第一章 5

 凛と冴える未明の空気を頬に感じながら、ティセは通りを歩いていた。うっすらとかかる朝靄のなか、できるだけ足音を立てずに、けれど可能なかぎり足早に。背負った頭陀袋の重さが、ティセ自身にも意外であるように思え、なんだか不思議な気がしていた。春とはいえ早朝の冷え込みはそれなりで、息はほのかに白かった。

 空はまだ暗い。すっかり西へ傾いた月が朱い光を放っている。農家の多いこの村のひとびとはやたらと早起きで、空が白み出してからではもうひと目についてしまう。鶏よりも先に起き、老人よりも早く外へ出なければ駄目なのだ。もっとも、ティセは一睡もしていない。あんな興奮状態で眠れるはずはない。それに、やらなければならないことが山とあった。母を起こさぬよう、少しも物音を立てずにすべてを成し遂げるのに、どれほど苦心したか。さながら夜盗のようだった。あれほど静かに行動できたことが自分でも信じられない。夜盗の才能があるのではないかと思えたくらいだ。

 そして、本当に夜盗のごとく、荷物を担ぎ、気配を消して通りを歩いている。ときおり、そこここにある家畜小屋から牛の寝言が上がり、まるで「見たぞ!」と言わんばかりで、ティセはそのたびに小さく飛び上がった。

 はずれの丘は越えず農道を行き、途中から林に入った。ここを突っ切るのが、あの休耕地への近道だ。林に入ったところで、東の空がわずかに朝の色に染まり始めた。手にした枝で蜘蛛の巣を払いながら、下草の朝露に脚衣を湿らせて、ティセはずんずん進んでいく。

 やがて、木々の間から休耕地が見えた。昨日と同じ、沙羅の大木の下にリュイはいた。ティセは安堵した。すでに出発している可能性もあったから。昨日出会ったときは、まっすぐにティセの姿を捉え、身じろぎもせず悠然と構えていたが、今朝は違った。いつでも立ち上がれる体勢で、右手を剣の柄にかけ、射るようにこちらを見つめていた。

 林のなかから現れたのがティセだと分かると、右手を柄から離し、昨日のように背筋をぴんと伸ばして胡座を組んだ。そして、例の眼差しでティセを見た。二度目でもちっとも親しみを覚えない……ティセは心で苦笑する。が、いまのティセにはそんなことは問題にならなかった。

 掘り返した地面に小さな焚き火が燻っていた。白湯を飲んでいたらしい、草の上に置かれたアルミの湯呑みから湯気が上がっている。

「おはよう。起きてたんだ」

 ティセの背にした荷物にはあきらかに注目していたが、それについてはなにも尋ねず、リュイはただ静かに「おはよう」と返した。さわやかさの欠片もない湿っぽい挨拶に、ティセはもういちど心で苦笑した。荷物を降ろし、勝手に真向かいに座わり込むと、手にしてきた紙の包みを開ける。昨日のおやつの揚げ菓子だ。右手でひとつつまんで、リュイへ差し出す。

「食えよ。腹減ってるだろ?」

 リュイはやはり冷ややかな目で揚げ菓子を凝視した。こんな怖い顔で揚げ菓子を見つめるやつはいない、とティセは少し呆れた。遠慮しているのか、なにかを勘ぐっているのか、なかなか受け取らない。ティセはその顔へ押しつけるようにして、

「食えよ」

 なかば無理やり受け取らせた。そして、空いた右手で自分の分を囓り始める。リュイは揚げ菓子を手にしたまま、それをほおばるティセを無言で見ていた。後者だ、思いきり勘ぐられている。たった三口で菓子を食べてしまうと、ティセは脚衣シャルワールの尻で指先をごしごしと拭いて、

「食えって!」

 強く促されて、ようやく口にした。それを見届けて――――というつもりでもなかったのだが、ティセは早速本題に取りかかる。一秒でも早くこの村から遠ざかったほうがいい、誰かに見つかったらおしまいだ。休耕地といっても、ひとが来ないとは限らないのだから。単刀直入に告げる。

「リュイ。俺もおまえと一緒に行きたいんだ」

 まっすぐに、暗緑を潜ませた瞳を見つめて言い切った。

「俺を一緒に連れていってくれ」

 眼前に迫るようにして、はっきりと口にした。鋭さを増したティセの黒い瞳と、リュイの冷静な瞳が真正面から衝突する。束の間、ふたりは見つめ合った。のち、リュイは揚げ菓子を持った手を、ティセの目の前へおもむろに突きだした。

「……な、なんだよ?」

「返す」

「いらねえよ! 食べかけ返すやつがあるか、普通!」

 呆れて怒鳴ると、それもそうだと思い直したのか、素直に続きを食べ始めた。美味いのか不味いのか、まるで分からない顔つきで。無言で食べ終えて、油に濡れた指先を白湯でさらりと洗ってしまうと、残りはひと息に飲み干した。そして、ティセと同じくらいはっきりと答えた。

「断る」

 もちろん、そう答えると思っていた。昨日出会ったばかりで、小一時間ほど話をした程度の相手なのだ、快諾されるわけがない。けれど、ティセは絶対に負けられない。

「頼む! お願いだよ! どうしても行きたいんだ。小さなころから旅に出るのが夢だったんだ。絶対に足手まといにはならない。お金はちゃんと持ってるし、健康にも自信がある。体力なんか売ってやりたいくらい有りあまってる! 俺は……そう、俺はおまえの最高の相棒になる自信がある!!」

 ティセは一気にまくしたてた。両の目を見据えて、熱っぽく意志を語った。リュイは秀眉をぴくりとも動かさず、すげなく即答する。

「断る」

 負けない、負けられない、絶対に負けられない。ティセはいよいよ前のめりになって懇願する。

「頼む、頼むってば! 心からお願いする!! こんな小さな村、出て行きたくてたまらないんだ。ずっとずっと夢だったんだよ。おまえがここに来たのは偶然じゃない、必然なんだ、旅の神さまが導いているんだっ!」

 ティセの目はどんどん鋭さを増していく。声も高く熱くなる。溢れ出るままに説得を試みた。なにを言っているのか自分でもよく分からなかった。旅の神さまなんて、陳腐なうえに取ってつけたようだと、言いながら思っていた。が、意外にもリュイはその言葉には反応した。

「導いている……」

 初めての手応えに、ティセは燃え立った。胸の奥から、全自分が応援の拍手を贈っている。その拍手の音が本当に耳に聞こえた気がした。

「そうだよ! 絶対にそうだ! じゃなかったら、こんな出会いはありえないっ!」

 がんばれ、がんばれティセ! 自分に声援を送りながら、ますます熱心に情熱的に迫る。けれど、その情熱とは対照的な冷淡さでもって、リュイは返す。

「断る」

 ティセは両の拳をきつく握った。

 空はすでに全体が白み始めていた。明けの明星も、西没の近い月も輝きを失いかけている。空気は朝の青さを帯びていた。鳥たちが一斉に朝の唄を歌い始める。ティセは焦り始めた。とりつくしまのない態度が憎たらしい。冷ややかな眼差しが腹立たしい。やたら整った顔には悪意すら感じた。

 顎を上げ、リュイを見下ろすようにして居丈高に問うた。

「どうして駄目なのか、わけを言え」

 憎しみがこもり始めたのを見て、リュイは短く溜め息をついた。

「きみには家族がいるだろう」

 この理由は予期していた。答えはすでに頭のなかの答案用紙に書き込んである。待ってましたとばかりに答える。

「いないんだ。俺もおまえと同じ、孤児だから」

 昨日話をした際、リュイはティセについてなにも尋ねなかった。ティセもまた、自分については名前以外なにひとつ語らなかった。本当にさいわいだった。自分の境遇について、昨晩こんなふうに捏造したのだ。やらなければならないことのひとつだった。

「俺の両親は幼いころ事故で亡くなったんだ。ひとりっこだし、親戚もいないから、そのあとは孤児院に入った。初等部は義務だから卒業したけど、中等部は行ってない。いまは小さな掘っ立て小屋で寝起きして、農家の手伝いなんかしながら寂しく暮らしてるんだ。仲の良い友達もいないし、こんな村にいたってしかたないんだよ」

 嘘は得意でない。わざとらしくなっていやしないかと、ティセは内心大汗を掻きつつ用意した台詞を綴った。孤児であることを前面に出して共感を呼ぶつもりだった。が、リュイの心には響かなかったようで、相哀れむ様子は微塵も見せない。というより、あきらかにリュイは疑っていた。洞察するような目つきで、上から下まで調べ上げるふうにティセを眺めた。声を低くして、

「孤児……きみが?」

「なんで疑うんだよ! なんなら墓地に案内しようか!?」

 両腕を広げ、叩きつけるようにでっち上げた。リュイは納得したのかしないのか、それ以上はなにも尋ねない。果たして、リュイは素っ気なく告げる。

「けれど、断る」

 頭にかーっと血が上った。殴りつけたい衝動にかられ、拳を握ってぶるぶる震えた。ティセは叫ぶ。

「なんでだよっ!?」

 リュイはもう取り合わない。無視して、アルミの湯呑みを頭陀袋に仕舞うと、すっと立ち上がった。

「おい! 聞いてんのかよ!」

 焚き火の燻りを踏みつけて消してしまう。ティセを見下ろして、リュイは答えた。

「相棒はいらない。自分ひとりで精一杯だ」

 これ以上ないほどきっぱりと拒絶されて、ティセは唇を噛みしめる。

「揚げ菓子をありがとう」

 さらり言い残し、リュイは沙羅樹の下から颯爽と歩き出した。襟もとに巻いた薄布の裾が、ひらりとひるがえる。それが厭味なほど優雅に映った。憎たらしくて、憤死しそうだ。鼻のつけ根に思いきり皺を寄せ、ティセは低く呻いた。

「……くっそうぅぅぅ……」

 怒りに震える両手を必死になだめ、歩き出したリュイの後ろ姿を焼き焦がす勢いで睨めつける。やけっぱちに頭をボリボリと乱暴に掻きむしったのち、

 負けない、負けない、俺は負けない。絶対に、負けないんだ――――!!

 呪いのようにつぶやいて、ばっと立ち上がる。頭陀袋を勇ましく担ぎ上げ、リュイのあとについて歩き始めた。

 リュイは振り向きもせずに言う。

「付いて来ないでくれないか」

「いやだっ!」

「困っているんだ」

「いやだっ!」

「……迷惑なんだ」

「いやだっ!」

 リュイは立ち止まり、ようやく振り返った。強情の権化となったティセを一瞥する。そして、いっそう冷ややかな声音で言い放った。

「それなら、ひとりで行けばいい。そう、男ならひとりで旅をしろ」

 我が意を得たり、ティセは歓喜に貫かれた。少年だと思われていると、ほぼ確信はしていた。リュイの言葉はそれを確定し、さらに、決意の焔に最後の薪をくべてしまった。もしも見抜かれていたら、こんな強情は張れなかった。付いて行くのを許された、ティセはリュイの言葉をまったく逆に受け取っていた。ふたたび歩き出したリュイの後ろ姿を見つめ、勝手なことを頭でつぶやく。

 あいにく俺は男じゃないんだ。しかも残念ながら、そこまでの勇気は持ち合わせていないんだ。だからおまえに付いていく。犬にでも噛まれたと思って、あきらめろ。

 火の粉を散らしめらめらと燃え立つティセは、いまや火柱そのものだ。

 空は薄明かりに包まれた。月は輝きを完全に失い、明けの明星はもう見えない。朝靄が微風に流され消えていく。朝の空気の青さが抜けて、木々が、行く道が、リュイの後ろ姿が鮮明になる。

 隣町から歩いてきたリュイは、村のなかはもう通らない。このまま奥の村へと進む。まなこを凝らしたティセの視界に、リュイの後ろ姿がくっきりと浮かび上がる。その姿を見失うことのないように、ティセは瞬きさえしないつもりだ。まっすぐに目標を捉えたティセの黒い瞳は、本物の少年よりもなお、強く凛々しい。自室に書き残してきた母への手紙を思い出す。


 ――昨日会った旅人と行きます。いつか必ず帰るから、どうか探さないでください――


 太陽が、いま昇る。新しい日々が、いま始まる。道の行く先に、新しい世界が広がっていく。まだ知らないあらゆるものが、新しい地平線が、ティセを待っている。



         〈第一章 了〉



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