

「……いいなぁ」

 楽しいことばかりじゃない、とリュイは安直に返す。

「そりゃあそうだろうけどさぁ……」

「危険なこともある」

 その言葉は逆にティセを刺激する。思わず身を乗り出して、

「たとえば!?」

「……山賊に出くわしたり、野犬に囲まれたり」

「山賊!? すっげー! 見てみたい!」

 なにを言われても興奮が冷めることはない。どんな負の要素を教えられても、いまのティセには効果がない。高まりはかえって増すばかりだ。それが分かったのか、リュイは冷ややかにティセを見るだけで、それ以上なにも言わなかった。

 沙羅樹から大きな葉が一枚ふたりのそばへ落ちてきて、ぱさりと音を立てた。ふと西の空を見れば、陽はもう沈みそうになっている。夕映えはやはりない。夜の気配を漂わせた冷たい風が吹き、すっかり熱くなったティセの頬を撫でていった。興奮を冷まし、優しく慰めるかのように。

「明日の朝、もう行っちゃうの?」

「そのつもりだ」

「そっか……」

 どことなく寂しさを孕んだ夕風と疲れたような陽の色が、ティセにしめやかな感情を呼び覚ませた。笛の音に消し去られたかに感じた灰色の靄が、心のなかにふたたび立ち込めていくのが分かる。ティセは草の上に視線を落とした。

 もっと話を聞いてみたい。そう思う反面、どんなに話を聞いたとしても、結局自分はどこへも行けない。いたずらに刺激されて激しく高揚したその分だけ、あとになって目の前の現実に落胆、絶望するだけなのだ。ティセにはよく分かっていた。リュイの話はとてつもなく興味深く、同時に、とてつもなく残酷だということを。自分から尋ねておいて勝手なことを思いながら、夕風にそよぐ雑草をただ眺めていた。

「俺、もう帰る」

 断ち切るように告げ、草の上から腰を上げた。リュイはなんの感慨もなさそうに、また作り笑みを薄く浮かべて「さよなら」とだけ返した。

「笛、見つかるといいな」

「ありがとう」

 ティセは来た道を返した。追い立てられるように暗くなる林を抜け、煮炊きの匂いがそこここから流れくる通りを、覚束ない足取りで歩いた。異国の少年と、不思議な笛のと、旅という言葉に酔ったように――――




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